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(画像お借りしています)数週間前に人生初!の江ノ島に行ってきました。観光で「鎌倉」までは何度も行っていますが「江ノ島」は今まで観光のイメージがなくサーファーが楽しむ場所かな?と思ってたので行きそびれていましたが実は江ノ島って観光スポットが色々あるんですよね。(画像お借りしています)江ノ電に乗るのも何十年ぶりでした。江ノ電の車窓から見えてくる江ノ島に興奮。「あ、江ノ島が見える!」江ノ島駅で下車。江ノ島駅から真っすぐに
仁和寺は、宇多天皇・祖父の敦実親王ゆかりの寺院。敦実親王の三男源雅信、その娘源倫子は仁和寺に葬られました。紫式部の『源氏物語』~若菜上~で光源氏の兄・朱雀院が出家した寺は、仁和寺がモデルらしい。鎌倉時代には、源頼朝の息子貞暁が仁和寺の法眼隆暁に弟子入りしています。仁和寺☆☆☆☆☆
13日、鎌倉幕府を開いた源頼朝公墓前祭に光くんが参列しました。*************************源頼朝公の墓(法華堂跡)は鶴岡八幡宮から10分ほど、大倉幕府があったとされる一帯を見下ろす北側の山腹にある。若宮大路の喧騒とは離れ、ひっそりと佇んでいる。頼朝の没年齢と同じ51段の階段を上がるとすぐ石塔がある。墓前祭は「源頼朝会」により毎年4月14日に執り行われている。頼朝会は毎月清掃活動や草むしりなど行って、お墓を守って下さっている方々だ。開始の午前10時に、白装束の鶴
父の伊東祐親が大番役で在京している間に、流人だった源頼朝と恋仲となった八重姫。千鶴丸という男児も授かりますが・・・それを知った父祐親は許さず、千鶴丸を殺害し、八重姫を伊東館に幽閉しました。頼朝は北条時政を頼ったようです。嘆き悲しみの幽閉生活を送った八重姫ですが、頼朝に会いたい一心で伊東館を抜け出して北条館へと向かいます。しかし、頼朝は時政の娘政子と結ばれていました。傷心の八重姫は、真珠ヶ淵に身を投げたのだといいます。八重姫梯子供養は、「せめて梯子あったら救うことができたのに」という
鶴岡八幡宮の本殿のお参り後は、横にある丸山稲荷神社へ。おおぉーお稲荷様っぽい白い桜。ここには、五条悟と呼んでいる(私が勝手に)イケメン狛狐さんがいらっしゃるの♡イケメンきたーーーー!!!(なぜ五条悟か?お顔がイケメンで、お耳が、五条悟の領域展開《無量空処》の指の形に見えるから)おーー、どなたかに、白い桜を飾ってもらってらっしゃる。と、正面見たら、花の冠までーーいいっすー!!!ウカ様、お参りとお花見にきましたー。なーんか不思議と、お参りするとウキウキする、やっぱり
あらためて『平家物語』を復習したくて、吉野敬介さんの『1日で読める平家物語』を読んでみました。考えてみれば、高校の古典の授業で『平家物語』の一部分(たしか「敦盛の最期」だったと記憶してるのですが)を教材として勉強しましたが、通して読んだことってなかったような…。著者の吉野敬介さんは予備校の先生だそうで、語り口はわかりやすく読みやすかったです。ただ、「1日で読める」と銘打ってありますが、おそらく多くの方は1日では読めないのでは?と思えるボリュームでした。読んだのはこの本
先週のお参り&花見の時↓『弁天様•北条政子様•源頼朝様〜鶴岡八幡宮〜』鶴岡八幡宮着いたら、大好きな弁天様へ♡きゃーーー桜が咲いて、かわいさ、マシマシやー♡『おはようございます、サラスワさまー。桜を一緒に見ましょうー』と、一方的に…ameblo.jp弁天様と、政子様と、頼朝様に、一緒にお花見しましょう、とお誘いした時に、そこに咲いている桜が、鞠のようでかわいくて、『少しの間、フチ子さんを置かせて写真撮らせて下さい』と、桜さんにお願いして、撮影🤍きゃわいすぎー蝶々のフチ子ー🩷
伊豆山神社の別当坊だった寺院般若院を訪ねてみました【寺院】真言宗走湯山般若院(そうとうざんはんにゃいん)【神社】伊豆山神社【場所】静岡県熱海市伊豆山【月日】2024年4月10日(水曜日)【天候】晴れ17℃伊豆山温泉の宿にチェックインした後、般若院と伊豆山神社へ参詣した。般若院は宿から徒歩10分程の距離にある。まず般若院に参詣しその後伊豆山神社へ寄ろうとのことで、夕食前のブラ歩きに出かけたのだ。般若院は真言宗の古刹でその始まりは836年(承和3年)と伝えられる。真言宗伊豆派
昨日は三島大社のライトアップに行って来ました。少し散り初めてましたが綺麗でした。三島大社三嶋大社三嶋大社は、古くから伊豆国一の宮として栄え、源頼朝が源氏再興を祈願したことでも知られています。www.mishimataisha.or.jp
英傑の日本史源平争乱編(角川文庫)Amazon(アマゾン)英傑の日本史源平争乱編井沢元彦あらすじ井沢元彦がダイナミックに歴史を解読!源義経・平清盛・源頼朝・武蔵坊弁慶・北条政子――。日本史上有数の大変革期を戦った源氏と平氏。「歴史の神」に選ばれた英傑たちのドラマと、定説からは見えてこない歴史をダイナミックに読み解く。グッときたポイント若い頃は、歴史を真面目に勉強してこなかった。歴史を勉強し始めたのは、ここ最近の事。この本は年号で切り分けるのでなく、人物毎に切り分ける
大姫を失った源頼朝は三幡を入内させようとしたものの入内させられずにおり、様々な手段を練って朝廷に食い込もうとしているものの上手くいかずにいる。これは源頼朝だけの話ではない。九条兼実への反発で集まった面々が、いざ九条兼実を関白から引きずり下ろすのに成功したあと、明瞭な権力の構築をできずにいる。誰もが自分の、あるいは自派の拡張を狙って他者を牽制しあう状況が前年一一月からずっと続いており、源頼朝が入り込む隙間などなかったのだ。何だかんだ言って九条兼実のもとに権力が集中していたのは、敵を多く生み出
にほんブログ村にほんブログ村【独自】道立近代美術館道が改修などの整備方針まとめる|NHK北海道のニュース【NHK】老朽化が進む道立近代美術館について、道は改修や建て替えなどの整備方針をまとめました。今後は試算した費用や環境への影響などを踏まえ整備計画を…www3.nhk.or.jp【ジブリパークとジブリ展】ジブリパーク誕生の舞台裏を紹介する展覧会が「新潟県立近代美術館」で開幕2022年から全国を巡回している『ジブリパークとジブリ展』が新潟県にやってくる。「ジブリパーク」は2022
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しかし、建久八(一一九七)年九月一〇日、藤原範季の娘の藤原重子が後鳥羽天皇の皇子を産んだことで、藤原範季は土御門通親に続いて後鳥羽天皇の皇子の祖父となった。これで話はややこしくなった。藤原範季は藤原氏であるが藤原北家の人物ではなく藤原南家の人物である。もともとは後白河法皇に仕える蔵人であり、平治の乱の後は各地の国司を歴任する身になっていた。ここまではまだいい。この人のキャリアには三つ問題があった。一つは平治の乱の後で源範頼を引き取って養育するようになったこと。二つ目は安元元(一
江戸時代、豪雨により一晩で本流の大場川の川床が削られ境川との段差ができたため・境川の水流が枯れたと言われています・その、大場川(だいばがわ)支流の境川(さかいがわ)の探索です・・境川を検索したところ地図がありました(農兵節と三島女郎衆)さんよりお借りしました・青い線がもともとの境川だそうです・今回は橙色の円内の場所のみ探索です・その上流はスルーします・2月4日ファミリーマート(元サークルK)に駐車しお買い物・その後、地図を頼りにキョロ
姉埼神社日本武尊が東征のおり、海路の安全を祈って志那闘弁命シナトベノミコト(風神)を祀ったのがはじまりなそうな縁起には平将門や源頼朝の名も出てくる由緒のある神社です入り口脇に盛り上がりがあるけど、これは古墳ではないのかなその脇を通って更に山奥にしかし、あまりの茂みに引き返すことになりました裏に回ってこの右手の脇道を行く事にする釈迦山古墳でしょ4世紀前葉の全長86mの前方後円墳高さ前方部6mと後円部10mで高低差が4mくびれ部上に横切るように歩道が
7日(日)鎌倉に行ってきました(鎌倉には今年8回目の訪問になります。)当日は北鎌倉駅下車、材木座の光明寺まで歩きました。今回は鶴岡八幡宮の東鳥居から歩いて5分、大蔵幕府跡付近の桜の模様です✨ここからは一本道(法華堂跡(源頼朝墓)はスルーします。)一週間前に訪れた際は、一部の枝で咲き始めでした。今回は晴れた日に満開の桜を見ることが出来ました✨左へ曲がると法華堂跡(源頼朝墓)です。このまま、真っ直ぐ進むと・・・清泉小学校前✨昨年は確か、曇り空でした。この通りは荏柄天神社や鎌倉宮
この時代の貴族達は、源頼朝が大姫を亡くしても自分の娘の入内を諦めないでいること、また、源頼朝がこの時代の最大の武力を有していることも熟知しているが、源頼朝の武力を背景に源頼朝の要望に屈するようでは貴族ではない。貴族というものは、良く言えば百戦錬磨、普通に考えれば底意地が悪い存在である。源頼朝が自分の娘を入内させようとしている状況とは源頼朝にとって現在の立場が良好とは言えない状況であることを意味し、源頼朝の意向を後回しにして自分の娘を後鳥羽天皇のもとに入内させ、土御門通親と同様の立場、あるいは、
江戸時代からの日光道中と越谷宿が残っています。東武線で越谷駅下車しました。(現在の越谷駅)越谷駅東口をでて左にあるきます。蔵屋敷は越谷名物を販売をしています。越谷宿の古民家や宿場の街遊びはいかがですか。古民家も保存が難しくなりだいぶ減りました。当時の日光道中ですが現在は車🚗も多く、歩くときは、お気をつけ下さい。近藤勇が流山から板橋の途中に宿泊したとか。上記のお宅金物屋さんを営業されてます当時からは代替わりしていますので現在は知り合いのお宅ですが、何年か前に知れわた
こんにちはサーモンです。コンクールとか関係ない世界で、ゆる~くバイオリンをイクラ(小2娘)に習わせています。同級生と楽しく音楽できる環境を考えて、中学受験を検討中サーモンの家族紹介鎌倉に行きました。『鎌倉行く?』こんにちはサーモンです。コンクールとか関係ない世界で、ゆる~くバイオリンをイクラ(小2娘)に習わせています。同級生と楽しく音楽できる環境を考えて、中学受…ameblo.jp多少寝坊しながらも鎌倉に行ってきました。銭洗弁天お金洗ってる写真な
ソメイヨシノが満開になった三嶋大社へ行きました。日曜日の昼頃なので、沢山の花見客で混雑していました。大鳥居をくぐり抜け、参道を進みます。谷田部盛治像本殿今年も三嶋大社の満開の桜が見れました。日本人には、桜が似合う。桜咲く季節は心が和む。三嶋大社ホームページ↓三嶋大社三嶋大社は、古くから伊豆国一の宮として栄え、源頼朝が源氏再興を祈願したことでも知られています。www.mishimataisha.or.jp三嶋大社桜開花情報↓令和6年桜の開花情報2月の寒桜を皮切りに、
鶴岡八幡宮着いたら、大好きな弁天様へ♡きゃーーー桜が咲いて、かわいさ、マシマシやー♡『おはようございます、サラスワさまー。桜を一緒に見ましょうー』と、一方的に、お誘い。ここの後ろには、【政子石】という、石があって、頼朝様が、政子様の安産祈願をされた石とか?私は、勝手に、政子様が、座ってらっしゃるていで、いつも、話しかけてる。笑『政子さまー、桜がきれいだから、弁天様と、政子様と、頼朝様もお誘いして、一緒に桜を見ましょうー』と、また、一方的にお誘い!!ここの桜、かわいい
慈円は愚管抄にて、大姫を失った源頼朝が、大姫の妹である三幡を入内させようと画策したと記述した。しかし、吾妻鏡の欠落もあって、三幡という女性についての記録は乏しい。文治二(一一八六)年生まれではあることはわかっているものの、吾妻鏡の文治二(一一八六)年の記事のどこを探しても三幡という女性が登場することはない。また、北条政子の産んだ女児であることも判明しているのだが、この年に北条政子が妊娠していることの記録も出産したことの記録も存在しない。三幡の記録が登場しないのはその後も同じで、建久六(一一
池上本門寺の後、東急池上線の洗足池で途中下車洗足池公園の桜を見てまいりました。駅の目の前が洗足池公園です。洗足池公園は東京都指定名勝となっていて江戸時代歌川広重の江戸百景にも選ばれていました。公園の桜は見頃をむかえ池の周りを桜を見ながら一周りしてまいりました。池月橋公園の西のほとりには、千束八幡神社があります。千束八幡神社は860年に大分宇佐八幡から分霊され、千束郷の総鎮守として建立されました。源頼朝の旗揚げの地との伝承があり旗揚げ八幡とも呼ばれていま
タイムトラベラーが鎌倉時代、鎌倉市街地に入り、幕府を訪問しようとしたとしよう。幕府とは将軍の居館を意味する。近くまで来たはずだが、どこにあるか分からない。何せ現代と違って看板、案内板の類が全くないからだ。仕方なく、通行人に幕府はどこですか?と尋ねる。すると数分で大勢の武士が集まってきて、彼はどこかに連行されるはずだ。帰ってこない所を見ると、彼は斬られたかもしれない。幕府という言葉は元々中国の戦国時代に由来し、将軍が陣地を張る場所を指していた。幕=テント、府=軍事機関とい
4月1日の事新年度にもなったので、神社参拝仕事前に渋谷にある金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)へ桜が綺麗でした。源頼朝にゆかりのある金王桜波乱の2024年度の始まり。。。なんとか乗り切らなきゃ練習量が、かなり減るかもしれない。。。エイプリルフールになると良いんだけど。。。陽光桜はかなり散ってしまいました。。。
日光に大沢宿の名みつけました。元和年間に大沢御殿が建造された。故郷の栃木県大沢御殿が居住地の越ヶ谷に越ヶ谷御殿歳を重ねると、故郷の記事が懐かしくなります。越ヶ谷の大沢加宿は何回も行きましたが、栃木の大沢宿は残念ながら、ネットの記事をお借りします。下野国河内郡にあった宿場町で大沢村と呼ばれていたが、元和3年(1617年)に徳川家康の日光鎮座に伴って大沢宿になった元和年間には大沢御殿が建造され徳川将軍家の日光参詣に宿泊所として使用された。その後一旦処分されて再造営
いま待ち遠しいことは?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようなし。【記念日】タイヤの日【今日の誕生日】源頼朝(1147年~1199年1月13日)初代鎌倉幕府将軍黒川紀章(1934年~2007年10月12日)建築家生田悦子さん(1947年)女優千昌夫さん(1947年)演歌歌手桃井かおりさん(1951年)女優萩原流行さん(1953年~2005年4月22日)俳優田中好子さん(1956年~2011年4月21日)女優、キャンディーズの元メンバー森下愛子さん(1
大姫は治承二(一一七八)年に源頼朝の娘として生まれ、六歳のときに木曾義仲の後継者であるはずの源義高と婚約しており、このまま年月を重ねれば源義高との結婚生活が待っているはずであった。しかし、木曾義仲が討ち取られた後に源義高も誅殺されると、その瞬間に大姫の人生は終わってしまった。無理もない。現在の学齢でいくと小学二年生から三年生だ。その年齢の少女が、将来の結婚相手と考えていた源義高の死を知った、それも、他ならぬ父の命令で殺害されたのである。源義高の死を知った瞬間から大姫は病床に伏すようになり、
前回、示しましたように本ブログ「名告り」を「木曽義仲の最期」として語られる最後の戦に出陣する源義仲の名告り110字程度に焦点を絞りました。テキストは前回と同じく『平家物語二』(日本古典文学全集30、小学館、1975年)を用います。適宜、私的に漢字を宛て、原文に振られたルビは現代仮名遣いに改めています。◆鐙(ルビ:あぶみ)踏ンばり立ちあがり、大音声(ルビ:だいおんじょう)を上げて名のりけるは、「昔は聞きけん物を、木曽の冠者、今は見るらん、左馬頭(ルビ:さまのかみ)兼