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一日の終わりに哲学で死生観を深めるひと時。昨日の令和哲学カフェは、喜多島真由美さんによる「私たちは生老病死を超えて不生不滅で生きる新人類になれるのか」4日日。テーマは「どのように生きるべきか~自由選択意志と決定論〜」でした。人生が変わるとは、問いが変わること。欲望が変わること。今の人類を代表する欲望は、身体や脳の機械化を通した不老不死でしょう。それは、人類が古代から追い求めた欲望でもあると思います。自分が生きているというところから出発した場合、不老不死を目指します
ベストセラーになったらしい『動的平衡』の続編。これも旧版で読んだ。今回のテーマは「生命の自由」或いはむしろ「自由としての生命」ということだ。生命のリズムに音楽の起源を求め、自由としての生命の営みを変奏曲のイメージで語るという叙述の流れが美しい。例えば、グールドやジャコブのように、世界には自身研究者でありながら優れた書き手でもあるサイエンス・ライターがいるが、福岡がそれに列なっていることは間違いがない。僕たちはDNAを生命のプログラミングだと思いなす。しかし、福岡はそうではないと云う。それは
運命論とか決定論が嫌いだ。自分に関する事柄が、あらかじめ決定されていたものだなんて吐き気がする。僕は選んでここにいる。ただ、自分の産まれた場所、環境によって、進むことのできる選択肢は制限される。可能性は有限だ。『努力してできないことはない』なんていう言葉があるが、極論としてはそうだろうと思う。ただ、この言葉はあくまで”可能性として提示ができるものの範囲内であれば”というオマケをつけないと成立しない。例えば、頑張れば僕は今から総理大臣になれるかもしれないが、いくら頑張っても学
3大いなる章3-6ザビヤわたしが聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)は王舎城の竹園林にある栗鼠飼養の所に住んでおられた。そのとき遍歴の行者サビヤに、昔の血縁者であるが(今は神となっている)一人の神が質問を発した、──「サビヤよ。<道の人>であろうとも、バラモンであろうとも、汝が質問したときに明確に答えることのできる人がいるならば、汝はその人のもとで清らかな行いを修めなさい」と。そこで遍歴の行者サビヤは、その神からそれらの質問を受けて、次の[六師]のもとに至って質問を発し
●精神は脳の物理的基盤の上に成立しており、対応する物理的状態が存在する脳は精神の働きが産み出される場を形成するものです。私という主体は、物質的には肉体と脳により支えられていますが、さらに私という意識を含んでおり、様々な概念を使って思考活動をしてます。精神は、小説を読んだ時の読者の頭の中に描かれたイメージと同様に、脳により生み出される観念であり内容を持っており、その時の精神に対応した脳の状態そのものではありません。その意味では精神の内容は物理的に存在するものとは言えません。しかし、私の精神は、
哲学の難題「私たちが出会っているのは偶然なのか。必然なのか。」それを拡大してみたら、「自由意志なのか、決定論なのか。」実際に調べてみたら、こういう記事を見つけました。1.この世界に自由意志は存在しており、それゆえこの世界は決定論的世界ではないと考えるのが、「リバタリアニズム(libertarianism)」である。それに対し、2.この世界は決定論的世界であり、それゆえこの世界に自由意志は存在しないと考えるのが、「強い決定論(harddeterminism)」である。そして両立論の
昨日の令和哲学カフェはニーチェを中心として、哲学とは何なのか、観点なのか前半戦のまとめとして、質問道場でした。必然か偶然か?もっと拡張すれば、決定論か自由意思かの問題にもつながります。哲学の発展が科学の発展スピードに負けている理由とは?私が見ているハンカチの場合、普通は私が認識主体でハンカチが認識対象だと普通は思います。カントが発見したのは認識形式。認識主体と認識形式が出会って、私やハンカチなどの認識結果物が生まれます。現実は現象。科学の世界は認識の結果物を開発します
おはようございます。宇宙物理学者のスチーブン・ゾーキングこと、トリです(パラレルワールドのどこかで、またお会いしましょう)。昨日の記事で、決定論の話をしていた。本気でそういう話しをしようとすると、実際のところ、物理学とか哲学・宗教の領域にまたがる議論になり、トリの手には負えない。大雑把に言うと、「因果的決定論」と「運命論」は違うのだという。もうすでに、ちょっと何言ってるか分からない。だから、話題をずらす。何故、こういう話を書くのかというと、とある場所でとある人物と議論?をし
おはようございます。チケットのとれない講談師・神田薄山こと、トリです(そもそもチケットを売っていない)。「講釈師、見てきたような嘘を言い」ということばがある。あまりにも真に迫った情景描写をするため、つい、「見たんか?」と言いたくもなるのだろう。松之丞時代の神田伯山が、宮本武蔵と宍戸梅件の決闘場面を語るところなどを見ていると、確かに、見てきたような迫真の描写である。それは演芸の世界だから良いのだが、真面目な歴史叙述となると、小説的な描写は好まれないことが多い。「好き勝
vol.1029不思議なパラドックス仮にタイムマシンが存在したとしようその時、もし、あなたが過去の世界にタイムトラベルして、祖母に出会う前の祖父を殺害したらどうなるだろう?」もし祖父の殺害に成功した場合→この時点であなたの両親のいずれかがこの世に生を受けない→従って、あなたはこの世に存在しないことになるそうなるとあなたは存在しないわけだからタイムマシンには乗れないし祖父を殺害でき
ご訪問ありがとうございます。コロナに大きな影響を与えている中、この対応をどうするのか?かなりトップの動向が大切な時期が続いています。数日の違いでサンフランシスコは、ニューヨークよりも人口が多いのにかかわらず、COXID19を発症している人が、ものすごく少なく抑えられています。コロナウィルスが、世界をこれだけ騒がしている中で、この現実は決定論で成り立つのか?自由意志で成り立つのか?ということを、考えさせられます。私が尊敬するNoh・Jesuさんは、ものすごく深い
東野圭吾の同名ベストセラー小説を、「神様のカルテ」「謎解きはディナーのあとで」の櫻井翔主演で映画化したサスペンスミステリー。とうてい実行不可能と思われる連続殺人事件の謎に挑む地球化学教授が、自然現象を予言する謎めいたヒロインの存在に導かれてたどり着く驚愕の真実を描く。共演は「海街diary」「三度目の殺人」の広瀬すず、福士蒼汰、豊川悦司、玉木宏ほか。監督は「ヤッターマン」以来、櫻井翔とのタッグとなる三池崇史。ある日、男性が温泉地で硫化水素中毒で死亡する。警察の依頼で現場を調査
テッド・チャンの最新短編集『息吹』を読了しました。相変わらず、最新の科学的知見や未来予測をもとに、人間心理の深層に迫る傑作揃いでした。テッド・チャンは、ヒットした映画『メッセージ』の原作である『あなたの人生の物語』という短編集でデビューし、いきなり数々の文学賞を総なめにしてベストセラーを記録した中国系アメリカ人のSF作家です。作品は、SFというジャンルに単純に閉じ込めていることが不可能な、人生や哲学に関する深い洞察と問いかけを含んでいます。最先端SFとしての難解さは多少ありますが、それ
〈【7-⑯’】「歴史的存在論」について【Ⅱ】からの続き〉〇△◆□●△■◇●△■〇△◆□●△■◇●【関連記事】☆【7-⑬】問われる❝科学的客観性❞の神格性~「パラダイム論」と「全体論」と「歴史的存在論」と~☆【7-⑮】「歴史的存在論」について【Ⅰ】※引用文中の太字・色彩・下線・フォント拡大での強調は、引用者によるものです。引用文中の斜体は、原文では傍点で強調されています。〇△◆□●△■◇●△■〇△◆□●△■◇●‟20世紀物理学の概念史で最大の出来事は、「この世界は決定論的では
ご回答ありがとうございます。「散逸構造の理論」の話を差し置いて、レスする失礼をお赦しください。まず、物理学の法則、複雑系の物理学について、お聞きします。それ(時間の矢の存在)は、時間は、エントロピーの増大(熱力学)によって確実な「矢」を持っているという理論ですか?また、第二の質問なんですが、加藤文元氏の数学の本を読むと、数学というのは、モデルである。「発明」である(新書「数学する精神」にあるゼノンの矢の反論にあります)と語っています。それと、ホーキングの『モデル』は同じことを言って
決定論と偶然論でニーチェの超人は、決定論でないと言った。また、ニーチェの超人は、自由意志に基づいた結果ではないか?と書いた。ニーチェの発言としては、実はそれは間違っていて、超人が創造的な、支配的な行動をとってゆくは、自由意志に基づいたものではないと言った。神の意思ではなく、人間の意思ではあるが、自由な意思ではなく「力への意思」という本能的に備わったものによって、超人は行動するとした。「生きることは、活力を放出しようと意志することである」ということで超人に限らず、人間の行動の動機はここに
前回、大人になってからの幼子の幸せの追求は、偶然論(自由意志)の基づくもので、決定論(必然)ではないとした。一方、本物の幼子は、決定論(必然)に基づいている。決定論というのは、無我の世界でなし得るものといえるし、偶然論(自由意志)は自我の世界から生まれると言える。だから、大人になって幼子の幸せを追求することは、「自ら自ずから然るよう計らう」(無作の作)といえる。この点で、ニーチェの考えは禅に通ずるものがある。要はニーチェにおいても悟りが必要なのではないか?禅における三昧の状態は、幼
金融系の会社をしている、桁外れに成功している、実業家の方の話を聞くことがありました。今どきなんで、IT技術を駆使してのビジネス。仕事の中にアナログな要素、ロー・テクの要素はありません。しかし、対人関係はあるわけで、会ってみないと分からないが残るそうです。さもありなん。「腹を割って話せば」とは違う。人と言う存在の神秘、と言うと大袈裟でしょうか。唯物論では語れない存在。唯心論でも語りにくい。決定論には必ず欠けている視点。やってみなけりゃ分からない(やってみたの?)実際は違う見て
哲学の言葉で、物事が必然的に決定されることを決定論、そうでなくその時々の自由な意思で決まることを偶然論と言うそうだ。人間の行為は、決定論と偶然論が混ざっているといえる。すべてが決定論とはいえない。人間は能力を後天的に獲得できるし、他人や物との縁起に従って行動が決められる。すべてが必然ではなく、縁起における自己の関連性を決めているのは、自由意志である。すべて偶然論とは言えない。たとえば、人間は生まれてきた限り、死ぬことは運命づけられているし、他の動物と同様、本能という必然的な衝動により、
こっわ〜、この映画。2009年キャメロン・ディアス主演の「運命のボタン」いま喉から手が出るほど欲しいもの(状況とか条件とか含め)ってありますか?それを目の前にチラつかされてその代償が考えうる限りの地獄だとしたらそれでも欲しい??地獄と分かっても一瞬の天国を選ぶ?そのどちらでもない今までの延長を選ぶ?それとも?私たちは多かれ少なかれそんな選択肢を常に目の前にぶら下げられています。・やりたくないことだけど、心を殺してでもやらないとお金をもらえないからや
【令和哲学23】AI時代、哲学の最大の難題である「決定論」と「自由意志論」を融合する令和哲学今日はNohJesuオフィシャルブログの記事を紹介します。人間は機械的条件反射しかできず、思った通りに行動していない。行動したことを正当化している。かなりショッキングでした。行動を生み出す大元から変化させなければなりません。そのためには心と脳の関係性を明確にすること、これが人工知能時代に必要な教育だと感じました。そしてこの危機を大反転させる日本の可能性にワクワクしまし
共感覚とは、端的に言うと感覚の混線である。共感覚が発現するメカニズムの一つとして、人は皆生まれた時は共感覚者で、生後3ヵ月までの赤ん坊には異なる感覚の間に神経結合があり、3ヵ月を過ぎると成長過程において神経経路が刈り込まれるが、この経路が残された人が共感覚者になるという説がある。その仮説を元に考えてみたのだが、もしかしたら人の心、意識や感覚といったものは元々全てが繋がった一体のものであり、一個の人として成長する過程で、一個の肉体の中に於いて、(上辺だけ)切り離されて繋がらないようにな
この世はほぼ法則で成り立っている。自然界を眺めてみても、フィボナッチ数列、黄金比率、π、eなど。そしてまた歴史の流れを振り返った時、そこにも人知を超えた法則を見る。人と人とは1秒の狂いなく出会い、事件を起こして歴史を作り出している。まるでこの世は、精密な機械が作り出したかのようだ。先日、ノジェス氏に哲学の難題「自由意志論か、決定論か」をどう解決するか?について質問を投げられた。自然界や歴史の法則性を見ると、この世は決定論のように思う。しかしそれでは、たとえ人を傷つけても、それは決定論
ダイアー博士が人生の諸問題についてエイブラハムに問いかける対談集。さらりとすごい宇宙目線で答えるエイブラハム。運命は決まった選択しかできないのか(doomed)?それとも選択可能(makechoice)なのか?これはだれでもきいてみたい問い。原書の72ページからの部分です。★「この点について尊敬する心理学者カール・ユングの発言は上の2種類あって一貫していないように思える」と言うダイアー博士は、「私が思うに、例えば生まれたときの外見や遺伝などの運命は決まっているが、その中で
哲学や倫理学での道徳的な責任(moralresponsibility)の解説でよく出てくるのが、自由意志(freewill)というものです。どういうことか、非力な私めの理解でというと、①人間が道徳的な責任を持つには、その行動を決定し行う自由意志がないといけない。そうでなければ、本人の意思での行動ではなく、道徳的な責任を負わせられない。(自由意思説)②人間の行動は環境や遺伝、心理学や脳神経学などで明らかになった要因など、様々な外的なものによって規定されており、その人自身の意思で行動してい
決定論というものがある人間の行動はあらかじめ決まっていてある動機から因果関係的につながって結果があるから動機が分かれば結果もわかると言うものである決定論的世界では動機から行動が導かれる代議士の息子が地盤、看板、鞄を引き継いでまた代議士になって選挙で当選できるのも決定論的世界と言える本当に世の中を変えたければ決定論に逆らわなければならないこうだからこうと言う因果関係を断たなければ本当に変わることは出来ない予測できる世界を予測不能にしなければ変わったとは言
仕組まれた会社、組織、国家、国際関係。決定論の世界。大事なことは、私がいないところで決められて、でも私は従って自分に割り当てられた役割を果たす義務を負わされる。何この茶番の出来レース。どうせそういうプレーなんだから、私も少しは面白くプレーしよう。Everythingisready-made.Mylifeandhowtheworldfunctionsaswell.Determinismisquiteobvious.Importantthingsare
嫌われる勇気を、約4年ぶりに読んでみました。この4年間に著者が書いた文章の書き方の本を読んだり、「嫌われる勇気」で学んだ考え方を折りに触れて思いだしていので、懐かしい友達に会うような気持ちで読み始めることができました。読み始めてみて、内容に関しては覚えているところ、忘れているところ、まちまちでしたが、前と確実に違っているところが一点あります。それは、この本から一つでも気づきを得て、今日からの自分にいかそう、と思っているところです。その中でさっそく一つ、面白いところがありま
一応の完成をみた『FishBowl』について書き手が語るシリーズ第17弾です。お時間のある方だけお読みください。いえ、ほんとうにお時間のある方は小説の方を読んでいただきたいですが。(↑画像クリックで読みにいけますよ)さて、前回は章タイトルの前半部分『タイムを散らす』についてを書いていたのですが、今回は後半部分『古い本に既に記されていること』について幾つか思いついたことを述べていきます。実はこの言葉はその一部がプロローグに既に出ているんですね。『ま、草介さんの
以前、都内のある瞑想セミナーに行ったことがあります。毎週数回開催されているようで、その時も結構参加者がいました。勉強になる内容もありましたし、もしかしたら事業拡大のチャンスもあったかもしれませんが、思うところがあって、すぐに、参加するのをやめました。「参加しないという選択」をしました。では、新しくて自分とは別の流儀の瞑想が習えなくて困っただろうか?事業拡大できなくて困っただろうか?・・・というと、全くそんなことはありませんでした。まず会場内に邪気、邪念が渦巻いていて、非常に残念なが