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息子が強迫障害に自分自身で気が付いてから・・4年半くらいたちました。いちばんひどかった時期を150くらいとすると(100じゃないのかよっ!多すぎだろ笑)今は85くらいにはなってきてると感じます。(半分にはまだまだですな)でも・・・息子の症状(これは汚い汚くないとか、我慢できるかできないか)のボーダーラインがいまだに私には理解できないんですね。つーか、息子のボーダーライン・・定まってないんじゃないかいな。。今まではよかったことや行動が、今日は突然汚く思えて・・除菌しまくるとか(
今年の4月・・息子は18歳にして高校一年生になりました不登校と強迫障害で、外の世界が怖かった汚かったと思ってた息子が高校生。。これだけ聞けば、ああ~よかったね、うんうん。。となるんですが・・思えば・・中学卒業・・病院退院・・その後ほぼ在宅率9割という15歳。。(悲しいぜ)それが18歳まで続く・・・という・・・おおお・・まじかよっ!勘弁してよ!本音の私は・・不登校だけならまだよかったけど・・不登校よりも深刻な強迫障害からの息子の行動と言動に毎日がストレス満載!ストレス王国!
18歳にして高校一年生!!浪人したわけでもなく・・中退したわけでもなく・・進級できなかったわけでもありません。ただただ、病気が治っていなくて・・まだまだ学校関係や外の世界が汚く思えて恐怖もあって・・だから中学卒業して次は高校にと普通に考えることが無理でそんな場所に息子自身が普通の子と同じようには飛び込んで行けなかったんですね。私は息子が退院してから、どこかの通信制高校に入って場所を作ってあげたかったというのがその頃の正直な気持ちです。どこかに所属していることで、少しは安心感が
なんか変な卵みたいなの触っちゃった!ゴキな卵かな?うえーーーー触った手何回も洗ったけどしばらく使えないよー!こういう所が強迫障害なのよね
モラハラなんだなって思って、ゆーちゃんのそうゆう部分が出ないよう気をつけるようにした。いつも怒ってるわけではない。機嫌が良ければ優しいし面白いし、、楽しい時もある。怒らせさえしなければいいんだ。色々調べたりもしたけど、だいたいは、【モラハラは治らない】【離婚しかない】もしくは私には合わないものばかりで、望むような答えはなかった。ゆーちゃんは、、1、強迫症を持ち合わせている。強迫症が出る頻度は高く、私がこれを理解すればモラハラな部分は出ないのでは、と思った。でも理解なんて、、
今日は年内最後のたかはしクリニックさん父は20年ほど前にうつ病を発症し、その後老人性うつ病前頭側頭型認知症へと悪化、月に一度、こちらの病院にお世話になっています父は60歳手前でうつ病になり、大変な時期を過ごしました職場の上司の方々が良い方ばかりで理解していただいた上で勤務体制にも融通をきかせていただき、なんとか定年を迎えることができましたその時のことは今でも良く覚えていて本当に感謝しています。その後約10年ほどは穏やかに過ごしていましたが、70歳になる頃、再び病魔は
昨夜のこと。帰宅し、ドアを開けようとすると、中から父の怒鳴り声と母の泣き声が・・・父は認知症が進んでおり、最近かんしゃくを起こす事が多くなった母は情けない、情けないと言いながら、シクシク泣いているしばらくふたりを引き離しておくことにした。今日は昔から通い続けている心療内科の病院に来ています父は60歳手前の頃、ひどいうつ病になり、大変な時期を過ごしました。70歳を過ぎた頃、老人性うつ病へと変化し、今は認知症へと進行、強迫障害も併発している心の病とは、人それぞれ違うも
こんばんは。自分は、双極性障害と強迫障害をもっているのですが、薬のせいか集中力が散らされてしまいます。その為、何かをしようとしてもすぐに、やめてしまうのです。日中、何もする気が起きずに、ただぼうっとしています。当然、仕事もできないので、会社には長期休養をもらっています。親父の会社なので。それから逃れようと、お酒を飲む日々。誰のせいでもありません。強いて言うならば、自分のせいでしょう。いつよくなるのか。(完治は諦めています)今より良く
こんにちは!「それでも社会に…社会とともに…」の放課後デイサービスMake@wishです。49歳の(しあわせがくる歳と勝手に読む)いい年した僕が85歳の父に…いろいろ事情があって…初めて父の日をした…僕はからだすこやか茶大衆食事処で…なんでこんなこと書くんだろう…多分父の日と母の日がこんがらがったのかも…いまから23年前…その
4月限定でモニター募集をしているみつひろ先生のメニュー『インテグレートヒーリング・恐怖症』※募集記事はこちらをご覧くださいモニター1号様から受けた後の変化についてお伺いできました。カウンセリングの段階で様々な恐怖症があるとのことでした。お話を伺っているうちに「家を出るときに時間がかかる」ということを思い出されました。・ガスの元栓をしめたかどうか何度もチェック。・閉めた元栓の写真を撮る。・家をでてから心配になったときはその写真を見る。ということをしているとのこと。日常になり
続→父は、いつ母への気持ちが爆発してもおかしくない状態でした。毎日、今日こそ、死ぬだとか俺を殺せだとか言うんじゃないかと怯えていました。趣味は妻、と自分で言う程、殆ど依存しているように愛しているので、いつ何が来てもおかしくないと考えていました。よく三ヶ月近くもったと思います。その夜、外で父の大声がしたのが合図でした。帰ってきた、やっぱり呑んだか、と思い、居間に素早く父の布団を敷きました。暫くすると、叔母がやって来てさっさと迎えに来い、と今までより更に乱暴な、母がいた時には聞いたこと
今思い出しても、何だか他人事のような時間でした。既に、常に、パニックに陥ってること。〇〇しなきゃ、早くしなきゃ、という切迫状態の気持ちが今までより更に異常に強くなっていること。そのふたつがまざった結果、他者(特に弟妹)にまでそれらを強要してきたこと。一番強いのは、うつの症状であること。自分の事なのに、へえ、そうなんだ。という気持ちで聞いていました。どんなに自分に当てはまっていても、どうしても受け入れられませんでした。ただ、病気なんだな。と泣きすぎてぼんやりした頭で思っていました。
とにかく何に対しても自分が悪い、生きていることに罪悪感を持っている、誰も悪くない。私が怠け者で情けなくてダメな人間なんだ。しなきゃいけないことも、何も出来ない。母が亡くなったこと、親戚からのいじめ、(今思えば)父のパニック症状からの攻撃、日々を暮らしてゆくことのしんどさ。今すぐ死にたい、死んでしまいたい。私なんて生きてるだけで邪魔なんだ、無価値なんだ。それらの気持ちを吐き出しました。M先生は、辛かったね、頑張ったね、と優しく微笑みました。そして、あなたはひとつも悪くないよ、価値の
泣きながら話を聞いていた中には、パニック障害、強迫障害、社会不安障害などであることも告げられました。また自分では信じられず、それってもっと大変な人がなるやつじゃないの、と思っていました。どうしても、自分は怠け者で情けない必要の無いだけの人間なんだ、という気持ちが抜けません。そう思うのが当たり前で、そうやって生活してきたので、その気持ちが強くなり過ぎていたのだと思います。こんな程度でも、病気なんですか、と私は聞きました。こんななんて言わないで、頑張りすぎてるんだよ。先生は、穏やかに言い
名前を呼ばれ、いよいよ一人で行かなけばなりません。とても心細かったことを、今でもよく覚えています。まず、女性の心理学の先生(だったと思います)にチェックシートの確認と共に話を聞かれました。すると、思い返す行為自体が非常につらく、勝手に涙が出てきました。とにかく泣いてしまい、必死で答えました。ゆっくりでいいですよ、大丈夫ですよ、と何度も言ってくれたのですが、待たせてしまう、と思うと急いでしまいます。早くしなきゃ、ちゃんと答えなきゃ、と思う程涙が溢れてきて、上手く出来ません。それが申し
その先生との話が終わると、今度は主治医となる、女性のM先生と対面しました。男性への恐怖心が強くなっていたため、Fは、病院選びも女性の先生を探すことから始めてくれていました。M先生はとても朗らかな人でした。対面した時には既に涙でぐちゃぐちゃだったタオルと顔を見て、ティッシュを差し出してくれました。その優しさにまた涙が出て、勝手に溢れ出す涙もあり、また、この原因不明の苦しみの話をしなければいけない、というしんどさで泣きました。当時の私は、つらさの原因が本当に分からず、それはとても苦しいもの
病院探しは、親友Fがおこなってくれました。Fはすぐに、Fの家から行ける心療内科をいくつか探してきてくれました。私の地元にそういった病院はあるものの、噂好きな人に見つかったら噂を広められ働きづらい(その位には田舎です)、ということを考えてくれていました。しかし私は、何でもない、大丈夫、と繰り返すだけでした。何でもない人が毎日ずっと泣いてるなんておかしいよ、頼むから病院に行ってよ、と妹に言われ、自分は変なのかな?と思う程度で自覚はありません。普段とても優しく穏やかなFにも強く説得され、私は
いよいよ病院へ行く日がやってきました。父には黙って、Fの家に泊まりに行く事だけ告げました。ここに来てまだごねる私を妹が引っ張るように連れ、電車で一時間と少しの病院の最寄り駅で、Fと合流しました。ふたりに引っ張られ、病院についに到着しました。到着してしまった、というのが当時の感覚です。そこで受付を妹にしてもらい、私はFと座っていました。チェックシートのようなものを渡され、自分の状態と合致するものを選んでゆきます。しかしその自分の状態というものがいまいち分からず、二人に助けられながら震
母を亡くして一年半の秋の頃。時間があれば涙が出てくることが、当たり前になっていました。バイト行かなきゃ、と思っただけで焦ったり、食事作らなきゃ、と思っただけで絶望的な気持ちになります。せっつかれた感じになって、自分を追い詰めて、苦しくなりました。○○しなきゃ、と自分を崖のギリギリの部分に追い詰める癖が悪化しました。自分で自分の背中を押して、崖から落とそうとするのを踏ん張っている感じです。それはとても苦しいものでした。自分でも何でこんなに毎日苦しいんだろう?と分からずにいました。自
家事をしている間も、ずっと泣いていました。その間が、一番泣いていたかもしれません。父が気付いたら驚くと思い、必死で涙を拭って家事をしていました。もう家事など放り出したい気持ちと、やらなきゃいけない、早くしなきゃ、という気持ちのせめぎあいです。父が眠った後、風呂場で洗濯を干し終えた時にはいつも力が抜けて座り込んで、ただ泣いていました。自分でも、まったく制御が出来ないのです。なんで泣いているか分からず、でも涙が止まらず、やるせなくてまた泣いてを繰り返していました。そんなことが二ヶ月ほど
毎日怯えながらやるせなくなりながら、春夏を乗り越えました。そして迎えた秋のことです。お金の事などに詳しい仕事をしている方と話す機会が持たれました。私はその場にいられるほど精神が強くなくなっていました。弟妹に相談し、突然の事なのでアルバイトを休めないと父に伝え許しを貰いました。仕事中も、家の事が気になって仕方ありません。不安で不安で泣きそうになりながら仕事をしていました。しかし、職場に着いて暫くすると電話がかかってきます。妹からでした。仕事中にごめんね、おとうさんがどうしてもかけ
その日帰宅すると、不安を話したことで安心したのか、父がご機嫌で牛丼を買ってきていました。早く食べろ、と言われたのですが、まだ何も解決していないこと、昼間の電話への怯えで、私は頷くだけで台所に座り込みました。ここにいれば父からはちょうど見えない。部屋にこもっては不機嫌になる。早く食べなきゃ。早くしなきゃ。そう思っているのですが、体が上手く動きません。へたりこんでいると、弟がやって来て無言で電子レンジで温めてくれました。その容器はあっためると危ないよ、と力なく笑うと、弟はそうか、と元
その日の帰宅の車中は最悪でした。父は今日のことを朝から並べて、車中に響き渡る大声で思いのままに怒鳴りました。いつも止めてくれる母はいません。私達は黙って下を向いていました。いい加減終わりにしてくれないか、と思っていた時に、突然車がガタン!!と大きな音を立てました。信じてもらえないかもしれませんが、本当のことなので書きます。まるでタイヤが四角になったように、車はガタンガタンと縦横に揺れながら走りました。父は焦り、スピードを落とします。しかし、車の揺れは直りません。急カーブに差し掛
帰宅後、すぐに取り掛かった父の晩酌の準備をしながら、妹に問いました。『あれ、あんたがやったんでしょう?』すると妹は、自分が死ぬつもりだった、とポツリと答えました。『あんたは生き残るよ。死ぬのは私とおとうさんだったよ』私に見えたこと、分かったことを話すと、妹はショックを受けたようでした。こんな、不思議と思われることが幾つも起きていました。信じて貰えるかは分かりません。しかし、私達の見てきた信じてきた事のひとつなので書きました。http://simplog.jp/pub/28474
そんな嫌な食事がなんとか終わり、あとはお礼の品を渡してそれぞれ帰宅することになりました。母方のはとこたちは、受け取りながらありがとうね、大変だったね、と私に言ってくれました。いつでも心優しく、穏やかな人たちです。私も、心から今日はありがとうございます、と言えました。しかし、それから1時間近く経っても父方の叔母と叔父の四人は現れません。もういい加減にその手の嫌がらせはうんざりでした。ただ待たせたいのです。私にせっつかれた父がやっと呼びに行くと、数十分後、にやにやと笑いながら叔母達がや
母の一周忌の時の話です。とても思い出したくない出来事ですが、はっきりと書いておきたいと、向き合いました。早くお寺に来いと怒鳴り響く父の声が今でも恐怖として残っています。お寺は坂道のてっぺんにあり、その下に母の実家、更に下に父の実家があります。余り早く行ってもお寺さんの迷惑になるから、という祖母に従っていたのですが、相当前からお寺に行っていた父は怒鳴りわめきました。てめぇ何やってんだ、早く来い。何度も怒鳴られながら、祖母の体にも気をつけながら坂道を登りました。着いてからも散々説教をさ
それから洗濯や食事についてです。アルバイトから遅く帰ったら、すぐに風呂に入り洗濯を風呂場で行います。これは花粉症の母と妹、私のためにずっとそうして行われていたのですが、遅くに帰宅すれば当然洗濯も遅くなります。父はそれにも怒りました。遅い、と怒鳴ったり文句を言ったり、とにかく何かあるのです。それはもう物理的に不可能なことです。しかし父は許しません。私と妹は毎日ため息をつきながら洗濯をしました。弟は多忙で夜勤などもあったので、弟の仕事に合わせた寝起きをするようにも言われました。私も
食事について。おかあさんの作った料理が食べたい。これが父の私の作った料理に対する感想です。たまに旨い、と云われることもありましたが、本当にたまに、でした。私だっておかあさんの料理を食べたい。作るのも、四人分をいきなり毎日毎食というのは慣れない者にとっては大変でした。出勤時間の違いに伴い、アルバイトの日は朝食と昼食は作らなくても良くなったのですが(休みの日は勿論すべて作ります)、夕食は必ず作ります。何を言われても挫けず頑張っていましたが、それは伝わってなかったようです。頑張ってるつ
それからの生活は、本当に思い返すのも辛い日々でした。今も、思い返すのが怖いです。まず、家のローンややりくり、毎日の炊事洗濯。特に金銭面は、病気になっても母がやりくりしてくれていたので、内情を全く知らなかった父はパニックになり、私たちきょうだい宛の手紙まで勝手に開ける始末でした。この頃から、ポストを開けるのが怖くなりました。カード会社から来ていたら、銀行から来ていたら、泣きそうな気持ちでした。その経験のため、現在もポストを開ける事がとても怖いです。何も無いのに怖いのです。私は金銭面
母を火葬場へ連れてゆく時間がやって来ました。母の姿を一目見たくて、なんとか立ち上がり葬儀場へ戻ります。両腕を支えられ、やっと立っていました。座っていろ、と周囲に言われそうしていたのですが、やはり母の顔を見たい。そう思い立ち上がると、私はふらふらと皆の集まる棺に近付きました。すると自分でも驚くほどバランスが崩れ、また倒れかかりました。場が、わっと騒ぎになりました。妹が支えてくれたため事なきを得たのですが、私はもう悲しいのと過呼吸と頭痛と、何より母との別れが嫌で、号泣しました。棺に覆