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§6.市原の郷土史その73.天羽南翁のこと・千葉市村田町神明神社南翁碑総限北以一水日境川其注海之処民戸数十倚岸成邑名日村田村青松白沙岸芷汀蘭有塵外之趣云有隠君子生焉日天羽楽園先生名譲字大我通称日譲父日玄尚南総市原郡国吉村人業医有四子先生其季也玄尚素信仏夙有以先生為僧之意文政八年(1825)先生甫7歳入武射郡妙本寺就主僧日志受経従善勝寺主某学浮屠術(注:漢の時代、仏教を浮屠術と言っていた)旁修漢学(注:鈴木一堂の門下となる)天保三年(1832)日志移于浜野村本行寺先生随焉六年日志為京都
東京からだとプチツアーですが、気分転換には丁度良い⭕️先日、水戸の名所旧跡で言葉を交わした素適な方々へ感謝をこめて私独自の感性で観た水戸市内漫遊記を書きます。旅のはじめは、先ず航海の安全を願う女神像の舳のような老舗JTBで手配していただいた旅の切符とバウチャーを手に所定の時刻に所定の場所で所定の特急席に乗り込み、都内から2時間弱で水戸着。ほーら、ちゃ~と水戸駅と書いてあるでしょう。こっちは南口。随分近代的でしょ
リンクをどうぞ涙ながらの電話廃刀令撤回されねーかなー攘夷したいなー
ガイドの方はひととおり説明して下さった後、あとはご自由に見学して下さいとの事でした。1817年に生まれ、安政5年、1858年に謎の死を迎えるまでの略歴です。安政半ばに幕府の力が弱くなったので、天皇制へ戻し強い日本を取り戻そうとした尊王攘夷運動をいち早く唱え、倒幕論を長州藩に唱えたそうです。月性が書いた「阿片始末詩」の実物、吉田松陰に宛てられた実物の文通などいろいろな書物や巻物などの本物がそのまま展示されていました。吉田松陰や高杉晋作、杉梅太郎など明治維新で大活躍した方々と深く関わっていたこ
★第五代孝昭天皇は、我国建国後の国造りの時代の天皇です。御父は懿徳(いとく)天皇、御母は第三代安寧天皇の皇子、息石耳命(いきしみみのみこと)の女(むすめ)の皇后、天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)。御名は観松彦香殖稲命(みまつひこかえしねのみこと)。在位は紀元前四七五年から紀元前三九三年。「日本書紀」によれば、観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)は、懿徳天皇の崩御により即位、都を掖上池心宮(わきがみのいけごころのみや:御所市池之内)へ遷し、世襲足媛命(よそたらしひめのみ
最近、掲題の井上勝生氏による「幕末・維新」(岩波新書、2006年)を、遅まきながら、読了しました。かなり説得的な好著と高く評価します。アマゾン広告では、その内容を、「黒船来航から、明治維新へ―激しく揺れ動いた幕末・維新とはどういう時代だったのか。東アジア世界に視点をすえ、開国から西南戦争までを最新の研究成果をとりいれて描く新しい通史。従来から「屈服」したと言われてきた幕末の外交を再評価し、それが成熟した伝統社会に基づくものであることを明らかにする。維新史を書き直す意欲作。」とし
荻野流一貫目青銅砲下関戦争の際、彦島の弟子待台場に設置されていた大砲。下関戦争の終結後、連合国は各台場から戦利品として大砲を本国に持ち帰った。この青銅砲はフランスのアンヴァリット軍事博物館が所蔵するもので、当館に貸与されている。(下関市立歴史博物館常設展示図録より)(彦島のけしきより)軍事博物館の正門の大砲の陳列を門外から望む軍事博物館の正門の大砲の陳列フランス廃兵院(アンヴァリッド)軍事博物館、フランスパリフォーブール・サン=ジェルマン付近木砲下関戦争では、大砲の数量不足を
今日は八月十八日。日本の歴史、特に「幕末・維新」に興味のある方なら、誰でもご存知の「八月十八日の政変」文久三年八月十八日、当時、朝廷の実権を握っていた長州藩と尊皇攘夷派の公家が公武合体派のクーデターにより一夜にして権力の座を追われ、京都から都落ちした事件です。七卿落ちの図この事件が実際に起きたのは、西暦では1863年9月30日。これはもう秋ですね。つまり真夏ではないのです。かなりイメージが違いますね。でもこれが事実です。時々、大河ドラマや幕末ものの映画で、この
今からちょうど160年前の今日、公武合体派が尊皇攘夷過激派を京都から追放したクーデター・・・その名もずばり八月十八日の政変が起きました。朝廷・孝明天皇(明治天皇の父↓)を尊王とし、外国を打ち払う〝攘夷〟を唱える長州藩を中心とした志士が、1862年から京都で行動を活発化。翌1863(文久3)年5月には長州藩が下関海峡にて外国船を砲撃する事件を起こして攘夷を示したものの他藩は続かず。そこで長州藩の久坂玄瑞らが、孝明天皇に攘夷を約束した第14代将軍・徳川家
幕府は朝廷に対しては幕府延命のための公武合体を進めーー薩長連合と溝を広めていった。また商人とは江戸の中ごろから徳政令を出しては、商人が武家とのツケを嫌がるとその禁止令を出す――と言った鬼ごっこを繰り返し、商人はほとほと嫌気もピークに達していた。豪商も感覚的にはもう幕府はダメーー金をどぶに捨てるようなものーー新しい政府を待ちたい――という空気だった。幕府の財布も底をつくかのような感覚だった。各藩の懐具合も似たり寄ったりで、余裕などなかった。☆それに加えてフ
天狗党は水戸藩士中心に武士出身者が4割、農民その他が6割。武士出身者が農民に剣術を教えた。継之助は尊王攘夷の考え方を農民他に教えた。というか継之助は尊王攘夷よりも、武家社会の矛盾と自由解放を重視したので、農民などの受けがよかった。尊王攘夷と言っても、平たく言うと、黒田継之助自身よくわからなかった。要するに武家の世の中の終わりが近いーーこれだった。継之助はもともと優愛には武家社会の終わりーーを教え込んでいた。だからそれを教えるのに何の苦労もない。農民たちもそのほうが尊王攘夷よりも
という訳で、安政の大地震の後、隅田川を水位の上がった高波が押し寄せたが、地震の被害は優愛の母親のお店でもそれほどではなかった。茶碗が割れた程度だった。むしろ水戸藩主・徳川斉昭の支持を受け、水戸尊王攘夷のオピニオンリーダー・藤田東湖の圧死が藩関係者の悲痛を集めた。秘かに藤田東湖を師を慕っていたのは優愛の先生・山縣継之助だった。藤田東湖は西郷隆盛からも慕われていたと言われ、本当の尊王攘夷派の父—-と言えた。その東湖が安政の大地震で天国に召されたというのは、単なる偶然だったのだろうか
幕末の尊王攘夷派の志士で、禁門の変で自刃した真木和泉を祀る「真木神社」です。和泉は水天宮の宮司で、「真木神社」も水天宮の境内に鎮座しています。幕末期の有馬家は、尊王攘夷派と佐幕派が激しく対立していました。そんな中、藩主となった頼咸(よりしげ)は12代将軍家慶の養女との婚姻を決め、佐幕派の色彩を濃くしました。一部の尊攘派は脱藩して活動を始め、その中心人物が、真木和泉でした。しかし戊辰戦争では久留米藩は新政府側に就くことになるのも、皮肉なものです。真木和泉像です。真木和泉は江
1864年のこの日、京都にあった旅館「池田屋」で新撰組が尊王攘夷派志士たちを襲撃した池田屋事件が起こりました。尊王攘夷派たちは幕府転覆を目論見、日本各地で数々のクーデターを画策しておりました。いけだやじけん元治1(1864)年6月5日,京都三条の旅館池田屋で新撰組が勤王派浪士を襲撃した事件。文久3(63)年8月18日の政変で失脚した長州藩は,公武合体派の不和をみて,尊王攘夷派を中心として勢力挽回を策した。京都に潜入した尊王攘夷派は,肥後藩士宮部鼎蔵を主謀とし,公武合体派の中
日本人のみんなに知って欲しい。忘れてしまった日本人の魂を。
明治維新という体制変化は徳川幕府を倒したうえで、天皇を君主として西洋列強に張り合えるように改革を行うものである。多くの討幕派の侍たちは西洋文化に憧れて踊らされたわけではなく、純粋に「尊王攘夷」を掲げて戦った。攘夷であるにも関わらず、日本は多くの西洋文化を自主的に取り入れる。勝つためならば真逆の物を受け入れる現実主義的な考えを当時の人間にできたのは驚きではないか?現代人であっても保守的な人間は路線変更を嫌うというのに、開国自体は江戸幕府がペリー来航の折に果たしており、その後の幕府の対
御所来る度に笑ってしまいます文久年間盛岡藩が朝廷から命じられた内裏守備役内裏守備役とは京都御所の警護役慶応年間に幕府から命じられた京都勤番とは京都市中の警護勤番とは武士が交代で出仕するこの場合は警護ですよね文久から慶応まで京都は激動の嵐尊王攘夷派公家や長州藩排除大政奉還に戊辰戦争に大変だったのですね東北北方警護しとるだけ場合やないロシアが京都に攻めてくる可能性もあるわけでほんまええように朝廷にも幕府にも武士の誉れとはいえ扱われていたんやなあ思いますそら原敬みたいに
本日は旧暦五月十一日ですが、文久二年五月十一日(1862年)、孝明天皇は「時局を御軫念御述懐(ごしんねんごじゅつかい)の勅書」を発せられました。言葉の意味時局:社会などのその時の情勢、世の中の成り行き。軫念:天子が心をいためること。また、天子の心。述懐:思いを述べること。過去の出来事や思いを述べること。つまり簡単に言えば、幕末の天皇である孝明天皇が、世の中の情勢や成り行きに心を痛め、想いを述べた勅書が発せられたのがこの日です。これは、嘉永六年(1853年)の黒船(ペリー)
「諸侯たのむに足らず、公卿たのむに足らず、草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き事と、私ども同志うち申し合いおり候事に御座候。失敬ながら、尊藩(土佐藩)も弊藩(長州藩)も滅亡しても大義なれば苦しからず」久坂玄瑞進撃の巨人で、エレンが「戦え、戦うんだよ」と叫び日本で大ヒット作品になった。今、放送中の鬼滅の刃では、炭治郎が「戦え」と叫ぶ。なぜ妙に、心に響くのだろうか。「戦え」と言われると、そういえば戦後一貫してわれわれ日本人は、戦
「池田田事件」戦う時の判断みなさん、おはようございます昨夜の満月はご覧になられましたか新しい週の始まりですいいスタートを切ってくださいさあ、今日「6月5日」の國史を学びましょう「池田屋事件」元治元年(1864年)新選組による尊王攘夷派の弾圧です八月十八日の変により主流となった公武合体派(天皇と幕府を一体化する)は長州藩など尊王攘夷派を京都から追放します復活を企てる尊王攘夷派は旅籠「池田屋」で同志による集会をしていたところを新選組は襲撃
🌼第24回歴史を学び直す会🌼木更津拓大紅陵高校11階ホール毎回わくわく、素晴らしい学びと気づきをありがとうございます✨日本の歴史の大転換期‼️尊王攘夷運動の展開倒幕運動と王政復古王政復古と大政奉還の違いは⁉️ハリスの来日から、幕末の政争、そして、江戸幕府の崩壊まで吉田松陰と松下村塾についても
奥大和絵宗家高橋亮馬先生この度は、大変貴重なお話を聞かせて頂きまことに有難うございました。おかげ様で本当に楽しい、学べる、驚きのひと時でした。お酒ではなくカフェラテ会合でしたが次回はゆっくり一献お願いしたいです。👺征くべき道への道ひらき👺尊王攘夷🇯🇵日本弥栄🇯🇵《奈良俵屋工房》http://tawarayakobo.com/cp-bin/wordpress5/表紙-奈良俵屋工房発刊当時はビデオテープ。ニューヨーク画材ショーや全画協で紹介されたほか、美術系大学の教
この本は装丁にしてもタイトルにしても、一見してノンフィクションかな?と思えるのですが、実際はフィクション、小説です。が、本当はノンフィクションにしたかったんじゃないかな。でも、内容的に危険すぎるから小説にしてうやむやにしたんじゃないかな・・・始まりはこの一枚の写真。「フルベッキ写真」というそうです。フルベッキは人の名前で、写真の中央に写っている外国人。幕末の日本にやってきた宣教師なのですが、およそ宣教師らしからぬ振る舞いで明治の革命に加担したと言われる人・・・
おはようございますACE鍼灸整骨院は今日も朝から営業中(株)Touch−Up・設備部門、伊鐵相棒のKISHIMOTOと漢の一服いざ現場へ出陣伊鐵、、、、小指身体のメンテナンスは健康部門・ACE鍼灸整骨院設備のメンテナンスは住宅設備部門どちらもお客様のニーズに合わせて対応して参りますので今後とも宜しくお願い致します。(株)Touch–UpACE鍼灸整骨院〒406–0021山梨県笛吹市石和町松本830–1カリエーラ753–101TEL080344138
昨日、生麦事件の現場に行きました。生麦事件は、文久2年(1862年)、武蔵国生麦村(現・横浜市鶴見区生麦)で起こりました。馬で川崎大師に向かっていたイギリス人4人が薩摩藩・島津久光の行列を遮ったとして薩摩藩士に切り付けられ、うち1名が死亡。翌年、イギリス艦隊は薩摩を攻撃し(薩英戦争)、時代は尊王攘夷から倒幕へと動きました。つい数年前まで資料館があったのですが、閉鎖されてしまい、事件の現場とイギリスが死亡した場所に記念碑があるだけ。歴史ファンにはちょっと残念な扱いです。ところで
慶喜も水戸学、薩長の討幕派も水戸学、幕末維新の不思議な存在を知る1冊本が好き!からの献本『水戸学事始』(松崎哲之著)の感想不思議!幕末に藩として主役になれなかったがその思想が対立する陣営それぞれに影響を及ぼした思想としての”水戸学”水戸学事始幕末の不思議な藩”水戸藩”「水戸学」と尊王攘夷で多くの志士たちに影響を与えたし、活躍した藩士もいたのに、維新の大転回の前には存在感を失い、明治新政府ではその存在を発揮できなかった水戸藩、その理由について納得できたのが私にとっての
本が好き!から『水戸学事始』(松崎哲之著)の献本が届きました。幕末維新に吹き荒れた尊皇攘夷の源流、水戸学を知りたいと思い、読みます。水戸学事始<書籍データ>『水戸学事始』著者:松崎哲之発行所ミネルヴァ書房2023年4月20日初版第1刷発行定価:2,500円+税幕末・明治維新といえば、薩長土肥らによって成し遂げられたようなイメージですが、その幕末・維新の大転回として機能した思想が”尊皇攘夷”という思想で、その源流はこの水戸学だと思います。その水戸学に関
こんばんは!「妖怪の孫」を新宿ピカデリーで観てきました。見応えがありました。感想を述べさせて頂きます。というかtermで語ります。①コンプレックス②自然災害③(尊王)攘夷論私的には、以上の3つで語れます。①は、とてつもないエネルギーを生む根源東大法学部を首席で卒業した母方の祖父:岸信介が、成せなかったことを成す(超える)というエネルギー源それを成すためには、長期政権を保つ必要があった。在任中に成し遂げることがモチベーション②は、いくら策を巡らしても、いつ来るかわからない(
大器をつくるには、いそぐべからずこと吉田松陰(1830年-1859年)吉田松陰[注1](よしだしょういん、文政13年8月4日〈1830年9月20日〉-安政6年10月27日〈1859年11月21日〉)は、江戸時代後期の日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。明治維新の精神的指導者・理論者。「松下村塾」で明治維新で活躍した志士に大きな影響を与えた。今日の単語あえか[あえか]形容動詞美しくかよわげなさま。はかな
前回は観梅を少し離れての歴史散歩(「水戸学の道」の散策です)をお届けしていましたが👇『「水戸の梅まつり」その4水戸学の道を歩く編(^^)v@茨城県水戸市』「偕楽園」での観梅を終えましたchu、千波湖周辺を散策し👇『「水戸の梅まつり」その3吐玉泉と田鶴鳴梅林と千波湖編@茨城県水戸市』前回は「偕楽園」のメイン…ameblo.jp「偕楽園」と共に、こちらは少し落ち着いた雰囲気の中で梅林が広がるもう一つの「水戸の梅まつり」会場であります「弘道館」を訪れますで、この弘道館、完成当時は“国内最大