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「大岡昇平歴史小説集成」をよみおえている。再読。大岡昇平はかつて埴谷雄高との対談で、「おれは判官贔屓なんだよ」と語っていた。この「歴史短篇小説集」で採りあげられているメンバーを見ると、たしかにそうである。平将門、天誅組総裁・吉村寅太郎、高杉晋作、坂本龍馬、大鳥圭介ら。敗軍の将か、または志を得ずに亡くなったひとたちばかりである。だからといって感情移入はほとんどしていない。冷静沈着に是々非々の筆致である。高杉晋作と坂本龍馬はベストセラーを量産する歴史小説作家たちへの反撥が、執筆動
このシリーズの最終章です。ただ,本当はもっと続く予定だったようですが,埴谷雄高さんが亡くなってしまいました。結局,存在についての非常に分かりにくい物語。ただ主人公である三輪与志を中心とした周辺での形而上学的な物語であり,どう人類の存在について影響してくるのかでしょうか・・・超常現象的なことも出てきますが,どう関係しているかは不明。まあ,〇十年前の読みかけだったこの「死霊」でしたが,完結しました。。。
無限大種族の三輪家兄弟三輪与志の思想も語られるのですが,よくわかんないですね。もっとも物語として読めばいいのでしょうが。。。ただ,虚無ゆえに人類死滅を望む思想なのでしょうが,最後の場面で赤ちゃんが登場してきます。誕生と死滅,どう展開していくのでしょうか
今年新たに始めたことがある埴谷雄高『死霊』をご存知ですか?難解といわれる小説…作者が生涯かけて執筆した未完の小説…私とは時空を超えて存在を探求しよう!毎月第1日曜日に1章ごとに討論する読書会第2期座長をしています第1期は不思議なご縁で沼に嵌められたと感じていたけど…第1期から引継ぎ自ら沼へ…読書とは個人的なものと感じていたけど…時間をかけて皆で読む読書を愉しんでいる2月に朝日新聞の取材を受け記事になったこと
ドストエフスキーに傾倒している埴谷さんならではの展開。得体の知れない首猛夫は三輪与誌の異母兄弟。瘋癲病院から脱出した矢場徹吾も異母兄弟。カラマーゾフのスメルジャコフか・・・そして,この六章は「最後の審判」。これもカラマーゾフの大審問官かな・・・この「最後の審判」では,大審問官のようにイエスも裁かれます。ここで裁かれるのは存在について。もっとも,よく分からなかったです・・・「私が何か」ではなく「何が私であるのか」という逆転の問いは考えさせられました。
この第六章は「愁いの王」とにかく形而上学的文学なんで,よく分かんないですね。この六章にはあまり登場しませんが,主人公は三輪与志。僕が理解するには,彼は多分,自己の存在について悩んでいるのです。そんな与志を首猛夫は「愁いの王」と呼びます。今回は,与志の婚約者の津田安寿子とその母の津田夫人,首と友人の黒川健吉と「神様」と呼ばれる少女がボートに乗って川を上るのですが,太った津田夫人のためにボートが転覆。ユーモラスでありながら,難しいことを話しているというシチュエーションのおかしさというものもあり
12月19日太陽のサビアンシンボル射手座28度『美しい流れにかけられた古い橋』【キーワード】古い生き方や生活スタイルを活用する。使い古されたアプローチ。みんな忘れているが、ないと困るものに関係する仕事。【今日のおすすめアクション】ありきたりで目立たない仕事を黙々とする。
埴谷雄高はドストエフスキーに傾倒しており,「死霊」という作品も書いてます。この「死霊」は僕は若い時に読んでました。その頃は第八章までしかでていなくて,最終章である第九章が発刊されてのを最近になって知り買いました。もう一度最初から読み直そうかなと思ってます。さて,ドストエフスキーについては先日佐藤優さんの本を読んだところですが,同じドストエフスキーを評しながらも,視点が異なっているのが面白い。この本にピーター・クロポトキンのドストエフスキー評が紹介してあります。主人公は冗長な話し方をし,絶
音拝借私は三歳頃から吉祥寺に住んでいた。十代の終わりから三十代の半ばまで、暇が出来ると吉祥寺の町をうろついてた。わが朋輩らとの付き合い以外にも、その頃馴染みだった古本屋のスタッフたちと、花見をしたり、下町の方へ遊びに行ったりと、古本つながりの人々と遊び回ってもいた。また、古本屋に遊びに行って、店が終わるまでスタッフらと話し込み、そのあと夜の井の頭公園の池のまわりをあてもなくぶらぶらしたものだ。人に訊いたか本で読んだか忘れたが、故・埴谷雄高氏があのあたりに住んでるということで、ちょいと前
症状が強い。何もできない。本を開いてもすぐに閉じてしまう。そもそも本を開くところまでいけない。だらだらインターネットを見るくらいしかできないし、それも飽きてしまう。頑張らなきゃとは思うんだけど、症状が邪魔をする。最近小学校の勉強をやっていない。算数とか漢字の勉強とかをするべきなんだろうか。でもあれはあれで疲れる。村上春樹だったら読めるかな。いまドストエフスキーを開いたら、少し読めた。いま埴谷雄高を開いたら、これも少し読めた。目的を欠いた、条件反射的な、断片的な行動を取るのが習慣
埴谷雄高さんです。凄い発想です。惑星の衝突爆発によって起きるクレーター。我々を構成する粒子原子は、このクレーターの悲哀と絶望を背負って我々を構成しているのだと。凄い発想。この言葉は故立花隆さんとの対談での言葉です。そう信じていたというより仮説的思惟として語ってられました。さすがですね、目のつけどころが。無限の相のもとにAmazon(アマゾン)338〜2,893円※一粒で二度美味しい企画水村美苗さんでした。『謹製日めくり』※被災地のみなさまには、心からお見舞いを申
ウォルインスキイ『偉大なる憤怒の書』を少し読んだ。あと久し振りに埴谷雄高『死霊』を引っ張り出して読んでみたら、とてもおもしろかった。やはり、ミンコフスキーなどの精神病理学の本よりも、ドストエフスキーとか埴谷雄高を読んでいたほうが楽しいし、充実する。ここ二週間くらい眠りが浅くて、今日も明け方に、寝ていて身体がむずむずそわそわしたり、目が見えているのに見えない感じがしたり、無重力のなか落下を続けているような感じがあった。この感覚は、十一年前に統合失調症を発症する前に感じていたのとまったく同じ感
埴谷雄高の未完の大長編小説『死霊』の第3巻(第7章~第9章)を読了しましたので内容紹介します。主人公である三輪与志の虚体論が、周辺人物たちの哲学的思弁の吐露を通じて、次第に正体を明らかにしてきます。それと同時に、三輪家の面々の呪われた人間関係と苦渋に満ちた思弁も吐露されます。特に、第7章の矢場徹吾の哲学的(形而上学的)独白は圧巻です。[第7章《最後の審判》]印刷工場の裏手の小運河にかかった木橋の上に一同が集まりました。精神病院から矢場徹吾を連れ出した犯人だと岸博士に推測され
今日も朝起きて、まず10分くらい基礎練習をやった。LLRRのダブルストローク。そのあと朝食を食べ、また練習。40分くらいぶっ通しで練習できた。今はあえてクリックを鳴らさないで練習している。LLRRの8分音符、16分音符の練習なので、テンポはそんなに揺れないだろうと楽観している。聴いていて変に感じられない程度の演奏を目指している。今のぼくの場合、ダブルストロークでやると聴いていて変に聞こえる。さっき、試しに久し振りにクリックを100と120で鳴らして練習してみた。ここのところずっとダブルスト
最近は散歩に力を入れている。一日一万歩を目標に頑張っている。とりあえず歩数を稼げればいいと思っている。歩いていれば、とりあえずのところ間違いはないと考えている。そう自分に思い込ませているというか。だらだら過ごしているのと比べれば、外を歩いて運動しているのはまったく無意味なこととはいえないだろうから、そういう意味での安心感はいくらかある。内科の医師から運動するように、体重を減らすように勧められているから、散歩をすれば自分の健康のためになることをしているのだという、正しいことをしているのだという安心
埴谷雄高の未完の大長編小説『死霊』第2巻(第4章~第6章)を読了しましたので、内容紹介します。主人公の三輪与志は、病に伏している兄の高志に関して、過去の秘密の一部を知るようになります。幻の夢魔まで登場して、高志の思考の葛藤を代弁します。それと同時に、与志も、自分が抱える「私は私である」という自同律への不快の念を想起され、陰鬱になります。与志の親友だった矢場徹吾が精神病院から失踪したことから、関係者一同は、三々五々、川縁の橋のたもとにある、矢場がかつて潜伏していた地下室のある印刷工場
埴谷雄高の未完の大長編小説『死霊』第1巻を読了しました。20歳代の頃に図書館から単行本を借りてざっと読んだのですが、当時の哲学理解や背景知識や読解力の不足から、ほとんどわけがわからないままでした。2000年代になって全編(3巻組)が文庫化されたので、購入してしばらく死蔵していました。改めて読んでみて、非常に面白い作品であることを再認識しました。夢野久作の『ドグラマグラ』を極端に抽象化・思弁化したような雰囲気もあります。とりあえず第1巻(第1章~第3章)を読了したので、内容紹介します
[4538]小説『死霊Ⅰ』…埴谷雄高[4584]小説『死霊Ⅱ』…埴谷雄高[4594]読了前の死霊論文庫で『死霊Ⅰ』を買ったのが八月二十日。以後、他の本を読む時期も挟みつつも、面白さが持続したので今日読み切ることが出来ました。実は小松左京の『虚無回廊』と同様に未完であり、なのに空前絶後の点でも小松のファーストコンタクトの物語と似た特質を持つ。小松の(最後の)長編を『パラサイト・イヴ』の瀬名秀明は絶賛したけど、私も晩年まで書き続けた埴谷の本書に賛辞を謹呈。『虚無回廊』はSF者のためのSF
更新しました。今回より、マイクを使用する。コウヘイ画伯死霊(1)(講談社文芸文庫)Amazon(アマゾン)130〜6,218円再発見日本の哲学埴谷雄高夢みるカント(講談社学術文庫)Amazon(アマゾン)1,155円死靈1945~95ハニヤユタカゼンシュウ03シレイAmazon(アマゾン)62,255〜130,747円死霊(1976年)Amazon(アマゾン)1〜48,000円埴谷雄高『死霊』論―夢と虹Ama
埴谷雄高を読んでいて、ふとカントを読もうと思った。というわけで、純粋理性批判の岩波文庫版をアマゾンで買ってみた。
数学の勉強が気になってきた。今日は埴谷雄高の死霊を読み進んだ。五章からいくつか抜き書き。いいかな、よーく聞いてくれ。ほら、俺のいう意識と存在のあいだにはそれらがまさに同一である=の怖ろしい標識がはさまれているのだぜ。ぷふい、解ったかな。いいか、お前はただただひとすじに『思えば』、それだけでいいのだ。お前が自ら光であるとただただ『意識』すれば、あっは、すでに同時にお前は光としてまさにそこにあるのだ!お前が忽ち自由の王国へはいりこむことより、この存在の苦悩こそが存在の革命の重
[4538]小説『死霊』…埴谷雄高[4584]小説『死霊Ⅱ』…埴谷雄高三冊目の「Ⅲ」の七章では意外にも意外さという作劇の常套手段を使っているが、観念の対話と会話が大部分で、小説に物語を求める人には難解と思われるのも納得で。しかし「形而上小説だから空疎」という批判は、「日常会話は空疎」を(論理として)導く。実際にお喋りは内容のほとんどが空疎だけど、人間が喋るのは仲間が欲しいからと考えられ。内省気味の私自身は平然としてるけど、コロナ鬱に身近な人も罹ったし。また喋っているとき、肉体への意識は
要するに、ぼくは惰性でなんとなく生きているんだ。なんとなく生きているのか、よりよい生活を目指して生きているのか、外目にはわかりづらいかもしれない。例えば、ぼくはドストエフスキーを読んだほうが、自分の生活の質が上がると思う。またもっといえば、埴谷雄高も読めば、生活の質はさらに上がると思う。本を読まずに、読んでも村上春樹だけ、というのではぼくは物足りないのだと思う。よりよい生活、より楽しい生活、より豊かな生活を目指さなければ。