ブログ記事556件
こんにちは、元気ですか(・・?モンゴル帝国(元)の社会では、女性の地位は、財産で決まっていた。そういう遊牧民族の性質を何故高麗は知らなかったんでしょうか。高麗、高句麗から流民も現代日本人の先祖、そして遊牧民族もまた現代日本人の先祖。現代日本は、いろんな民族が流れ着いた列島。チンギス・カンことテムジンは、遊牧・騎馬民族としてモンゴル平原を戦闘のためにかけづり回る生活。戦闘がないときは、野生の馬や羊などを探し、狩猟をしたりする時間に費やす。女性の役割は、毎度の食事の用意の他に、矢などの武
『長髄彦』登美一族の末裔が『神名を隠し』守り続ける社長髄彦は更なる戦いに逸るもの達を治めるために、自決していた?!『長髄彦』宮司が語る衝撃の事実飛騨の口碑を研究した山本建造の考察によると、長髄彦は、死んだことになってはいるが、密かに東北へ逃れ、アラハバキの祖となり、その一族はずっと元寇の時など外からの攻撃があった時には駆けつけて天孫を助けた勇猛果敢な働きをしたという。因みに、飛騨ではその昔、統治者を上方様(うわかたさま)と呼んでいた。(おやかたさま)と言われた長髄彦に、飛騨王朝の香
2月20日に梅を見てきました。江ノ電江ノ島駅から歩いて5分くらいかな?片瀬の常立寺元寇の前に鎌倉幕府に処刑された元の使者を奉る元使塚があります。毎年大相撲の春巡業が藤沢に来るときモンゴル出身の力士の皆さんがお参りに訪れるそうです。こちらは枝垂れ梅が有名なのですが、ちょっと来る時期間違えたかなぁ😥
『愛国百人一首』の選定された38首目は中臣祐春です。これより鎌倉時代の歌となります。(著者所持の『愛国百人一首』の中臣祐春の絵札)西の海よせくる波も心せよ神の守れるやまと島根ぞこの歌は、文永・弘安の頃に詠まれたものです。こちらも蒙古襲来に対しての歌です。歌の意(こころ)西の海のかなたから、我が国に寄せてくる波のような元軍よ。心得違いをするなよ。こちらは神々が守っていらせ
本日の言霊2024.02.20「文化」と「文明」は異なる。どこの国にも固有の文化はあったが、一国で文明を千年以上も保ってきたのはこの国だけである。「それは島国だからだ」という人がいるが、それで済むなら、なぜオーストラリアにはアボリジニ文明が育たなかったのか。文明は興っては滅亡するを繰り返す。異国や異民族の襲来によって終わりを告げるからで、日本も三度滅亡の危機が迫ったことがある。二度の「元寇」と「太平洋戦争」である。元寇は神風で追っ払い、太平洋戦争は玉音放送で強制終了させ、ギリギリ残
『愛国百人一首』の選定された37首目は宏覚禅師です。これより鎌倉時代の歌となります。(著者所持の『愛国百人一首』の宏覚禅師の絵札)末の世の末の末まで我が國はよろづの國にすぐれたる國この歌は、1270(文永7)年の亀山天皇時代に詠まれた歌です。歌の意(こころ)世界が悪くなる末世のそのまた末の末のときであろうとも、わが国は万国どの国に比べても優れた立派な国です。宏覚禅
今回はこういうお題でいきます。元寇とは、日本の鎌倉時代中期の1274年・1281年に、モンゴル帝国(元朝のフビライ・ハーンとその属国の高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻のことです。蒙古襲来とも呼ばれる。1度目を文永の役(ぶんえいのえき)、2度目を弘安の役(こうあんのえき)といいます。このとき日本の地を守るために神風という強風が吹き、元軍を壊滅させたといわれ、それが近代の太平洋戦争まで伝えられて、神風特攻隊にまでつながっていきます。では、史実的に本当に神風は吹い
紀元節、香椎宮の後は筥崎宮へ参拝しました。香椎から西鉄香椎線で貝塚駅まで行き、地下鉄に乗り換えて箱崎宮前駅で下車。地上に上がると筥崎宮の参道です。一の鳥居をくぐって参拝。「敵國降伏」の扁額や「元寇」の歌碑などを見てまわりました。西鉄香椎駅筥崎宮亀山上皇の筆による敵國降伏の扁額元寇の歌碑筥松
広島の瀬戸内海沿岸には神功皇后が御祭神の神社が多いです三韓征伐の往路帰路に立ち寄られた勝利の女神また皇子である応神天皇も八幡神であり軍神でもあります現在、私たちが目にし耳にするものは古代、中世、近世とそれぞれの時代を生きた人々の心象風景を経て大きく変化を続けています中世の人々はどんな風に神功皇后をとらえていたんだろう・・神風を吹かせた神は?備忘録です「中世神功皇后言説=日本人の精神文化の一側面=」上嶌真弓溪水社2017年第一部
先月はじめ帯状疱疹の疑いがあるので早めの受診が必要だと教えていただいたお礼とまだ残るピリピリ感を治療して貰いたくて二か月ぶりに鍼灸院に行きました車で15分の道のりの途中にある箱崎神社の標識が以前からずっと気になっていて思い切って帰りに寄ってみました田んぼの中の一本道の先に鳥居が見えこの神社にも鳥居の両脇に仁王像があります石段の手すりにつかまりながら20段程上ると苔むした社殿が二棟前殿と奥殿があり元寇の襲来に勝利した記念に建てられたとか説
今日のブラタモリ鎌倉~ときいて一瞬はもう前にもやっていたし見なくていいかなという心中の声がしましたが切り口が仏教系であったため最後まで見てしまいました。北条氏が単なる荒くれ田舎武士でなかったことをしっかり実証されていい中身でした。私めにとっては知っていはいたけど十分に定着できてなかった忍性さんや真言律宗の業績を整理することができてとても有意義な番組だったです。列挙して知見の定着につなげたいと思います。1極楽寺
何だか・・・・怖そうな像だな。ビビる犬。どんちゃん。愛染明王坐像鎌倉時代の作品。怖い顔しているな。聞いた話では・・・元寇の襲来を食い止めるために飛んで行った神様らしい。信心深い犬。どんちゃん。愛犬「怖い顔で判断しちゃダメ。心が優しい人かもしれないよ。」
博多駅から地下鉄空港線に乗って中洲川端駅で地下鉄箱崎線に乗り換えて箱崎宮前駅で下車。地上に出たら参道です。地下鉄の駅は参道の途中ですが、筥崎宮の参道は海から神社まで850メートルほどあります。立派な楼門をよく見ると!「敵国降伏」の扁額が!御本殿。賽銭箱の上に「敵国降伏」の説明がありました。『鎌倉期に亀山上皇が納められた御宸筆(天皇の自筆)を、楼門建立の際、小早川隆景公が模写拡大し掲げたものです。その真意は、武力で相手を降伏させる(覇道)ではなく、徳の力をもって
フビライ、また攻めるってよ文永の役は中国側の史書にはボロカスな被害と書いてある。日本側は把握していないことから、本気でなぜ来ないのか謎だったのだろう。ちなみに寺社はずうずうしくも、俺らの祈祷で退けタンダワとかいって借金帳消しや免税を求めている。しかし、この時に元は南宋を下す。残るは日本だけである。大宋國牒状として日本側に手渡された牒状の内容は「宋朝(南宋)はすでに蒙古に討ち取られ、(次は)日本も危うい。よって宋朝(南宋)自ら日本に(元に服属するよう)告知」する
蒙古襲来にゆかりのある福岡市と、長崎県の松浦、壱岐、対馬の3市は「元寇スタンプラリー」を2024年1月31日まで実施しています。人気の歴史漫画「アンゴルモア元寇合戦記」(KADOKAWA)とのコラボ企画で、スタンプをそろえると限定描き下ろしの絵はがきなどがもらえます。蒙古襲来から750年元寇ゆかりの地を巡るスタンプラリーが福岡や対馬などで開催中蒙古襲来にゆかりのある福岡市と、長崎県の松浦、壱岐、対馬の3市は「元寇スタンプラリー」を2024年1月31日まで実施しています。人気の歴史漫画「アン
1268年(文永5年1月17日)の今日はモンゴル帝国の使者が通交を求めて来日、元寇のきっかけとなる日です。元寇-Wikipediaja.wikipedia.orgよく見るテレビ番組は?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう今日、コロナ明けで仕事してた。病み上がりの影響(?)で仕事きつかった!
「倭寇」は海賊とはいえない「元寇」というのは、幕末から明治に至る情況の中で作り出されたもので、「寇」は「ぬすびと」「こそどろ」という意味だということです。杉山正明氏著「モンゴル帝国の興亡下」(講談社現代新書)「元寇」に対して「倭寇」もあって「倭」は、同著によれば、負のイメージ「ねじれた、もしくは萎縮した人間」と連結していて、中華思想を背景とするとあります。著者は「強烈なまでに込められた人間差別の『文明観』」だとも述べています。本来「倭寇」はまさに「中華思想」から
エリザベスゴールデンエイジ(映画2007年作)エリザベスの続きスペイン艦隊を破り、黄金時代になるまでを描く元寇と同じで海に囲まれ国は運が良く強い日本で言えば刀狩りの時代徳川の世になる時に、手を組むのを南蛮人から紅毛人に移るきっかけであろう
元寇で戦った武士に恩賞を出せなかったから鎌倉幕府は滅びた、というストーリーは、分かりやすいけど、あんまり正しくはありません。元寇をきっかけに、鎌倉幕府は従来勢力範囲外だった西国の武士たちを組織化することに成功しました。かえって幕府の威勢は高まっています。ところが、です。鎌倉幕府が滅亡したのは、貨幣経済の浸透です。いまも昔も戦争ってのは巨大な景気刺激イベントであって、元寇のおかげで全国的な流通経済が盛んになってきます。そうなると当然、物価は上がります。領地が減ったわけでもないのに武士の生活は
カタールにてアジアカップが始まった。もう一週間前になるが笑あの激闘のカタールW杯からもう1年以上たったのか。そこから再始動、そして調整の意味合いが強い昨年の代表戦では結果がでまくって10連勝。対戦相手にはドイツやトルコが含まれており、勝ち方も強かったが…。さすがにうまく行きすぎたか。とはいえ、気にかかる部分で大きなものが一つ。先制を許す、そしてその時間帯が早いこと。2試合で合計4失点。これはかなり良くない。自分たちの雰囲気で試合に入って、あっという間に主導権を握られ、失点してば
昨日、ハイジャン男は、福岡城跡から大濠公園へとつながる広場を歩いた。最後は、なだらかな坂道を下る。その動画である。現在の大濠公園は、福岡城の西側の外堀になっていた。福岡城その1福岡城について福岡城下絵図(現地の案内板)100名城85番の福岡城に2008年以来2回目の登城です。前回は旅行最終日で、疲れと暑さでバテてロクに見学できていなかったのでした…。歴史慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦の後、筑前に入封した黒田孝maxcarter.aaa-plaza.netこのページを参照して下さい
元寇の前にも、、あったのか、、9割の日本人が知らない実は元寇よりもやばかった日本最大の危機|刀伊の入寇【ゆっくり&ずんだもん解説】鎌倉時代に起きた元寇、モンゴル帝国よりも強大な元による日本の侵攻は、日本が外国に侵略されるかどうかの瀬戸際だった。そんな元寇レベルの日本の危機が、実は平安時代に起きていた。その危機の名は刀伊の入寇(といのにゅうこう)。刀伊とは女真族のこと。女真族とは、後の歴史での清国や満州の支配をする満州民族のかつての呼び名だ。...youtu.be
住吉神社に続いて筥崎宮に行きましたJRで行ったので西裏口から入ったことに成る神社では鬼門とか裏鬼門とか関係ないらしい大安吉日なんてのも神社とは関係ないちなみに神様にお願いするときも二礼二拍一礼のどのタイミングでお願いしても構わないそうだもう一つちなみにお伊勢さんではお願いをしてはいけない。ただただお礼をするのである私の近所の神社では裏に回って壁をどんどんとたたく人がいるがそれはそれでいいらしい。ただ神社にしてみたら早くに壁が傷むのでやめてほしいそうだ。この神社では裏の壁板が分
なぜ公暁は実朝を殺したのか?建保7(1219)年1月27日、鎌倉幕府3代将軍・源実朝が暗殺された。犯人は、第2代将軍の源頼家の遺児、公暁(こうぎょう)である。公暁の幼名は「善哉(ぜんざい)」という。善哉は幼くして父を亡くすと、12歳のときに鶴岡八幡宮の別当である定暁のもとで出家。僧侶となって「公暁」の法名を授けられている。また、公暁の身を案じた北条政子の計らいによって、頼家の弟で第3代将軍である源実朝の猶子となった。つまり、公暁にとって実朝は叔父であり、養父にあたる。
博多の十日恵比須神社は、福岡県立東公園に隣接している。参拝の後、人の多さと出店の片付けの車で通り難いので、遠回りして帰ることにした。すると、亀山上皇の銅像が見えて来た。初めてなので、これは行くしかない!石段を47段上る。その上にこんな巨大な銅像があるのだ。博多湾に睨みを利かさないとだめなので高くしたのだろう。「敵國降伏」何処かで見た言葉!そう、筥崎宮の社殿に掲げられている。いつ頃出来たモノなのか?裏に回る。明治37年11月建之とある。明治の頃から、亀山上皇が博多湾をお守り下
中国語では銃のことを<枪(チァン)>と言いますこれは中国で使っている漢字の略字体である簡体字で中国語を学び始めてしばらくして本来の字体は「槍」と知りましたやり?どういうこと?まあ考えれば分からぬでもありません新兵器だったのだからもともとあった武器名を使いまわしたのでしょうなと中国語では「槍」と言う言葉で銃を指すとここまでは知ったのだけどそこから先は調べなかったこれは私だけだとは思いませんけどどねなにか「知識の入口」にたどり着いた時に「後で調べよう」とか「その
モンゴルのBIGBOSS!!世界征服を狙っていただろ。殺戮マシーンだったもんな。蒙古軍団は。元寇。イメージすると怖いわ。よく撃退したよな、ニッポン!火縄銃。これが無くても蒙古軍を撃退した日本はすごいわ。火縄銃の実戦導入は200年後だもんな。左側の逃げ出す蒙古軍。鎌倉武士の勇ましさ。まぁ、今は仲良く。どこの国ともお付き合いしたいものですね。
明治37年御製かみかぜの伊勢の内外のみやばしら動かぬ國のしづめにぞたつ日本が神国であるという記述は、日本書紀の神功皇后紀に初出します。解釈はいろいろありますが、私は「神祀る国」という意味だったと理解しています。その後、南北朝時代の北畠親房が「神皇正統記」に「大日本ハ神国也」と述べたことで、日本=神国という思想が確立した感があります。ただ、ここでの神国は神が守る国という意味も含んでいました。それは鎌倉時代の元寇(弘安・文永の役)の経験が重なったからです。当時
Google製生成AIBardに「弘安の役で元軍が上陸作戦が成功し嵐が襲わなかったらどうなっていた」と質問してみた元軍は、当時世界最強の軍隊の一つであり、日本軍の数倍の兵力を投入していました。また、元軍は、最新の武器や兵法を用いており、日本軍は圧倒的な戦力差にさらされたと考えられます。元軍が上陸に成功した場合、日本軍は、元軍の圧倒的な戦力に立ち向かうことができず、敗北する可能性が高かったと考えられます。そうなると、元軍は、日本を占領し、日本の支配権を握ることができたと考えられます。具体
昔々、チンギス・ハーンがユーラシア大陸にモンゴル帝国を築き高麗と共に日本を侵略しに来た事を元寇と言う。その時代の源氏武士たちは大変強く、褒美を我先に頂戴する為、九州の現博多湾へ集結し元の勢力と勇敢に戦った。2度に渡る元の侵略から日本を護る事が出来たのは、単に武士が滅茶苦茶強かった以外にも運よく「神風」が吹いたからだと言われている。この通説は海外でも知られており、米スミソニアン誌(2014年10月10日)は「二つの強力な台風(その並外れた勢力と神によると思われ