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寿大学は、住んでいる区在住の満65歳以上の方を対象として、毎年開催している区主催の生涯学習教室です妻と一緒に受けようと思いましたが、妻は65歳以下だったので私一人で受講する事にしました週1回2時間程度、約半年間にわたって、各種講座、市内見学、体験学習などを実施しますそこで新しい趣味や仲間を見つけ、より生き生きとした生活を送ることを目的に、さまざまな分野の初歩を学びますまた、ここで得た学習成果や人的交流が、自立的な生活や積極的で生きがいのある生活に結びつき、地
認知症もあり夜間せん妄も見られた祖母は孫の不穏によりさらなる不穏に陥り疲労感満載のまま朝を迎えました申し訳ないことをしてしまったおばあちゃんごめんでも仕方ないことでもありますそれに万が一うまく対応していたら介護楽勝とか思ってしまっていたかも学習しないですね私それにしても母はこれを毎日1人で?丸投げですみませんでした私のこの経験はのちに認知症専門
2日続けて脱線します近日本線に戻ります唐突ですが私は両親を自宅で介護する気がありませんというよりまったくできる気がしないんです曾祖母の認知症をきっかけに作業療法士を目指し現在は認知症の専門病院で働いていますが私生活では食べるのは大好きでも料理は嫌いで夫とこども(遊びの延長で行っているようです)に丸投げ床に落ちたほこりは気になるからせっせと掃除するけれど棚のほこりは気にならないのでたま
どうも、ハチです!介護脱毛する方が最近増えているので「介護脱毛をするメリット」「実際にどれくらいの人が介護脱毛に興味を持っているのか?」「介護脱毛する際の注意点」などを解説しました😌
認知症の人と家族の会愛知県支部の講座で介護者の心理ステップ(介護者の心理状態の変化をまとめたもの)を教えてもらった。第1ステップから第5ステップまで。第1ステップ戸惑う、認知症になったことを納得できないでいる第2ステップ症状に混乱する、本人を怒る、拒絶する第3ステップ開き直る、あきらめる、症状に適応できるようになる第4ステップ認知症本人のことを理解できるようになる第5ステップ介護の経験を自分の人生において意味あるものと位置付けられる自分なりの看取りができる以上、全
認知症って、どんな病気?を認知症の人と家族の会愛知県支部の講座で学んだ。講座の中に、専門医のお話を聴ける日があり、そこで、みたこんな図画像はネットからお借りしました認知症には中核症状物忘れできてたことができなくなる今日が何日か何曜日かわからなくなる言葉で表現することができなくなるなどと周辺症状怒る、怒鳴る、手が出るイライラする不安になる、落ち込む徘徊不眠無関心過食などがある。例えば
私が【本当】にやりたいことって?これを見つけるのってかなり難しくないですか?私は結構な年月掘っても答えを見つけられず「私には分析する能力が足りないんだ」って思ったりしていてこんな私じゃダメ上手くいかないよねって思いながら進んでた取り敢えず進むタイプ(//∇//)そして、そんなときはアドバイスもらっても聞いているようでも受け容れられていない昨日のブログにも書いたんだけどね私はファッションを生業とする私自分の介護経験を元に介護者支援の活動をする私どっちが私の本当にや
わたし、ケアマネさんには大変お世話になぅてました。なんと言ってもひとり介護の上に父母のダブル介護。それに父の怒りんぼ期の激しさと言ったら並大抵でなく、お薬が必要だったほど↓『お薬に助けてもらえた』父が認知症になり、混乱してパワーアップした怒りんぼがウィンタミンというお薬を飲み始めて、普段の生活が落ち着いてできるようになった父母は認知症になる前…ameblo.jp一番大変だった時期、↓『わたしの介護体験③父混乱マックスの巻』さてさて、母の入所後に待っていた、もっと
今日は、一番辛かった頃のこと、書きます。母が、デイサービスに行ったり、施設に入所したことが、理解できず、受け入れられない、妄想、混乱するばかり…の父親。「おばあさんは、どこに行っただ」と、わたしの家に鬼のような形相で5分おきに来て、「おばあさんをかくまうなら、お前を警察に突き出すぞ」と脅す。わたしの家や母の入所先に1日に何十回も電話をかけ、「おばあさんを出せ」と怒鳴る。警察に「おばあさんを帰らせないところがある」と、入所施設を通報
認知症は、進行する病気だからその状況がずっと続くことはない。わたしの父や母に認知症の症状が出て、それぞれ進行して、父親なんて、食道ガンにもなって…その状況になると、戸惑い、不安になり、揺れながら、あれこれ考え、目の前のやらなきゃいけないこと、決めなきゃいけないことをやってると、現実を受け入れて、ちょっと今、落ち着いてるなっていう時期がやってくるこのまま現状維持でお願いしたいなーと思う。そうしてると、また状況が変わり、戸惑い、不安になり、揺れながら…を繰り返
認知症の人の介護の仕方みたいな本やネットみると「怒らないようにしましょう」とか、普通にできそうに書いてある。病院の医師だって、「怒るのはダメ」っていう人いる。今は、だいぶ介護者目線の発信がたくさんになって、怒っても仕方ないよねーって空気も出てきたけど、でもまだまだ、この基本路線、言い続けてる方もいらっしゃる。何回でも同じこと聞いてきて何回でも同じこと繰り返してやってまわりに迷惑かけてわたしの言うこと耳に入れずこっちは、そんな人のために時間も労力もかけてるのにさ父親
正解を探さなくなって、介護が楽になり、介護が終わるころ気付いたこと。『介護ってわたしの自己満足でいいんじゃない?』わたしが(親のために)どうしたいの?わたしが(親のために)どこまでやりたいの?わたしが(親のために)どこからやりたくないの?と自分に問いかけてそして答えを出す。親はどうしてほしいかな…も少しは考えるけど、考えすぎるとはまるから、気をつけながら。できることはやる。できないことはやらなーい。ここまでくるとひとり介護って、誰も相
認知症の人を介護していていると本人は、理解力も判断力もなくなっているので、色んなこと、わたしが決めてきた。ケアマネさんに相談するけど、決めるのはわたし。どうしてほしいの?どこまでやってほしいの?どこからやらなくていいの?いつも自分に問いかけて、そして答えを出す。でも、その答えで良いのかいつも不安だった。正解がわからなかったからその時のわたしにとっての正解は、『認知症本人の意向に合った決断をする
介護生活前半は、『いかに頑張れるか』って、いつも考えてて…認知症の人と家族の会に出会い頑張らなくていい60%介護いい加減がいい加減って、教えてもらってからは、『いかに楽するか』といつも考えるようになった。どうしてもわたしがやらなくてはならないこと、病院の付き添いサービス事業所との契約担当者会議への出席ケアマネさんとの連携などは、はい、やります。でも、デイサービスやヘルパーさん、訪問看護師さんに頼める
はちゃめちゃな頃のお話です母が神経症とレビー型認知症になり、父もアルツハイマーかも?と疑い始めた頃。母は、記憶はさほど衰えてなかったけど、体の方が先に動きが悪くなって、自立歩行がままならなくなり、そんな母を父が受け入れることができず、無理やり歩かせようとしたり、怒鳴ったり、蹴ったり…で、少しでも母を父と離れさせようとデイサービスに母が行くようになったら、デイに行くことが理解できない父は、母がデイに行くと、『男と浮気し
朝ウォーキングをしてるとデイサービスのお迎えの車をよく見る。今朝、10年振りくらいで見かけたおじさんが、デイのお迎えの車に乗り込み、見送るおばさんの背中が丸くなって、ゆっくりした足取りで家の中に入っていったの見て、「おじさん、デイサービスに行くようになったんだ」「おばさんも、おばあちゃんになったなぁ」と年月が経ったことを実感わたしも歳とったってことだ(でも気分はアラフォー、アラカンだけど)親をデイサービスに行かせるの
今まで、ほとんどこのブログに登場していないわたしの夫、ダンナさん。登場しない理由は、介護の期間ほとんどを国内、海外で単身赴任していたから。札幌、東京、ベトナム、インドネシア、タイ、スリランカ。赴任地は、西へ流れ流れて、スリランカまで行っちゃったそして、父が亡くなる4、5ヶ月前に帰任した。帰任が決まる半年前あたり、わたし、ダンナさんと離婚するつもりでした。もともと、そんなに会話のある夫婦ではなかったから、離れた場所にいて、
今日は父を看取ったこと書こう。誤嚥性肺炎で入院してて食べれなくなってたしずっと意識もなく病院から「昼間は看護師の人数も多いから大丈夫ですが、夜はご家族の方が病室にいてください」と言われるくらいの状態が数日間続き…ある朝職場に10時ごろ病院から電話。病院「お父様が血圧が下がっています、病院に来れますか?」わたし「はい、行きます、他の家族も呼んだ方がいいということですか?」病院「そうです」ついに来たんだな…でも、
母が神経症とレビー小体型認知症とわかるちょっと前くらい歯医者の予約を忘れてて行かなかったことがあり、すごくショックだったみたい「みんな予約忘れるくらいあるよ」ってわたしが言っても母の心に響かず多分、予約日を忘れたこと一回もなかったんじゃないかな。認知症になるまで真面目しっかりもの綺麗好き働き者完璧主義で生きてきたから、母にとってはありえない出来事わたしも、あれは病気の症状だったと思ってる。一方父は、認知症に
今日はお仕事行ってきた今週は3日出勤もう今年も2ヶ月切ったしさて来年どーするか…1回でええから連勤してみようかとも思う1回やって自分の体のこと知らんとやりもしてないのに出来ませんはないもんな今日はあの人この人いっぱいお話させてもらって若い職員は今、自分が抱えてることを話してくれたそして利用者さん職員一緒に介護体操でもね、ここは重度の認知症の方が多いので半分以上の方は見てるだけ興味も持たない方もあるそれでも大きな声で大袈裟なくらい動いてお手本になるようにと
10月31日(土)宇都宮市にある『とちぎ福祉プラザ』にて【介護のお仕事1日体験】がありました昨年は各施設で行ったのですが今年はコロナの影響もあり縮小しての開催になりました小中学生が対象で介護のお仕事全般を体験してもらいます私達が担当したのはお昼時間の部分そう!みんな大好き『ハンバーグ』を作りました介護施設に入所している方々にとって楽しみは食べる事!白楽園で大人気のメニュー『和風ハンバーグ』を作りますまずは子供達が来る前に3人がかりで
最近、よく耳にするHSP、繊細さん。HSPとはHighlySensitivePersonの略。刺激に対して敏感で、繊細な気質を持った人のこと。本にあったセルフチェックやってみるとわたし、バッチリしっかりHSPだったHSPの人は、職場や家庭で機嫌の悪い人がいると気になる人と長時間一緒にいると疲れる相手の気持ちがわかるので、断るのが苦手考えすぎて動けないたくさんのことがまわりに起こると、不快になったり神経が高ぶる人に頼るの
父が認知症になり、混乱してパワーアップした怒りんぼがウィンタミンというお薬を飲み始めて、普段の生活が落ち着いてできるようになった父母は認知症になる前から、薬が好きな人だったから、いろんなお薬飲んでた。父と母に一つずつ薬専用の引き出し(ハンカチや靴下しまうくらいの大きさ)があって、そこにいろんな種類のお薬がたくさんストックされてたし何か症状があって、病院行けば、内科でも耳鼻科でも整形外科でも必ずお薬の種類が増えていく。
すぐ向かいには、父母が住んでた家、わたしの実家があり、今は誰も住んでないけど、仏壇はそちらの家にある。毎朝、実家の仏壇におぶくさん(仏壇にお供えするご飯)を運んでいるわたし。父母を在宅で介護している頃から、雨の日も風の日もご飯をずーっと運んでたことを思いだし、生きてる時もご先祖様になってもやってあげることは同じなんだなって思いながら今日もご飯を運んでいる(・∀・)
長い間、拙い記録記事を読んでくださってありがとうございました。母が兄嫁との大喧嘩の末に我が家に飛び込んできてから、亡くなるまでの長い年月に、いろんなことがありました。それをずっと記録してきました。ブログは、その記録をもとに書いてきました。亡くなったところから始まったので、時系列がばらばらになったりしました。分かりにくくてすみません。ブログに書いてきた通り、母は特殊な性格の人でした。外で見せる人柄と、内でと、こんなに違う人も珍しいのでは、と思います。晩年は、体が弱って
ひとり介護の場合は特にケアマネさんの存在が大きい。ケアマネさんがどんな方かで、介護がうまくいくかどうか(うちの場合は)決まってたと思う。経験豊富な方なら申し分ないけど、でも一番大切だなって思うのは、愛。認知症本人への介護家族へのケアマネというお仕事への愛がベースにある方それと、同じ事務所のケアマネさん同士で情報交換や相談を頻繁にされていることも大切愛がベースにあ
これも、母がまだひとりでお風呂に入れた頃のこと。母は毎日お風呂に入るのに、1週間も下着を替えないことがよくあった。あてているパットだけを取り換えた。洗濯物を出してね、と言ってあるのに、パンツはお風呂で自分で洗ったりした。これは、ただでさえ長い母のお風呂の時間が長引くし(母は深夜までテレビを観るので、お風呂に入る時間が遅かった)、新しいお湯を流しっぱなしで洗うので、なんとも勿体なかった。ある日には、母のベッドを見にいくと、ベッドの下にパジャマとズボンが置いてあった。「これ、どう
認知症の人と家族の会愛知県支部のスタッフをしていると、色々なところで介護体験をお話させていただく機会があった。介護体験の話の中の父が混乱して、周りに怒りまくり、どれだけ人に迷惑をかけて、どれだけわたしが大変だったか、の部分、どうしても流れ的に話さなくてはいけないのだけど、そこが、父の悪口を言ってるようで、「おじいさん、向こうの世界で嫌がってないかな?」って、ずっと気が引けてた。(介護中は、父のことも母のことも、自分のストレス発散のために、ベラベラしゃべりまくってたくせに
何でお父さんもお母さんも、認知症になっちゃったんだろう…もっと他の病気だったらこんなに介護が大変じゃなかったかもしれないのに何でお父さんとお母さん、いっぺんに認知症になっちゃったんだろう…片方が認知症になってなかったら、2人で介護できて楽だったのに何で家だけこんなはちゃめちゃになっちゃったんだろう…みんな穏やかに暮らしてるのに自分のおかれてる立場が恨めしくて、他の家族が羨ましくて仕方なかったそんな時期があったなぁ