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国語は基本過去問演習しました河合の黒本で古文は25年分+追試漢文は8.9くらい(学校の授業でもかなりやった)現代文と小説は12.3年くらい?国語だけは11月から始めました。怖かったから笑1週間に1番23分と3番19分とか、分離してやってました。一気に一年分はつらかったので。論説24くらい小説40くらい古文50漢文45・古文高2の時、大好きでした。しかし一橋にほぼないと知った瞬間に離れ始めました。受験人生最大の失敗は「夏休みに古文に1ミリも触れなかった」ことです。笑て
・1A正直1Aは大丈夫だと思っていたんです。直前予想問題集5回冬休みやって、ほぼ90超えてたので、大丈夫だと思っていたんです。。74点これは本当にやらかした。センター利用って必ず1Aが入ってくるんです!!2Bとか社会は選択なのに…。失敗理由はただ一つ「図を書き間違えた」1Aって最後の2問選択ですよね、そこで破滅したんです。最後の図形問題めっっさ簡単だったのに、図間違えて考えまくって合わないから仕方なく確率行ってむりだからまた戻ってって……アホ(^o^)時間なくなって前の方で見直し
高2の同日は140くらい笑英語まじできなくて、高1までshehaveって書いてましたwww本番まで180さえ超えたことなかったです。あは。・文法文法書は学校でネクステやらされたけど、圧倒的にオススメなのはZ会の「文法語法のトレーニング戦略編」。高2の春休みに始めて、これのおかげで文法は怖くなくなった。あと過去問25年分冬休みから、1と2と3番だけやりました!センターの過去問は有効です!めちゃ!レベルも分かるし。・発音アクセント12月のセンタープレまで全く対策なし笑ただ発アクで
センターってあと2.3年でなくなっちゃうんだっけ。。悲し。まいいや。笑センターの重要性は学部によってかなり違うと思います。商学部は250点で普通な感じですね。ただ、私はあわよくばセンターで早稲田取って、二次の一橋に余裕作りたいと思っていたので12月1日からは完全にセンターシフトしました。ただ数学は鈍るので、毎日一橋数学1時間くらいはやりました。(クリスマス以降はやってないけど)センターって、問題は決して難しくないけど、緊張した中、制限時間ない中いかにミスしないかが大事だと思います。私の
受験終わったあぁあああぁ!!あっという間とか言われるけど長いわ!一橋商学部、まだ結果出てないけど多分合格した気がする!!から、念願の合格体験記、書くぜ!笑まぁもし不合格だとしても書いてたな自分の人生の一山が終わった記念に。笑どんな人が書いてることなのか、分かって頂いた方がいいと思うので軽くプロフを書きます。・現役生・駿台生(高2は英語と世界史行ってたけどほぼ寝てたし復習してないしなにも意味なかった。高3は1年間英語と国語、世界史は4月から秋でやめた)・部活(運動系)を高3の5月
きのう稽古に行ったときに撮った写真。青空と兼松講堂と白梅毎年のことだけど、いつ見ても素敵な風景だなぁサクラが咲いた風景を想像するだけで幸せな気分になる待ち遠しいちくさ
*問題は、「一橋大論述新研究86(14-Ⅲ問題)」で確認してください。解説問3天皇機関説問題に「先だって起きた大学の学問自治が侵害された事件」(学問の自由に加えて大学の自治を否定する性格をもった思想弾圧事件)とは、滝川事件をさす。1933年、京都帝国大学教授で自由主義的刑法学説を唱えていた滝川幸辰(ゆきとき)の『刑法読本』が発禁処分になると、斎藤実内閣の文相鳩山一郎はさらに滝川の罷免を要求した。この措置に対して京大法学部教授会は一時強い抵抗を示したものの、最終的には
*問題は、「一橋大論述新研究86(14-Ⅲ問題)」で確認してください。解説問1・問2天皇機関説にかかわることとして、以下の点を確認しておきたい。■天皇機関説とは何か■天皇機関説(国家法人説)とは、統治権の主体を法人(法律上の人格を認められた組織)としての国家に帰属させ、天皇は、国家の最高機関として憲法の条項にしたがって統治権を行使する存在であると考える学説をいう。こうした解釈は、伊藤博文らの立憲政治に対する理解を発展させたもので、美濃部達吉の登場する以前から、
問題次の文章を読んで、下記の問いに答えなさい。美濃部達吉の⒜天皇機関説は、1910年代の憲法論争を経ながら、学界はもとより政界・官界・司法界など広く通説として定着していた。にもかかわらず、1934年秋ごろから軍部・右翼などにより天皇中心の国家体制に反する学説として批判が加えられた。1935年には、美濃部は貴族院で「学匪」と弾劾され、不敬罪で告発されることになる。これを機に広範で強力な機関説排撃運動が展開され、⒝政府は、同年、国体明徴声明を出し、天皇機関説を否認した。
いつもご覧頂きまして、ありがとうございます。KATSUYAです^^現在公開中の、2016年の大学入試数学一覧です。UP予定の大学も含めた、一覧になります。1.国立■旧7帝大東京大学理系東京大学文系京都大学理系京都大学文系大阪大学理系大阪大学文系九州大学理系九州大学文系九州大学理系【後期】名古屋大学理系名古屋大学文系東北大学理系東北大学文系東北大学理系【後期】東北大学文系【後期】北海道大学理系北海道大学文系北海道大
*問題は、「一橋大論述新研究82(14-Ⅱ問題)」で確認してください。解説問4題意が少しわかりにくいが、1880年代後半に壮士芝居(書生芝居)が登場する政治的な背景と意味、および演劇史上における意味を説明する問題。壮士芝居(書生芝居)が「時事的な劇に民権思想を盛り込んだ」(『詳説日本史B』山川出版社、p.314)ものであることを知っていれば、壮士芝居のもつ「政治的な背景と意味」は推測できる。さらに教科書には、この壮士芝居が「日清戦争前後から人気がある通俗小説の劇
*問題は、「一橋大論述新研究82(14-Ⅱ問題)」で確認してください。解説問3少し勇気がいる問題。設問に、下線部(b)「貴女に紳士のいでたちでうわべの飾りはよいけれど政治の思想が欠乏だ」(オッペケペー節の一節)には「当時のある政策への批判がこめられている」と記されているので、鹿鳴館外交(井上外交、1882~1887)あたりかなと考えをめぐらしてみることはできる。ただ、確証は得られない。オッペケペー節冒頭の「自由湯(自由党のこと)」や、問4に川上音二郎一座が
*問題は、「一橋大論述新研究82(14-Ⅱ問題)」で確認してください。解説問1川上音二郎(1864~1911)は、明治時代に活躍した俳優・興行師。自由民権運動に身を投じたのち、壮士芝居(書生芝居ともいう)の一座を率いて各地を巡業。特異な演技などで知られるようになり、特に幕間(まくあい)に演じたオッペケペー節で人気を博した。また問4の設問文にも記されているが、欧米公演も成功させ、フランスから現在の芸術文化勲章にあたる栄誉を授かった。問2下線部(a)「
問題次の史料は、「オッペケペ一節」の一節である(一部の表記を改めている)。これを読んで、下記の問いに答えなさい。権利幸福きらいな人に自由湯をば飲ましたいオッペケペオッペケペッポーペッポーポー⒜堅い上下(かみしも)角とれてマンテルズボンに人力車いきな束髪ボンネット⒝貴女に紳士のいでたちでうわべの飾りはよいけれど政治の思想が欠乏だ天地の真理が解らない心に自由の種を蒔けオッペケペオッペケペッポーペッポーポー問1「自由童子」とも名のり、「オッペケペ一節」を
*問題は、「一橋大論述新研究79(14-Ⅰ問題)」で確認してください。解説すでにふれたように、寺請制度とこの制度が強制された背景を説明する問題。教科書には、寺請制度と寺檀制度という用語が記されている。採点の際にはどちらを用いても許容されたと考えられるが、寺請制度(檀家がキリシタンなどではないことを寺院に証明させる制度)をつうじて寺檀制度(だれもが檀那寺の檀家になる制度)が形成されたので、解答例では、幕府が「強制」した政策を寺請制度とした。次に「背景」について考える必
*問題は、「一橋大論述新研究79(14-Ⅰ問題)」で確認してください。解説戦国期における浄土真宗本願寺派(一向宗)の「地方的展開」の「過程」を説明する問題。教科書にかなりの記述があり、また解答例に必要な情報は盛りこまれているので、ここで似たような説明は繰り返さないことにしたい。ポイントは、蓮如・御文・講に加えて、加賀の一向一揆にもきちんと言及することだろう。加賀における自治的支配の実現は、「地方的展開」のもっとも象徴的な事例だというだけでなく、問2(寺請制度とこの制度が
いつもご覧頂きまして。、ありがとうございます。KATSUYAです^^12月に入りました。センター試験までは、あと1ヶ月半です。2次対策とセンター対策のバランスがとりづらい時期ではありますが、センターで突破できなければ2次の土俵には立てませんから、まずはセンターを突破することを目標としましょう。2016年11月のアクセスランキングです^^1位名古屋大理系数学20152位名古屋大理系数学20163位一橋大数学20164位2016年大学入
問題応仁の乱に始まる争乱の時代のなかで、仏教は、武士・農民・商工業者などの信仰を得て、惣村や都市に広まっていった。さらに17世紀になるとすべての人がどこかの仏教寺院に属すことになり、先祖の供養を行いたいという人々の欲求に応えた。こうして、仏教は多くの人々の心の救済を説くものとなったのであるが、最初からそうであったわけではない。たとえば、7世紀後半から8世紀半ばにかけて、仏教は、災害・飢饉・疫病などの社会不安を背景に、国家の安泰を願って導入されていった。10、11世紀にな
*問題は、「一橋大論述新研究77(13-Ⅲ問4)」で確認してください。解説60年安保闘争を正面からとりあげた問題。ここでは、岸信介の半生を振り返りつつ、論述すべき内容とその周辺について解説を加えたい。■岸信介の戦後■東条英機内閣で商工相などを務めた岸信介は、戦後、A級戦犯容疑者として逮捕され、およそ3年間の獄中生活を送ったのち不起訴・釈放になった。まもなくすると政界での活動を活発化させ、1953年、実弟佐藤栄作(信介は中学3年の時に父の実家である岸家の養子になった
問4サンフランシスコ平和条約の発効とともに公職追放を解除され、政治活動を再開した岸(信介)は、保守合同に力を発揮し、1955年に結成された自由民主党の初代幹事長となった。1957年には首相に就任し、日米安全保障条約の改定を進めたが、それに対する反対運動(安保闘争)が高まり、新条約の自然成立を受けて退陣した。「それに対する反対運動(安保闘争)が高まり」の部分に関連して、安保闘争が1960年5月から6月にかけて高揚した理由について説明しなさい。(150字以内)*改題の原則などに
*問題は、「一橋大論述新研究75(13-Ⅲ問3)」で確認してください。解説占領初期における天皇の戦犯問題が問われている。一橋大の出題傾向を考えると、少し時代をさかのぼって考えておく必要があるだろう。■明治憲法体制下の天皇■そもそも明治憲法体制下の天皇は、二つの相反する面から語られる存在だった。第一は、天皇大権保持者としての立場を強調・絶対視する専制主義的天皇像であり、第二は、自己の意思を政治的決定の場に持ちださないことを原則とする立憲主義的天皇像である。
問3岸(信介)は、敗戦後、A級戦犯の容疑で逮捕されることになったが、1948年,起訴を免れて出獄した。その際に岸が向かった先は、吉田内閣の官房長官を務めていた実弟の佐藤栄作の公邸であった。「A級戦犯の容疑で逮捕されることになった」の部分に関連して、GHQが天皇を戦犯容疑者に指定しなかった理由について説明しなさい。(70字以内)*改題の原則などについては、「一橋大論述新研究1(予告)」をご覧ください。*解説解答は、以下で確認してください。問3→「一橋大論述新研究76(
*問題は、「一橋大論述新研究73(13-Ⅲ問2)」で確認してください。解説「日本が太平洋戦争の開戦を最終的に決定する契機となったアメリカの動き」、いいかえると、ハル=ノートの内容と意味を説明する問題。問題の要求をこう解釈することができた時点で、本問は、事項説明型の単純な問いになる。ただ、「太平洋戦争の開戦」にいたる過程は、複雑な様相を呈している。ここでは、1930年代後半期からの日米関係を振り返っておこう。熟読して、自力で年表を作成しておくと効果的だろう。■19
問2岸信介は……1936年には満州国にわたり、政府高官となって、産業開発五カ年計画の立案や日産コンツェルンの満州移駐に関わった。満州国で関東軍参謀長の東条英機と親しくなった岸は、日本に戻って商工次官を務めた後、東条内閣で商工大臣に就任し、太平洋戦争の開戦の際には宣戦の詔書に副署した。日本が太平洋戦争の開戦を最終的に決定する契機となったアメリカの動きについて説明しなさい。(125字以内)*改題の原則などについては、「一橋大論述新研究1(予告)」をご覧ください。*解説解答
*問題は、「一橋大論述新研究71(13-Ⅲ問1)」で確認してください。解説一橋大受験生に、金(輸出)解禁=金本位制復帰政策を柱とする井上財政のイロハを、ここで説明しなくてもよいだろう。*参考:「金解禁政策の総整理」この財政政策は、一時的な不況を覚悟して日本経済をスリムにすることで、その経済体質を抜本的に強化しようとする試みだった。このための一環として産業合理化の促進が掲げられ、1931年には各種産業におけるカルテル活動を保護する重要産業統制法が制定された。なお、カ
問1岸信介は、1896年に山口県で生まれ、東京帝国大学在学中、美濃部達吉と対立する憲法学説を唱えていた上杉慎吉に私淑した。卒業後、農商務省の官僚となり、その後身の一つの商工省で重要産業統制法の作成にあたった。この重要産業統制法が制定された経済的背景について説明しなさい。(60字以内)*改題の原則などについては、「一橋大論述新研究1(予告)」をご覧ください。*解説解答は、以下で確認してください。問1→「一橋大論述新研究72(13-Ⅲ問1を考える)」
いつもご覧頂きまして。、ありがとうございます。KATSUYAです^^11月に入り、センター試験まであと100日を切っています。ここからはあっという間です。病は気からとは言ったものですが、本番の出来も気からだと思います。「これをやり残した」と思って本番に臨むよりも、「これだけやったんだ」と思って本番に臨んだ方が、きっとうまくいくでしょう^^そう思えるように勉強を進めましょう。2016年10月のアクセスランキングです^^1位東京工業大学数学20152位名古屋
*問題は、「一橋大論述新研究69(13-Ⅱの後半問題)」で確認してください。解説第一次世界大戦にかかわる基本的な問題。「この資料をふまえながら」、同時期における日本の対中政策を整理しておこう。■第一次世界大戦と日本の参戦■1914年、ボスニア訪問中のオーストリア帝位継承者夫妻を、親露的なセルビア青年が暗殺する事件(サラィエヴォ事件)を発端に、第一次世界大戦が勃発した。この戦争は、ヨーロッパをおもな戦場とする、4年を超える総力戦(totalwar)へと発展していっ
問題次の資料は、ある外務大臣の閣議での発言である。これを読んで下記の問いに答えなさい。資料斯かる次第で、日本は今日、同盟条約の義務に依つて参戦せねばならぬ立場には居ない。条文の規程が、日本の参戦を命令するやうな事態は、今日の所では未だ発生しては居ない。ただ、一は、英国からの依頼に基く同盟の情誼と、一は、帝国が此機会に独逸の根拠地を東洋から一掃して、国際上に一段と地位を高めるの利益と、この二点から参戦を断行するのが機宜の良策と信ずる。設問この資料をふまえながら、
*問題は、「一橋大論述新研究66(13-Ⅱの前半問題)」で確認してください。解説日露戦争は日本の国力をはるかに超えた戦争だった。戦費は約17億円。それは開戦前における政府の租税収入の10倍以上、日清戦争の戦費の約8.5倍に相当するものだった(→下線部➋「諸般歳計の膨張」)。このため日露戦争は、内外での国債募集(外債約7億円・内債約6億円、→下線部➊「幾千万、幾億万の公債」)と増税(非常特別税3億2000万円弱→下線部➌「荷重の増税」)とによって遂行されることになる。