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クリシュナムルティさんの教えは、深淵で難解だと言われています🤔確かに頭を使って理解しようとしても分からないので、難しく感じるのだと思います😅でも、とても分かりやすく書かれたご本も結構あります。たとえば、「子どもたちとの対話」は、タイトル通り子どもたちに向けた講話なので、とても優しく語られています。賢者の一言J.クリシュナムルティ「心がこの愛の感覚に満たされることはとても重要です。というのは、その時君は破壊せず、非情にならないし、もはや戦争はなくなるからです。そのとき君た
『これから瞑想の行為にとりかかろうと試みることは瞑想に入ることではない。それはいざ善良たろうと志しても、おのずからなる善性が花開くことがないのと同じである。素直な心についても、養おうとすればもはやそれは消えてしまう。瞑想は、ふと窓を開け放てば吹き入る微風のようなものである。それゆえ、意図的に窓を開けておこうとしたり、招き寄せようと試みれば、決して姿を現わすことはない。思考は絶えず様々な自己欺瞞に陥りやすい狡猾なものであり、それゆえ瞑想のありようとは明らかに一線を画する。愛
冥想とは、既知のものから己自身を自由にするための精神の運動である。祈りは既知なるものの間を往来する。それは何らかの結果をもたらすかもしれないが、その結果は依然として既知なるものの領域の中にある。既知なるものの中には葛藤や、不幸、混乱がある。冥想とは精神が営々として蓄積してきた一切のもの全的に否定することである。既知なるものが観察者の内実であり、それ故観察者は既知なるものを通して事物を見るだけである。イメージは過去に目指しており、冥想とは過去に終止符を打つ
<拡がり続ける宇宙>ところで私がゲーム『ファイナルファンタジー』が好きだと、どれくらいの方がご存知だろうか。まあそれは別にいいのだが、ファイナルファンタジーのナンバリングの『X(10)』のストーリーはよく出来ているなと、いまでも感じている。簡単に作品の内容を解説すると、“シン(sin=罪)”という名の、倒しても倒しても復活する天災のような超巨大な魔物(クジラとゴジラと島を合体させたような感じ)が世界中の人々の生活を脅かしていて、そのシンを倒すために立ち上がった
Kと呼ばれ人物、J.クリシュナムルティーの瞑想について。彼の著書の中あまり知られていない、星雲社刊の「瞑想」という本からの抜粋です。瞑想とはあるがままにものを見ることでありそれを超えていくことです瞑想するということは時間にたいして無垢になることです瞑想とはエネルギーを全面的にとき放つことです瞑想がもたらす死によって不死なる新しいものがあらわれます愛が花ひらくことそれが瞑想です………………………………✨✨✨一般的に、瞑想とは座禅を組んで、なにかマントラ(呪文)
「言葉や祈願を復唱するのは自己催眠的な行為であり、自己閉鎖的で破壊的なものである。思考の孤立性は常に既知なるものの領域にあり、祈りに対する答えは既知なるものの反応である。瞑想はそうしたもののはるか向こうにあり、その領域には思考は入れない。その中では何の分離もなく、それゆえ私という意識を成り立たせる個別性は消滅する。瞑想は開かれた場所にあり、そこには何の秘密も介在していない。あらゆるものが裸形で、はっきりと姿を見せており、そのような明澄さの中ではじめて、
賢者の一言金森将誰もが自分の外側に「世界」があると思っていて、その「世界」の中で、いつもあたふたしています。「事実」は、まったく反対で、あなたが「世界」を丸ごと包み込んでいます。空間のようなあなたがずっとそこにいて、その中に騒々しい「現実だと思い込んでいる世界」が現れているんです。そこに気がつくことができれば、あなたは、すべてが「静寂」であることを思い出すでしょう。バタ足ノンデュアリティ③くり返し触れたい《バタ足》メッセージより………………………………✨✨✨昔々、クリシュナ
「瞑想は祈りとは無縁である。祈り、祈願は自己憐憫から生まれる。あなたが祈るのは何か困ったとき、悲しいときであり、自分が幸福で楽しいときには、祈願などはしない。人間に深く根づいたこの自己憐憫は、分離の根本要因である。分離したもの、あるいは自らを他から分離したものと考えて絶えず分離していないものとの一体化を求めているものそこからはさらに多くの対立と苦痛が生まれるだけである。このような混乱を目のあたりにして、人は天に救いを求め、妻は夫に哀願し、あるいはまた、精神が神聖とみなす
冥想は言葉の終わったところから始まる。思考の器である言葉によっては沈黙は生まれない。沈黙から湧き上がる行為は言葉から生まれる行為とは全く異質である。冥想とはあらゆる表象やイメージ、記憶から、精神を自由にすることである。クリシュナムルティの瞑想録J・クリシュナムルティ著本文は「瞑想」という漢字を使用していますがこのブログでは「冥想」の漢字を使用します。
かねてより禅では「仏に逢うては仏を殺し、祖師に逢うては祖師を殺し」といいます。この言葉は「無門関」の冒頭にある「趙州の狗子」にもありますので、ご存知の方も多いと思いますが、私はヨーガも同じスタンスでよいと考えています。ハタ・ヨーガ・プラディーピガー(1-5~8)に「聖なる祖師シヴァ神」と出ているから、ハタ・ヨーガをやる以上シヴァ神を祭るべき、というのもその方の自由なので否定する気はありませんが、シヴァの解釈もブラフマンと同じく時代等によって様々ですので、深く勉強されるといろいろなこ
冥想は祈りとは無縁である。祈り、祈願は自己憐憫から生まれる。あなたが祈るのは何か困った時、悲しい時であり、自分が幸福で楽しいときには、祈願などはしない。人間に深く根付いたこの自己憐憫は、分離の根本要因である。分離したもの、あるいは自らを外から分離したものと考えて絶えず分離していないものとの一体化を求めているもの、そこからはさらに多くの対立と苦痛が生まれるだけである。このような混乱を目の当たりにして、人は天に救いを求め、妻は夫に哀願し、あるいはまた、精神が神
冥想は決して終わることのなき運動である。自分が今冥想を行っているとか、冥想のための時間をとってあるなどと言う事は決してできない。それはあなたの意のままにはならない。あなたが組織だった生活を送ったり、あるいは特定の生活規則や道徳に従ったからといって、冥想の祝福が訪れるわけでもない。それはあなたの心が本当に開いているときにのみ訪れるのである。ただしそれは思考の鍵で開けたり、理知によって安心感を与えられたりするものではなく、一点の雲もない澄んだ空のように開け放たれ
※クリシュナムルティ、教育と人生の意義より機械翻訳により転載。QuotesbyKrishnamurti•KrishnamurtiFoundationTrustAcollectionofcarefullyselectedquotesbyphilosopherandeducatorKrishnamurti,curatedbythefoundationstafffromhisbooksandtalks.kfoundation.org本質を
『シヴァ、ガナパティ、ブラフマーのようなその他の神々が人間の観点から存在します。(中略)しかし至高の絶対者、真我の観点からは、これらの神々はすべて幻影であり、一つの実在の中に合一されねばなりません。』ラーマナ・マハーリシ「不滅の意識」私はヨーガを宗教(信仰)と切り離して考えるべきだと思います。それは本来ヨーガと直接リンクしていないという理由と、恣意的に関連付けるのは好ましくないという判断からです。私自身が無信仰というのが理由のひとつでもありますが、本当は、ヨーガに信仰をリン
※ブラウザEdge翻訳により転載します。クリシュナムルティの紹介その人、クリシュナムルティはまったく重要ではありません。重要なのは、話者を理解しようとするのではなく、人類に何が起こったのか、世界で何が起こっているのか、そして私たちとの関係を一緒に理解するために、調査し、観察し、明確に考えることです。QuotesbyKrishnamurti•KrishnamurtiFoundationTrustAcollectionofcarefullyselectedqu
こんばんは。ブログにお越しいただき、ありがとうございます。先週、朝ドラを見ていて、主人公が「何者かになりたい」と言うセリフ※がありました。※「ほんじゃきー、わしは何者かになりたいがじゃ」と。英語ではbecomesomeoneと言うようです。いい意味で使われます。普通は。ひとかどの人物になる、といったニュアンスです。ドラマでもいい意味で使われています。ところが、スピリチュアルな世界では、価値観が反転します。在家の価値観vs.出家の価値観ともいいますね。・・・
冥想は単に何か日常的な思考や感情を超えたものを経験するだけのものでもないし、幻想や喜悦を思い追い求めることでもない。意識の拡大するような幻想を抱いたり、何かを経験してそれに自らの制約性が影を落としていることに気づかないのは、未熟で卑小の精神である。ところが世間ではそのような未熟な精神が大成功を収め、有名になり評判になったりし得るのである。そうした未熟な人間たちが従う導師たちも、やはり内実において従う者たちと変わりない。冥想はこうしたものとは無縁である。
クリシュナムルティの本から、引用はいったんここで終わりです。今回は「瞑想」をテーマに取り出しましたが、ほかにも愛について、自由について、革命について等々、いろいろと心に引っかかる内容が満載です。基本的には、同じ内容を言い方を変えて繰り返しているようにも思えますが。。「ほとんどの大人は、心に愛がないためみじめ」「生きていても心は死んでいる」等々、あ、自分のことだ…とドキッとする言葉もいろいろあります。また折を見てまとめられたらいいな。今の自分の、ありのままを理解する
あなたは静かに坐っていても、話していても、遊んでいても、たまたま生じたあらゆる思考、あらゆる反応の意義に気づいていますか。やってごらんなさい。自分の思考のあらゆる動きに気づいていることが、どんなに困難なのか、わかるでしょう。なぜなら、思考は次々とこんなにも早く積もってゆくからです。しかし、あらゆる思考を検討したいなら、本当にその内容を見たいなら、そのときあなたは、思考が緩やかになり、それらを眺められることに気づくでしょう。この思考が緩やかになることとあらゆる思考を検
賢者の一言J・クリシュナムルティー支配と競争と戦争の文化を築き上げたのは思考にほかならないというのに、その同じ思考が秩序と平和を希求しているのである。しかしどうあがいても、思考は決して秩序と平和を見出すことはできないであろう。愛が姿を現すためには、思考が沈黙しなければらない。………………………………✨✨✨クリシュナムルティさんの教えは難解だと言われています。確かに頭で理解しようとすると、とても難解です。古今東西の聖者方、賢者の教えを聴いても頭で理解できても本当に分かったことに
私自身のことを少しお話してもよければ、私はこれらのことについて、ウパニシャッドやバガヴァッド・ギーターも心理学の本も、読んだことがありません。しかし、お話したように、自分の心を眺めるならば、すべてはそこにあるのです。それで、ひとたび自覚の旅に出かけたときに、本は重要ではないのです。それは、見知らぬ土地に入ってゆき、新しいものを見出したり、驚くような発見をしはじめるのに似ています。しかし、君が自分を重要視するなら、それはすべて壊れてしまうでしょう。「私が発見した。私は
やってごらんなさい。遠い未来のいつの日かにではなく、明日か、この午後に。部屋にあまりに多くの人がいたり、家がいっぱいならば、そのときは自分一人で出てゆき、樹の下や河岸に坐って、自分の心の働くようすを静かに観察するのです。働くようすを訂正せずに、「これは正しい。あれはまちがっている」と言わずに、映画でも見るようにただ眺めなさい。映画館に行くとき、君は映画に出演はしていません。男優と女優が出演していて、君はただ眺めているだけです。同じように、心の働くようすを眺めなさい。
冥想を行うために、意識的にある態度、姿勢をとれば、それは精神の慰み者、玩具になってしまう。もしあなたが生の混乱と悲惨から自分自身を救い出すと言うような決意をするとすれば、それは空想的経験に終わり、それ故冥想とは言えない。意識的精神も無意識的精神も冥想の中では何の役割も演じてはならず、冥想の深さや美しさについての自覚すらあってはいけないのである。そのような期待を持つのであれば、空想的な小説を買って読む方がまだマシなのである。冥想の最中で全的な注意を傾けた
しかし、幸せは探せるものではありません。それは結果であり副産物です。幸せをそれ自体のために追求するなら、意味がないでしょう。幸せは招かなくても来るのです。そして、幸せだと意識したとたんに、もはや幸せではないのです。君たちは気づいたことがあるでしょうか。特に何でもないことで不意に喜ぶとき、そこにはただ微笑んだり、幸せであるという自由があるのです。しかし、意識したとたんに、それをなくしてしまうでしょう。自分で意識して幸せだったり、幸せを追求したりすることは、
神は存在するのか、しないのかこれは人類にとって根源的な問いのひとつと言えるでしょう。#私たちが想像力で神を作りだしたのです。思考が神を考え出したのです。私たちが不安、絶望、孤独、心配から神と呼ばれるものをでっち上げたのです。神が自分そっくりに私たちを作ったのではありません。#個人的には、私は何も信じておりません。話し手はただ物事をあるがままに、真実に直面し、あらゆる事実、あらゆる思考、すべての反応の性質に気づくようにしているだけです。#彼はそういったすべてにひたすら気づくよう
君たちは歌を聴くとき、どのように聴くのでしょう。君たちは歌っている人が好きかもしれません。言葉の意味を追っているのかもしれません。しかし、そのすべての裏で歌を聴くときには、調べと、調べの間の静寂を聴いているでしょう。同じように、そわそわせず、手も爪先も動かさず、とても静かに坐って、自分の心をただ眺めてごらんなさい。たいへんに楽しいものなのです。楽しみやおもしろいこととしてやってみるなら、君のほうの制御しようとする努力もなしに、心が落ち着きはじめることに気づくで
冥想は静謐の中で行われる運動である。精神の沈黙こそは本年たる行為のあり方である。思考から生まれた行為は天真たりえず、それ故いたずらに混乱を生むだけである。精神の沈黙は思考から生まれる事はなく、精神のざわめきを止めれば生まれると言うものでもない。頭脳そのものが静まり帰った時に初めて、静謐な精神が生まれるのである。長い間反応し、何かを(内部から)投影したり、防衛したり、あるいは主張したりするように条件づけられてきた脳細胞は、物事をありのままに見ることによって
いつかそれをやってごらんなさい。今、やってごらん。私の話を聴きながら、話だけではなく、まわりのあらゆるものを聴くのです。牛の鈴、寺院の鐘の音を聴きなさい。遠くの列車や道の荷車の音を聴きなさい。そしてもっと近づいて、私の話も聴くならば、聴くことには大いなる深みがあると気づくでしょう。しかし、そうするにはとても静かな心を持たなくてはなりません。本当に聴きたいのなら、心は自然に静まるでしょう。そのときは、隣で起きていることで散漫にはなりません。あらゆるも
『生、真理は、生きられるべきものです。ですが、表現は技術を要求します。今、絵を描くためには、あなたは技術を学ぶ必要があります。ですが、偉大な芸術家は、もしも創造的衝動の炎を感じたなら、技術の奴隷ではないでしょう。あなたが自己の中で豊かであるなら、あなたの生は単純[素朴]です。ですが、あなたは、衣服の単純[素朴]さ、住居の単純[素朴]さといった外的手段をとおし、禁欲主義と自己修練をとおして、その完全な豊かさに至りたいのです。言い換えれば、内なる豊かさから結果的に生じる単純[
冥想は経験を継続したり拡張したりすることではない。経験には必ずその目撃者がおり、彼は常に過去に縛られている。それに対して冥想は、あらゆる経験に終止符を打つことに他ならない全的な無行為である。経験的行為は過去に根ざしており、常に時間に縛られている。そこからは混乱の原因となるような行為が生まれるだけである。冥想とは、過去に惑わされることなくあるがままの現実を見るような精神から生まれる、全的な無行為である。そのような行為は外部からの働きかけや問いかけに対する反応で