ブログ記事166件
<題名のとおり修ちゃんはアスペルガー>それに初期の認知症がプラス。発症は日によってかなり波がありますが…。ここ2、3日の出来事を。•お客様に’(お茶)置きました’とドヤ顔(それは当たり前だっちゅうのーー)•いつまで経っても出勤してこない(着替えたらそれで満足、かい)•’いただきます!’の声がやけに大きい(あんたは食べる事しか楽しみがないのか!)(Atomよ、その声に反応してくれてありがとう)毎日汗と笑いが絶えません(笑)修ちゃんにも会いに来てくださいねー!
私には、1つ上の姉がいます。学年は1つだけ上なのですが、年齢は1歳9ヶ月離れています。だから幼少期の【成長】という意味では、1歳差というよりも2歳差と言った方がしっくりくると思います。2歳の差って成長としてはかなりの違いがあると思うのですけれど、私は子供時代、いつも父から【姉と同じ】に扱われていたと感じます。例えば、姉と喧嘩になった時。姉はいつも私のことをバカにしていました。(こんな感じでした→姉が私の畑にまいた、憂鬱の種)私に対する姉の態度はいつも本当に酷いものだ
2つ前の記事を書いた後に思い出したことがあります。父は、私が幼稚園教諭になりたいと言った時、こんなことを言いました。「そんな資格取ったって働き口なんか絶対にないぞ。」「幼稚園教諭はコネがなきゃ就職できない世界なんだ。」「仕事がなかったらどうやって生きていくんだ!?」「それで困ったって、誰も助けてくれないぞ!」上記は前の記事に書いたのですけれど、それ以外にも、私はなかなか衝撃的なことを言われ、父から威圧されていたんです。それは…「好きなことなんか、仕事にするもんじ
以前のこちらの記事で「私は高校生の頃に幼稚園教諭になりたかった。だけど父に繰り返し脅されて却下された。」と書きました。今回はそのことについて書きます。私が高校生の頃、従姉妹が子供を産みました。私は初めて見る赤ちゃんに夢中になって「子供ってこんなに可愛いんだ!」と衝撃を受けたんです。それをきっかけに、幼稚園教諭になりたいと思いました。だけど幼稚園教諭になりたいと父に話すと、父はこう言いました。「そんな資格取ったって働き口なんか絶対にないぞ。」「幼稚園教諭
以前にも少しブログに書いたことがあるのですが、私は幼稚園に入学した直後、幼稚園に行くのが毎日とても嫌でした。行ってしまえば楽しいのですけれど、毎朝母と離れるのが辛かったんです。その頃の私は、1日中ずっと母と一緒に居たかったんです。「嫌だ!お母さんと離れたくない!」という悲しい気持ちで、泣きながら幼稚園バスのバス停まで歩いていたことは、今でもよく覚えています。(泣きながら通った期間は覚えていませんが、母曰く入園から1ヶ月以上私は毎日泣いていたそうです。)それで。当時、私の
(続きです。)父は訳のわからないことを言ってきたけれど、私は自分がしようと思っていた【報告】は済んだ、と思っていました。父と母はワーキャー騒いでいるけれど、放っておいてあとは旅立つだけ、と考えていました。だけどそれから数日後、私が同じく実家のリビングで過ごしている時に、父がまたとても高圧的な態度で、いきなり言ってきたんです…。==============父)世界一周だけどな、行って良いぞ。…は??めっっっちゃムカつく!偉そうに許可なんか出すな!
(続きです。)前回の記事では、当時23歳の私が母に電話をして世界一周することを報告し、それを聞いた母が取り乱しました。今回は、そんなやり取りから少し経って私が帰省した日のことを書きます。==============帰省した私と母がリビングに居ると、父が部屋に入って来ました。父は帰省した娘に「おかえり」の一言もなく、開口一番とても高圧的な態度で、キッパリとこう言いました。父)おい!世界一周するっていう話だけどな、ダメだ。…は?ダメってなに?父には、私
以前にも書きましたが、私は数年前に不妊治療(顕微受精)をしていました。色々あった後に治療はやめたのですが、「治療をやめる」と父に報告した時のことを改めて書こうと思います。父への報告は、父と夫と私の3人で外食をしている時にしました。(個室です。)私「子供ができなくて色々と検査したら男性不妊(説明することは夫も了承済)だったんだ。それでずっと不妊治療をしてたんだけど、どうも無理みたいで。子供は大好きだし育てたかったけど、諦めることにした。」父「でもなあ…。自分の子供って
小学校低学年の頃に地域のウォーキングイベントがあり、私は父から無理やり、家族で参加させられました。ウォーキングコースは3種類あったのですが、私が参加させられたのは13㎞のコースでした。当時の私は13㎞という距離がどれほどかわかっていませんでした。だけど父から「◯◯山の上まで歩いて、戻ってくるんだぞ。」と聞かされて、「無理だよ…。」と思ったのを覚えています。「そんなに歩けないと思う。」と言う私に対して、父は「もっと長いコースを歩く人だっているんだ!13㎞くらい歩けなくてどうする!
(続きです)カウンセリングで私が父親のことを話すと、先生は「じゃあ、そのお父さんのことを今はどう思う?徹底的に『異常だ!』とやってみて。」と言いました。だけど私はここから、何一つ父を「異常だ!」と糾弾することができませんでした。父を糾弾しようとして色んなことを思い出すと、子供の頃の悲しさとか辛さが蘇ってきて、泣くことしかできなかったんです。そうしたら先生が見本を示すように、私の代わりに父のことを『異常だ!』と言い始めました。「子供の成長を潰すような事ばかり言
父親のことを書こうと思ってPCをつけたり閉じたりしながら、この数日間色々と考えていました。それでふと、思ったことがあるんです。私はどうして父親のことを「異常だ!」と書けないのか…。それは心が断固拒否の記事に書いたように、父親のことを考え始めると耐え難い苦しさに号泣してしまいそうで怖い、というのもあります。だけど前回のカウンセリングのことを考えている時に、もう一つの理由に思い当たったんです。今日は一旦そのことについて書こうと思います。まず私が前回のカウンセリングで
時間があいてしまいましたが、続きです。私が約8年間ずーっと抱えていた疲労感の原因について、「これだ!」と閃めいたこと①です。11/10(火)に夕ご飯を作っている時(日付けなんてどうでも良いと思うけど、記録しておきたい。)、私はすごくリラックスして、気持ちよく料理していたんです。そのリラックス感というか、「気持ちが良い」という感覚って、料理中に感じるのは、私はたぶん人生で初めてでした。昔は料理なんて義務でしかなかったし、最近は少し楽しさもわかってきてはいたけれど、それは「楽し
早く死ね二度と会いたくない職場でもアスペ家でもアスペ実家にもアスペ諸悪の根源は実家のアスペ二度と会いたくない自宅でストレスが溢れてしまったアスペに思いを放ったところでアスペで返ってくる最悪の状況を自分で作ってしまった実家で親にアスペ否定され自宅で思いを話すとまさかの、ひとの親を否定するアスペもう行き場がない
昨日のカウンセリングのことを、少し書きたいなと思いました。中身をまとめるのは力を使うので、それを書くのはもう少し先になると思うのですが…。今回はカウンセリングの一部と、私の気持ちを聞いてほしいんです。昨日は、あるきっかけで両親のことを話していました。(きっかけも何も、私の苦しみの根本は全て両親からきているらしいので、どんな話も少なからずそこに繋がるのですけれどね。)それで父と母のエピソードを幾つか話した後の、先生との会話です。グリーンの文字が先生、黒が私です。====
友人のお父さんが病気をしてしまった、という話を聞きました。大きな病院での治療が必要だけれど、友人の実家は田舎なので、近くに該当する病院がなかったそうです。入院治療後も長く通院する必要があったので、お父さんは治療する病院をどこにするか、困っていたそう。友人は結婚していて、現在は実家から車で6時間ほどの距離に住んでいます。そして、大学病院に勤めています。友人は「お父さんの治療を自分の勤める大学病院でしたらどうか」と提案し、お父さんも喜んでくれたので、実際にそうしたのだそうです。お
姉と甥が遊びに来ていて、とても楽しかったけど、かなり無理したので身体の痛みがMAX、激痛です。痛すぎて正気を保ってられないなか、母が精神障害向けの就労相談会に行こうと求人チラシ見せてきて、バトルしたところです。働きたい気持ちはあるけど、今は生き延びるだけで精一杯の状態。座っていても寝ていても痛くて24時間ずっと辛い。それに、求人なんて前からずっと探してる。医師に職探し禁止されていても。確かに私は働きたいと言っているけど、それはちゃんと専門医の治療を受けて痛みが減ってくれたらの話で。そ
水道の水漏れが分かり、父がずっと興奮してうるさい、、、もう少し冷静に対処できないものか。幸い業者の方が来てくれたので、父も落ち着いてくれたらいい。大きな声が近所中に響き渡り、本当に近所迷惑で申し訳ないです。身体も頭も痛すぎて、きついです。
アスペルガー児はいじめの被害者になりやすい。それでも、無理やり学校に行かせないといけない理由は、ホームスクーリング・システムが日本には無いからだと思う。アメリカのホームスクーリングについて調べてみたら、驚くほどしっかりとしていた。まず、州のホームスクーリングを管轄している窓口に理由、いつから始めるか、教えることになる親の高校卒業証明書を提出。そして、出席状況は必ず記録して、小・中・高校卒業証明書取得時、トラブらないように大切に保管。予防接種の義務や、出席状況の提
こんばんは絶賛リバウンド中です8月は盛りだくさんにイベントがありましたからそりゃ疲れる!でも躁状態なので身体はそんなに疲れてないよ〜と脳が間違って感知こんな時は休息を無理にもしないといけないのですが…仕事や用事でできず…困った私の脳は過食へと走っておりますはい、多量の炭水化物と糖質オンでございますドタバタなお葬式は私には大切な事だったんです祖母はそりゃね亡くなることは誰も分かってたよ自
やらかしてしまった。怒らないようにしよう、我慢しようと思っていたのに、我慢できなかった。父はアスペルガー症候群なのは、知っている。母がカサンドラ症候群なのも、知っている。できるだけのことはやっていると思う。父にも、母にも。それは私がやりたい、と思っていることを押し付けているだけなのだろうか。おそらく父の症状は確実に悪化している。それに気づいているのに、やっぱり人としてやってはいけないことはどんな理由があったとしてもやってはいけないと思うの。たとえそれが病気だとし
私の両親は変わっている。それが当たり前だった。私が30歳の頃に父がアスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)であることに気がついた。きっかけは当時通っていたグループカウンセリングのカウンセラーに指摘されたからだ。まず父は記憶力がものすごくよい。学生時代は教科書を一字一句丸暗記して、学年上位の成績を修めたとよく自慢していた。また学歴を人一倍、気にする父は身の回りの人の学歴、出身校はもちろん、著名人や有名人の学歴も一度聞いただけで正解に覚えることができた。父は目を合わせて会話する
生活保護を受けるしかないです。役所に相談に行ったら、両親の年金は生活保護の基準以下と分かりました。私は今、週の半分は通院で、医療費もとても掛かるし、体力も気力も全く回復しないまま、生きながらえている状態です。このままの経済状態だと、家族みんな崩壊する。アスペルガーの父は一度仕事の面接に行ったけど不採用。「出来ることなら働きたくない」とハッキリ言います。父が若い頃からギャンブル依存だったせいで、我が家は貯蓄もできず、年金も少なすぎる(これは、父たち団塊の世代はみんなそうだと思います。父