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第315話こんにちは菊水千鳳ですㅤ前回の日記(金王八幡宮(渋谷)の神々がいらしたその2)の続きです。ㅤ3月31日の金王丸木像御開帳の祭祀に、仕事の予定が急に変更になり、奇跡的に参拝することが叶いました。今回の参拝で一番!感激したことがありました。ㅤそれは、金王丸さんと義経さんがついに和解したことです。ㅤ金王丸さんの御開帳の儀式に神主さんたちの席の傍らに列席された義経さんは、御堂から一番近い場所に座っていました。何せ、金王丸さんを殺めた張本人ですから。弔いや和解の意味も
元寇をきっかけに、鎌倉幕府は従来勢力範囲外だった西国の武士たちを組織化することに成功しました。かえって幕府の威勢は高まったんです。幕府権力は元寇のお陰で最盛期になった、と言えます。ところが、です。社会には、貨幣経済が浸透します。いまも昔も戦争ってのは巨大な景気刺激イベントであって、元寇のおかげで全国的な流通経済が盛んになってきます。そうなると当然、物価は上がります。領地が減ったわけでもないのに武士の生活はどんどん苦しくなります。土地本位制の封建主義を大前提とした幕府というシステムは
日本で1番多いと言われている八幡信仰の総本社宇佐神宮ですが古代は宇佐氏の磐座信仰の地と言われています。その後、比売大神信仰となります。比売大神は卑弥呼ではないかと言われています。571年に八幡信仰に変わります。神仏習合発祥の神社と言われており。東大寺大仏の建立の功績で全国に広まるキッカケとなります。そして応仁天皇に変わったのは8世紀頃と言われています。鎌倉幕府の氏神となり庶民にも広まっていきました。調べてみると、現在の神道の前に古代信仰がある事が分かります。古代から続
長かった修羅の刻義経編もついに完結します!さて舞台は壇ノ浦の戦い。もちろんこの両雄が対峙します!陸奥鬼一vs平教経!まぁこの修羅の刻源義経編における鬼一の戦闘シーンは少ないからね、教経くらいはビシッと倒してくれなきゃ困ります。つーわけで鬼一の実力を見抜いた教経。教経「さがれ…ぬしらでは歯が立たぬ…こいつは物ノ怪だ。」刀や薙刀や弓で殺し合うという時代において「飛び蹴り」という発想はなかなか生まれないか。蹴るくらいならその前に斬っちゃえよと思っちゃうもんねぇ。さて揺れる舟の上での戦い、
次男が言う。この帽子のかぶり方、北朝鮮の喜び組みたいじゃね?俺、YouTubeでこんなの調べるの好きなんよ!YouTubeで覚えてきたそうです。笑北朝鮮について色々教えてくれます。笑他にも色々覚えてきている。次男ママ?アウシュビッツ強制収容所って知っとる?私知っとるよ。ユダヤの人が大量虐殺にあった所よね。いつか勉強しに行きたいよね。次男可哀想よね。毒ガス使ったり。怖いけん行きたくないけど。色んな世界の歴史に興味をもつのは良いことですね中には間違った
建久八(一一九七)年の年末時点での鎌倉幕府の継承は理論上の話であったが、それよりはるかに大きな継承、すなわち、皇位継承は現実味を帯びてきていた。かなりの可能性で、後鳥羽天皇は退位して上皇となり、院政を敷くという未来が見えてきたのである。建久七年の政変時、後鳥羽院政は可能性の一つとして考えられはしたものの、現実味を帯びた話ではなかった。それが一年近くの時間経過で現実味を帯びるようになってきた。源頼朝は情報の重要性を強く認識していた人であるから例外に近いが、源頼家が従五位上右近衛権少将に任命さ
吾妻鏡の欠落のために、昔から議論の起こる話がある。源頼家はいつから源頼家と名乗るようになったのかという話である。源頼家の幼名が万寿であることは誰も異論がなく、元服時に源頼家と名乗るようになったことも意見の一致を見ている。問題は、どのタイミングで元服を迎えたのかという点だ?建久四(一一九三)年の巻狩のときか?建久六(一一九五)年の上洛のときか?吾妻鏡が源頼家を詳しく書き記している場面を読んでも、また、同時代史料における源頼家の扱いを見ても、建久六(一一九五)年の上洛までの
結局仕事に行きましたが問題は解決出来ず休み明けに何とかする事に😭今週は大変だったけど来週こそは良い事ありますように。で、何だか疲れてしまったので帰りにたこ焼き買って帰りました。銀だこってテイクアウトだけじゃなくて中で食べたり飲んだりできるんですねwリーズナブルです。塩辛ポテトが気になりすぎました笑で、話が変わりますが今テレビを見てて興味深い事が!私の頃って鎌倉幕府設立は1192年(いい国作ろうと鎌倉幕府)と覚えてましたが今って1185年(いい箱作ろう鎌倉幕府)に
本日は、改めて「防人(さきもり)」について考えてみたいと思います。防人については、日本史の考え方29「なぜ古代の農民たちは逃げるのか②」でも少し触れました。高等学校で使用している教科書には、実に興味深い記述があります。「防人には東国の兵士が当てられ、3年間大宰府に属した。」ここで重要なのは、なぜ防人は東国出身の兵士なのか❓ということです。この問いは、授業でしっかり扱っておくべきだと思います😊先ず、東国について説明します
やって来たのは、和賀江嶋(わかえじま、わがえじま)です。飯島のバス停から歩いてすぐです。和賀江嶋、ご存じですか??貞永元年(1232)、鎌倉幕府も支援して築かれた港の跡で、今でも名残があるとのことです。太平洋(相模湾)に夕陽が沈む、美しい海岸の光景にひたすら感動本当にきれいで、時を忘れるとはこのことというものでした。で、肝心の和賀江島はどこなんですかね??あ、いま満潮なんじゃね??というわけで、和賀江島跡はどうやら海中にあって、見えない模様。あらあら
日曜日に、第57回吉祥寺古典を読む会を開催しました。テーマは、源実朝の『金槐和歌集』。個人の歌集(私家集)は一般に、『和泉式部集』『紫式部集』というように、歌人の名でシンプルに呼ばれることが多いのですが、源実朝の場合、『金槐和歌集』というきれいな名前が付いています。「金」は「鎌」(鎌倉)の偏から、「槐」は大臣を意味する「槐門」から来たと言われています。百人一首でも、彼は「鎌倉右大臣」という名で表されていますが、そういう名前の付け方なのですね。実朝がこの和歌集を編んだのは建暦3年(建
鎌倉観光(その3)白旗神社にある、源頼朝の墓に行ってきました。ヾ(●⌒∇⌒●)ノ鶴岡八幡宮を後にして、住宅街を白旗神社に向けて歩きます。C=C=C=┌(;・_・)┘トコトコ途中、レトロなコカコーラの自動販売機を発見。学生の頃、お世話になった自販機です。お金を入れて、左のドアを開けて、好きなビンを引き抜きます。なぜか、1本しか抜けない構造です。学生の頃、若気の至りで、二人で2本抜きを試みましたが、手にできたのは1本だけでした。自販機の、写真をよ
現在の天皇家は「北朝」の子孫です。なのになぜ、「南朝が正統」とされているのか?足利義満が「南朝を正統と認めます」という政治的決着で南北朝を合一したから、です。そんな馬鹿な、南北朝は「北朝勝利」で終わったから、南朝の子孫は消えて、北朝の子孫が今の天皇に至るのではないのか?実質的にはそうでも、形式的には、南北朝の分裂は「南朝正統」で決着したんです。「南北朝の戦い」というのは、実は「源平合戦」と同じくらい、誤解を招く表現です。南北朝時代を「南朝と北朝が戦った時代」と考え「北朝の勝利で終結し
後鳥羽天皇の即位の状況はこの時代の人であれば誰もが知っている。ゆえに、帝位に就く資格を有しながら弟に追い抜かれた守貞親王と惟明親王のことは、この時代の人であれば誰もが知っている。これは平家物語の延慶本の伝えるところであるが、どうやら源頼朝は守貞親王を後鳥羽天皇の次の天皇と目論んでいたようなのである。ただし、源頼朝が守貞親王をわかりやすい形で推していたのではなく、文覚を通じて守貞親王の即位の後援をしていたというのが平家物語の記載だ。ただ、これは平家物語の過剰反応とも言える。守貞親王と文覚