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福岡市美術館は、福岡タワーの近くにあるので歩いて行きました。エントランス正面とても立派な建物でびっくり手入れの行き届いた公園の中にあります。中に入ると、すぐに博多祇園山笠が目に飛び込んできます。福岡といったら博多どんたくですよね。前回の福岡旅行の時に櫛田神社で大きな山傘を拝見したことを思い出しました。そして、今日のメインは…おおっ!これがあの!教科書で習った国宝の金印「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)中国の後漢の光武帝が、今の博多湾付近に存
邪馬台国論争日本と新羅の祖③「西暦57年」【神武天皇と新羅王・赫居世】新羅の祖は、新羅側では赫居世(生誕:前69年?、即位:前57、没・退位:後4年3月)とされ、日本側資料(新撰姓氏録)では、神武天皇の兄である稲飯命だとされます。なお過去記事で神武天皇と赫居世(稲飯命)は、共にその数値等からヨハネの黙示録の救世主(再臨のイエス・キリスト)が投影された人物として描かれている可能性があることを見ています。撮影阪急苦楽園口駅近く夙川沿画像と記事は関係ありません
こんにちは、スタルペスです。今回訪問した「新原・奴山古墳群」の被葬者の宗像氏(族)は、"海の民"です。※「新原・奴山古墳群」玄界灘や響灘を庭のように行き来し、さらには沖ノ島を経由し対馬、朝鮮半島までの航海を自在に行なってきた海人族です。宗像氏と同じように海人族として活躍していたのが安曇氏(あづみし)です。安曇氏は、現在の福岡市東部から新宮町あたりを拠点とした海人族だったと考えられています。志賀島で発見された金印「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」の持ち主は「
宮原誠一の神社見聞牒(125)令和元年(2019年)10月22日No.125細石神社と八雲神社の金印「漢委奴國王」の保存説前回の記事にて、金印が糸島の細石(さざれいし)神社に収蔵されていた、という伝承を紹介しました。《古田武彦氏の『失われた九州王朝』(ミネルヴァ書房)「志賀島の金印」は,本当に志賀島で発見されたのか?》その金印が侍によって持ち去られ、博多の米屋才蔵がこれを買い取り、交流のあった津田源次郎に見せた。二人の相談を受けた亀井南冥(かめいなんめい)は、津田源次郎の私領地の志
前回、日本の奴国という国は、中国の漢という国から冊封を受けていた、という話をしました。この時、漢が冊封を受けていた国々に使っていた印は4種類ありました。漢の皇帝が使うものは象牙。あとは、金印→漢と同等の国力を持つ国銀印→それより少し落ちる国銅印→発展の遅れた国の王様にそれぞれ渡していました。漢の属国ではありましたが、金印をもらった奴国は、それだけ高い文化を持っていたと考えられます。今、韓国では、その頃の時代のことを教科書に、『我々は争いもせず、非常に高い文化を持
金印(漢委奴国王)の江戸期に作られたレプリカ。
「アテラ」3漢と魏と呉と日本(倭)川崎一水中国と日本後漢の混乱により董卓が献帝を擁して都を長安に移した。これに乗じて遼東太守であった公孫度が高句麗や烏丸を討伐し、山東半島も支配下とした。公孫度の子公孫康は三世紀初めには楽浪郡の南に帯方郡を新設した。韓や濊を攻略し、韓や倭は帯方郡に属した。そのころの帯方郡や楽浪郡は公孫氏によって支配されていたため、倭の魏への朝貢は公孫氏に対してであった可能性も高いといわれる。その後の後漢の衰退期には高句麗が侵攻