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室蘭臨時要塞小橋内砲台および観測所<米軍撮影>室蘭臨時要塞は、室蘭港周辺にある工場群と港湾の防衛と津軽要塞の背面防御を目的として、1945年(昭和20)に建設工事が開始された。絵鞆半島にある小橋内砲台は敵艦を迎撃するため、96式15センチ加農砲×1門と92式10センチ加農砲×1門の計2門据え付けて防備につく予定で、同年6月に第1砲座、翌月7月に第2砲座を完成させる。<掩体を擬装するための土を取り除いたまま>室蘭市近郊には噴火湾一帯の砂鉄、虻田(現在の洞爺湖町)の鉱山
◆起工:大正13年(1926年)9月22日◆竣工:昭和4年(1929年)3月31日◆備砲:五十口径三十糎加農砲2門(砲塔1基)◆設置標高:100m◆参考リンク:「対馬要塞の概略(昭和期/第三次築城期」はこちら→→→「龍ノ崎第一砲台」は、昭和期における第3次築城期の最初に構築された砲台です。対馬南東岸に設置され、壱岐要塞の砲台と協力して対馬海峡東水道を防御し、味方艦船の安全な航行を図ることを任務としていました。対馬の地図で場所を確認します。第一砲台には連装砲塔である5
◆堡塁名:赤松山堡塁◆起工:明治26年(1893年)1月24日◆竣工:明治27年(1894年)3月23日◆備砲:9㎝加農砲6門、機関砲4門◆備砲完了:明治33年4月◆設置標高:329.6m◆廃止:大正3年(1914年)/要塞整理で廃止決定、備砲撤去→昭和7年(1932年)3月/全部除籍◆参考リンク:「由良要塞の概略」はこちら→→→由良地区の防御営造物配置図です。由良地区には沿岸部に砲台と後方の山間に堡塁が置かれましたが、敵に上陸された際に背面防御を行うのが、北部の赤松
明治維新後、敵国艦隊の襲来に備えて、陸軍による海岸防御事業が進められました。欧州から陸軍士官を招へいして指導を仰ぎつつ、重要とされる全国各地の港湾、海峡に堡塁/砲台を設置する計画が立てられましたが、紀淡海峡を閉塞して大阪湾への敵艦の侵入を防ぐべく立案されたのが「由良要塞」でした。地図で場所を示します。紀淡海峡は、和歌山県北西部の田倉崎と淡路島の生石鼻の間の海峡で、その幅は約11㎞です。海峡内には友ヶ島4島(沖ノ島、虎島、神島、地ノ島)が浮かんでいますが、ほぼ中央に浮かぶ沖ノ島~淡路島
対馬南端の豆酘崎(つつさき)砲台については前回取り上げましたが、今回は砲台後方の尾崎山(標高131m)に残る旧軍遺構を紹介します。◆参考リンク:「対馬要塞の概略(昭和期/第三次築城期)」はこちら→→→豆酘崎周辺図を掲載します。今回紹介するのは、尾崎山山頂にある「観測所」と、交通壕(配管もしくはケーブル埋設跡かも)を下った北東側の麓にある「給水施設?」となります。なお遺構が観測所であると推論した理由ですが、現地で確認したところ、他地域に残る八八式海岸射撃具を配備した観測所の造り
ドイツのザクセン•スイス国立公園、バスタイ橋から車で30分ぐらいのところに、エルベ川を眺望できる絶景スポット「ケーニヒシュタイン要塞」かあります。列車で行く場合には、ドレスデン中央駅からSバーンでケーニヒシュタイン駅(40分程)まで行き、駅から要塞までは2km程度なので歩いて行けると思います。ケーニヒシュタインの街に入れると、突如、丘の上に要塞が現れました。途轍もない大きさです。有名な観光地だけあって、立派な駐車場です。要塞までは、歩いて登って行きました。晴天なのは本当に有り難いのです
S621では雪原本拠地確保に向け、旗作り活動をしています。まだ同盟罠がないので熊出来ないです荒野周辺の同盟資源確保を主に行ってます領土拡張大臣コロちゃんが本領発揮大明神はご健在です火晶765個また雪原本拠地の建設条件、所属同盟員30名を達成するため他同盟のサブ垢さんたちが一時的にお手伝いに来てくれています。S601では熊狩などを変わらず行っています。がYKMなどを抑えていた良心が一斉にいなくなったため、好き放題に横暴なことを始めています。Jがやってきて要塞横取りの図同盟潰
陸軍築城本部が大東亜戦争時に編纂した『現代本邦築城史』を読むと、由良要塞の補助建設物履歴の中に「深山方面交通路火薬庫~高森山頂」と書かれており、地図にはその道がマークされています。某書籍には高森山堡塁が築城されたことになっていますので、本当にあるのかどうかを確かめるべく歩いてきました。赤線がその道となります。火薬本庫前から少し歩くと、道路から分岐する道があります。ちなみにこのアスファルト道路も軍道で、佐瀬川堡塁や西ノ庄堡塁方面に向かって伸びています。ちなみに数時間後にこの道に合
※2023年12月21日に書き直し上見坂(かみざか)堡塁は、対馬中部の厳原町上見坂の標高390mピーク周辺に構築された陸正面防御の堡塁です。「佐須阿連、小茂田及び厳原方面より侵入せんとする敵を防止し、根緒堡塁と相待って鶏知平原を援護」することが任務とされ、明治37-38年の日露戦争では戦闘配置に就きました。◆起工:明治34年(1901)8月1日◆竣工:明治35年(1902)11月30日◆備砲:九糎加農4門、三十一年式速射野砲(※諸説あり)4門◆設置標高:390m/386m
その3では、砲台の観測用に設置された規正標柱を紹介します。大島砲台の記事はこちら。『下関要塞探訪156~大島砲台その1(砲座/砲側庫)-書換-』宗像の大島には10回以上渡島していますが、砲台の記事は4年前に書いて以来更新していませんので、この度全面的に書き直します。*****************…ameblo.jp『下関要塞探訪157~大島砲台その2(観測所/宗像大社紹介)』その2では、観測所の再訪記を書いた後で宗像大社を紹介します。その1の記事はこちら。『下関
Kazuhiro.N03690転載ポリパラさん@Poripara36995/3有明ライブまさに神回地下要塞解体本日は有明ビックサイト周辺の地下人身売買の拠点なのか?大掃除です本当にこの国のDSは世界最強と言われる組織力、資金力を持っており、創価、天皇家が加担している為、都内は地下繋がりで多くの要塞が爆破及び破壊されました。こちらも多くの車両と、人員が配備されてますhttps://youtube.com/live/x2ahq9
皆津崎(かいつざき)第一砲台が築城されたのは奄美大島南端の皆津崎付近でした。以下、簡単な履歴です。*************************************◆起工:大正10年(1921年)11月21日◆工事中止:大正11年(1922年)3月31日◆配備予定火砲:四五年式二十四糎榴弾砲4門◆実際の配備:備砲されず(大東亜戦時、野砲をもって陣地構築)◆砲座標高:7.5m◆任務:大島海峡東口の防御◆特記:同じ敷地内に第二砲台(配備予定火砲“十一年式七糎加農4門”
その3では赤丸の所からスタートします。排水溝のある道筋を辿ります。段差があります。コンクリートの瓦礫が残っているので階段だったのかも。段差を上がった先の平坦地に横長の建物基礎が2棟残っています。まずは建物跡Aです。鉄のボルトがことごとく削られています。続いて建物跡Bです。建物基礎を後にして東に進むとまた破壊された段差があります。段差を上がると沢に架かる橋になっていました。見取図で軍橋④です。この橋、アーチ状になっているんですよね。分かるかな?
こんにちは!サンパウロ在住のEruhaです。先日、ブラジル国内の牡蠣の養殖で有名なフロリアノポリス(略名フロリッパ)でたらふく生牡蠣をいただいてきました💖お目当は生牡蠣だけ✨有名レストランオストラダムスはやはりトリップアドバイザーでも1位‼️我々は地球の歩き方とトリップアドバイザーを参考にしてレストラン4つ訪れました。1つは生牡蠣は正直お勧めできませんが、3つはお勧めです!《トリップアドバイザーランキング》ピンクで囲った4店に行きました。飛行場からオストラダムスまでの間にメルカ
◆砲台名:生石山第五砲台◆起工:明治32年(1899年)5月2日◆竣工:明治32年(1899年)12月31日◆備砲:克式40口径12㎝速射加農砲4門◆設置標高:88.5m◆参考リンク:「由良要塞の概略」はこちら→→→第一から第四が明治23年に竣工したのに対し、第五砲台は9年後の明治32年に築城されました。見取図を掲載します。中小艦艇に対する攻撃用に軽砲である12㎝速射加農砲4門を備えています。他の砲台と比べて小さめの作りですし、築城された年代の違いからレンガが一切
龍ノ崎(たつのざき)高角砲台は、対馬警備隊に編成された2つの高角砲台のうちの1つで、対馬南東部の龍ノ崎を見下ろす標高313mの高地に設置されました。対馬全域図は【警備隊概略】にてご覧いただくとして、高角砲台周辺を拡大した地図を掲載します。左上にあるのが高角砲台ですが、右側には陸軍の対馬要塞龍ノ崎砲塔砲台が2基設置されています。そして高角砲台の置かれた313mピークから南側の宮ノ岳(標高325m)に向けての尾根上には、侵入防止杭と陸軍軍用地境界標石が並んでおり、宮ノ岳のピークに対馬要塞
今日は加計呂麻島北西端の実久(さねく)地区を訪問します。砲台配備図で見ると青矢印の所です。実久地区に陸軍奄美大島要塞「実久砲台」の工事が始まったのは大正10年(1921年)8月でした。ところがワシントン軍縮条約により太平洋上の島嶼における要塞化は禁止とされたため、わずか5か月で工事中止(大正11年3月31日)となりました。昭和期に入っても工事は再開されませんでしたが、その後の国際情勢の悪化に伴い、昭和15年(1940年)8月に克式十五糎加農2門が配備されることになり、翌昭和16年1
こんにちは!ゆっきーなです約3ヶ月ぶりの更新になってしまいました・・・笑7月にトルコ旅行、8月は日本に一時帰国をして、9月からは娘が息子と同じ学校に通えるようになったりと、いろんなことがあった3ヶ月でパソコンを開くということすら忘れてしまっておりました😂学校の時間が伸びて一日の自由時間がかなり増えたので、更新頑張っていこう!!と思っています✊そしてそして、大変ありがたいことに・・・最近バーレーンで出会った方々から、ブログみました!という声をいただくことが
宗像の大島には10回以上渡島していますが、砲台の記事は4年前に書いて以来更新していませんので、この度全面的に書き直します。***************************「大島」は福岡県宗像市神湊(こうのみなと)の北西約6.5kmの沖に浮かぶ島で、「筑前大島」、「宗像大島」とも呼ばれています。約500人が住む周囲約15㎞の島ですが、大東亜戦争中には陸軍の砲台や海軍の防備衛所が置かれていました。昭和15年の下関要塞砲台配置図で場所を確認します。大島全景。大島は響灘と
先日、4年ぶりに小呂島を再訪しましたので砲台の記事を書き直します。小呂島(おろのしま)は玄界灘に浮かぶ福岡県西区に属する島で、姪浜渡船場から北西約40㎞の位置にあります。150人ほどが住む有人島ですが、戦時中この島には陸軍の砲台と海軍の防備衛所が置かれていました。壱岐要塞の砲台位置図で場所を確認します。島に渡るには福岡市の姪浜渡船場から市営渡船に乗船して65分の船旅となります。日帰りできるのは火、木、土、日で、往路は姪浜・午前9時発、復路は小呂島・午後1時20分発の一便のみです
◆起工:昭和12年(1937年)6月1日◆竣工:昭和13年(1938年)10月31日◆備砲:四五式十五糎加農砲改造固定2門◆設置標高:86m/90m◆参考リンク:「対馬要塞の概略(昭和期/第三次築城期」はこちら→→→西泊砲台は対馬要塞において最後に着工された砲台で、対馬北部東岸、現在の上対馬町冨浦に構築されました。同じく東岸に設置された竹崎砲台と北部の海栗島砲台と協力して、対馬東北海面に出現する敵艦船を撃退し航路の安全を図ることを任務としていました。対馬全域図で場所を確
後編では地下壕Bと砲座Bを見ていきます。まずは配置図です。前編でも書きましたが、現地ではGPSの精度低下で正確性を欠きましたので、上図はあくまで参考程度と言うことで。洞窟砲台構築に至る経緯や場所は下記リンクをご覧下さい。◆下関要塞の本土決戦準備→→→砲座Aの坑道入口から南東に上がっていくと、地下壕Bの入口があります。入口は奥ですが、石垣で道筋が出来ています。入口です。半ば埋まっていますね(^^;)入ってみましたが、しばらく進むと行き止まりでした。写真は行き
その3では砲台の遺構をレポートします。砲台は実久集落の西方、標高100~110m付近に設けられています。実久砲台の履歴です。*************************************◆起工:大正10年(1921年)8月11日◆工事中止:大正11年(1922年)3月31日◆配備予定火砲:七年式十五糎加農→四五式十五糎加農4門◆実際の配備:克式十五糎加農2門※昭和15年(1940年)8月~◆砲座標高:102.20m/110.20m◆任務:大島海峡西口の
深山火薬本庫は、深山地区の砲台や重砲兵聯隊屯営地の後方谷筋に置かれました。火薬本庫の履歴と見取図を掲載します。◆起工:明治33年(1900年)9月1日◆竣工:明治35年(1902年)11月30日◆建造物:火薬庫と火具庫各2棟◆参考リンク:「由良要塞の概略」はこちら→→→史料と照らし合わせると、今回探索したのは2棟あった火薬本庫の1棟、第一火薬本庫周辺かと思われます。火薬庫の建物は瓦礫と化していますが、後方に境界壁とレンガ造りの橋梁が残っています。この日の探索は
生石山には5つの砲台と1つの堡塁が築城されましたが、これら砲台群の弾薬の貯蔵と補給を行う弾薬本庫が第一砲台後方谷地に置かれました。(竣工:明治24年(1891年)8月15日)拡大して見取図を掲載します。生石山弾薬本庫へは堡塁から軍道と思われる道を下って行くと到着します。また道路にも面していますのでこちらからでも入ることができます。なお弾薬本庫は破壊されていますので原型を留めていません。では、せっかくなので堡塁から下っていきます。道路脇の堡塁石垣沿いを進みます。左手に
昭和9年(1934年)の「要塞再整理」によって下関要塞は朝鮮海峡系要塞(鎮海湾、対馬、壱岐、下関)の一環となり、昭和10年(1935年)から昭和15年(1940年)にかけて下関要塞領域の各島嶼に砲台が築城されました。砲台の場所および火砲の種類・門数は以下の通りです。【参考リンク】昭和期の下関要塞の概略はこちら→→→この体制は昭和16年(1941年)12月8日の大東亜戦争開戦後も変わることはなく、下関要塞重砲兵連隊および第21警備大隊などの部隊をもって、関門地区ならびに周辺海域
2024年4月に記事を書き直しました。以下は旧記事となります。『壱岐要塞探訪㉓~渡良大島砲台その1(砲台右翼側)-書換-』4年ぶりに渡良大島砲台を再訪しましたので、ブログ記事を書き直します。渡良大島(わたらおおしま)は郷ノ浦港の沖合に浮かぶ島で、近隣の長島、原島とともに「渡良三…ameblo.jp以下旧記事です。*****************************************◆砲台名:渡良大島砲台◆起工:昭和11年(1936年)8月1日◆竣工:昭和1
深山第二砲台は第一砲台の南、標高105m地点に築城されました。第一砲台と同じく28㎝榴弾砲6門と15㎝臼砲4門を持ち、加太瀬戸に侵入せんとする敵艦を撃退する任務を持っていました。第二砲台の履歴です。◆起工:明治25年(1892年)1月18日◆竣工:明治26年(1893年)10月31日◆備砲:28㎝榴弾砲6門、15㎝臼砲4門(明治31年3月備砲完了)◆設置標高:105m/106m◆経過:大正11年度(1922年度)、演習砲台に改築◆廃止:昭和6年(1931年)9月・全部除籍
◆起工:明治35年(1900年)11月5日◆竣工:明治37年(1905年)8月8日◆備砲:斯加式30口径12cm速射加農砲6門◆設置標高:14.1m◆参考リンク:「由良要塞の概略」はこちら→→→男良谷(おらだに)砲台は、加太瀬戸に侵入せんとする敵の中小艦艇を射撃し、隣接する海軍水雷所を守るために築城されました。見取図を掲載します。北側に陸軍の男良谷砲台、南側に海軍の水雷砲台が位置しています。アジア歴史資料センターで検索した「由良水雷隊仮設位置図」を見ると水雷砲台の建物