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今日は、こちらのニュースからネタを引っ張ります。奈良時代の斎王宮殿、初確認井上内親王の正殿か三重・明和(外部リンク)https://yomotto.jp/2023/10/13/1436056/斎王というのは、皇室の祖神であるアマテラスを祀る伊勢神宮に仕える未婚の皇女さまのこと。飛鳥時代の40代・天武天皇の時代に整備されて、建武親政時代に消滅するまで(何度かの危機に晒されながらも)続いた制度でした。斎宮跡は1989(平成元)年から発掘が始まり、平安時代の方格街区や内院
らく❤たので奈良公園をお散歩続きです二月堂二月堂はこのお堂で有名な“お水取り”正しくは修二会(しゅにえ)といいその修二会が旧暦の二月に行われるためその名前がつきましたニュースなどで流れるお松明を持った練行衆が舞台に上がり松明の火の粉を散らすのが迫力の行事ですがお水取りといいますのはこの閼伽井屋閼伽井屋の中にあります若狭井から御香水を汲んで仏さまにお供えしますこの若狭井は地下水脈で福井県の若狭と繋がってるという不思議な井戸なぜ、御香水を仏さまにお供え
皆さま、ご無沙汰しています体調不良や連休の影響で、間が空いてしまいました8月31日(月)、バスに乗って市内の神社を訪れました武野神社(たけしのじんじゃ)です石段の左右に社号碑。西武池袋線・ひばりヶ丘駅北口より【西武バス】志木駅南口行、朝霞台駅行、新座営業所行「火の見下」下車徒歩5分。我が家はこのバス路線の途中にあるため、バスだけで行けます。暑くなければ自転車で行けるところです石段上に鳥居が見えます。緑が美しいここは、新座市野寺というところ。「武野神社」は、八幡山と呼ばれる
(数立神社)南宮大社その他境内社美濃国不破郡岐阜県不破郡垂井町宮代峯1734-1(南宮大社P利用)◎数立神社■祭神/猿田彦神境内の北東端に鎮座する猿田彦神を祀る社。鬼門の守護神ということでしょうか。一説には美濃国総社とも。◎金敷金床神社(かなしきかなとこじんじゃ)■祭神/豊玉姫命・蛭子神南門を出て境内社が居並ぶ参道の最初に現れる社。豊玉姫命は豊玉彦命の娘であり、彦火火出見尊の妻神。後述するように南宮大社の地では、かつて彦火火出見尊が祀られていたのではないかと考えています。
前回の「鴨氏・服部氏―少彦名神の後裔諸族」についてのメモ前編|久米の子の部屋(ameblo.jp)からの続きです。第二部には、「阿波移遷の当事者」と題する項があり、その最後(146ぺージ)では、名西郡神山町神領に鎮座する「上一宮大神社」は、粟の神「大宜都比売命」を祭神とする(この神が「大阿波女神」とされるから、こちらが祭神の原型であって、実体は天稚彦〔天石門別]の妻・下照姫か)。その祠官家は先に述べた。近隣の高根山には「笑子岩(人面岩)」と呼ばれる霊石があり、その形は笑っ
今回は神奈川県海老名市にある相模国分寺跡ににやって来ました。神奈川県海老名市といえばパン工場や牛乳工場などが近くにある場所でわりと東名高速の海老名サービスエリアなども有名で海老名(えびな)という地名は皆さん耳にしたことがあるのではないかと思います。ちょうどこの相模国分寺の近くに大型家電量販店がありデジタルカメラのメモリーカードを購入して新調して今年の春の旅写真の準備をした感じで私的には4月の春
手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)は天平勝宝元年(749年)、奈良時代に聖武天皇が東大寺大仏殿を造営されたとき、九州豊前国の宇佐八幡宮より東大寺の守護神として、大仏殿の近くの鏡池の東側に鎮座したことに始まる。そして、鎌倉時代の建長二年(1250年)に北条時頼によって現在地に遷座した。御祭神:応神天皇、姫大神、仲哀天皇、神功皇后、仁徳天皇所在地:奈良市雑司町434鳥居大仏殿・鏡池の東側の鳥居二の鳥居、右は宝庫法華堂(三月堂)前の鳥居楼門
■長屋王676年~729年(53歳没)父高市皇子(天武天皇の子)母御名部皇女(天智天皇の子)■長屋王の妻★正妻吉備内親王[皇族腹]草壁皇子と元明天皇の子草壁→天武天皇と持統天皇の子元明→天智天皇と蘇我姪娘の子夫の皇太子草壁が若くして亡くなり、息子の文武天皇も若くして亡くなり、孫(聖武天皇)が成長するまでの中継ぎとして天皇となった★妻藤原長娥子[藤原氏腹]藤原不比等の子★妻石川夫人[蘇我氏腹]石川虫麻呂の子(蘇我氏腹)などなど長屋王は嫡流に非常に近
東大寺(とうだいじ)は、奈良時代の中頃に聖武天皇の発願により、大和の国分寺として創建された。本尊の大仏さまは、華厳経の教主である盧舎那仏で、天平勝宝四年(752年)に盛大な大仏開眼供養が行われた。その後、講堂・東西両塔・僧坊などの大規模な伽藍が営まれた。治承四年(1180年)に兵火により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失し、復興されたが、永禄十年(1567年)の兵火に罹り、現在の建物は江戸時代に建て直された三度目のものである。宗派:華厳宗御本尊:盧舎那仏(るしゃなぶ
(旧)睦月十八日光浴びて水面跳ねゆく影を見て東院庭園二月の終わり雲端平城宮跡の東の張り出し部分にある東院庭園へ。聖武天皇の娘、称徳天皇時代の庭園を2010年に開催された平城京1300年祭を機に復元したもの。
(前回からの続きです)興福寺をあとにして向かった先は「東大寺」👩「鹿は何を食べて生きているの?」👨「鹿せんべいでしょ」⬅割と真面目に👩「流石にみんなには行き渡らないでしょう?ちゃんと餌をもらっているんじゃないのかなぁ?」👨「いんや、そんな事していないと思うよ。」👩「本当?草を食んでいるの?」★調べましたら、奈良公園の鹿
先日車で旅した岡山と兵庫県の旅路・・御朱印帳を携えて、吉備国分寺に行ってみました聖武天皇時代に備中国分寺造営、現存の五重塔は1844年完成したものだそうです35度越えの猛暑の中を歩いて向かうと五重塔が見えてきます、何となく吉備路の風景は斑鳩の里を思い出させます此処からの景色は法隆寺に向かう途中の感じがしました近くの田んぼには、シロサギが一羽いるのを見かけました正門の横には「日照山国分寺」の石の標識があります茶屋の右横に御朱印受付がありま
2024/04/24午前5ː46頃更新Copilot回答を生成しています…「#AICredit➣#EmperorX#YusukeKusuyama」についての情報を見つけました。この情報は、楠山祐輔さんが関連しているようです1。楠山祐輔さんは、AIと信用創造についての議論を行っているようです1。また、楠山さんは楠木正成の血脈を引く一族であり、聖武天皇と橘諸兄との繋がりがあることが楠山家文書などによって証明されています1。楠山さんは、スマートフォ
東大寺に行った時に、東大寺ミュージアムに入った。仏像もよかったけど、入ってすぐの動画が結構良かった。聖武天皇の願いを感じることができた。家に帰ってから、その辺りを調べていくと、NHKで「大仏開眼」というドラマが過去にあったと知る。NHKオンデマンドで見てみると、これまた結構面白かった。奈良時代、遣唐使であった吉備真備(天才学者)が、阿部内親王(女性)(後の孝謙天皇)の教育係となる。一方、吉備真備と同時期に遣唐使だった僧玄昉は、唐で見た大仏を日本にも造ることを夢見て、朝廷権力に食い込んでいく
平安京に先立ち、奈良に都が置かれたのは7世紀後半から8世紀。その時の聖武天皇の時代には僅か在位25年〔724~749年〕の間に、平城京から恭仁宮(くにのみや)~難波宮(なにわのみや)~紫香楽宮(しがらきのみや)~平城宮と都が転々と遷された。この時期に兵乱や災害が頻発したため、聖武天皇はこれらの厄災から逃れようと遷都したとされる。これらの遷都先の中から、今回は恭仁宮跡を探訪した。□平安時代までに宮・京が置かれたところ飛鳥時代の近江大津宮に始まり平安京までに至る130年近くの間に、9ヵ所に
山上憶良臣、宴をまかる歌山上憶良憶良らは今はまからむ子泣くらむそれその母も我(わ)を待つらむそ(万葉集)=====【教科書『国語総合』(桐原書店)の訳】=====山上憶良が、宴席から退出する歌山上憶良憶良めはもうおいとまいたしましょう。(家では)子どもが泣いているでしょう。そもそもその子の母親も私を待っていることでしょうよ。==============================☆☆☆☆☆☆【和歌コードで読み解いた新訳】☆☆☆☆☆☆(※『和歌コード』とは
慈眼寺(じげんじ)の創建年代は不詳であるが、聖武天皇の御代に勅願により観音堂に聖観音菩薩を安置したことが始まりとされている。当初は、境内二丁四方、寺領百石余りの南都諸大寺の一つであったが、松永秀久の乱により荒廃し、永禄三年(1560年)に長順上人によって本堂が再建され、不動愛染の二尊躰とともに現在の聖観世音菩薩が安置された。本尊の聖観音菩薩は聖武天皇感得の霊仏を刻んだものと伝えられ、「やくよけ観音」として親しまれている。宗派:西山浄土宗御本尊:聖観世音菩薩