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第2週2024年5月5日・日曜日学習成果1.第2週総括所要時間/3時間総合学習時間3時間00分第2週総括は、ひたすら入門英文問題精講の復習をやりまくった。今日は昼からバンドのライブを観に行くため朝のうちに勉強を終わらせた。思った以上に知識が抜けていたが、それを埋めるために総括がある。要注意語句をスマホのメモ機能に打ち込み反復した。さあ、次は基礎英文問題精講。もともとは基礎英文解釈の技術100を使用するつもりだったが問題精講シリーズで統一したくなった。さあ、第3週いくぞ。
#4131皆様、GWはどうでした?自分はここ数年の中で最もアクティブに動けて充実したGWになった。コロナ禍だったりで制限も多かったし、自粛してて動くのが億劫になったりしてたけど、今年はコレだけ動けてイイ時間を過ごせたと思う。明日死んでもいいっていうといい過ぎかもしれないか(笑)休みは昨日までで今日は仕事でした。今日は助走みたいなもんで頑張るフリすらせずに時間消化してました。で、GWの総括をしておこうと思って。4月27日
ちゃお〜♪総括て。笑会から早2週間、まだ総括してなかったのか。笑てか動画では総括したけどブログはもちっと続きそう。笑♡2024.5.4♡水森かおり同好会♡ふれあい会福岡2024総括!ふれあい会から早2週間、まだ総括してなかったのか。笑三陸挽歌!名歌です!♪ブログやってます♪https://ameblo.jp/mimorinnahibi♡かおたん記事♡https://ameblo.jp/ut-magazineland/entry-12848906490.html♡かおたんインタビュー♡h
10日ほど前の駒ケ根『花桃の里』(載せ忘れてて今頃)キレイっちゃあキレイだったけど最盛期は過ぎてたようだ。例年なら満開時に観に行けてたんだけど、今年は長野マラソン前にバタバタしてたからなぁ。あっという間に晩春。さて、月初につき定例の総括を。≪2024年4月ラン活まとめ≫◎累計走行距離⇒173㌔もっと走ったような気がしてたけど、こんなもんか。参戦した2つの大会以外はロング走(20㌔走以上)ゼロだしね。大会に向けて調整し過ぎたかな?膝痛で距
★アメンバーについて★同じジャンルのブログを定期的に更新されている方に限定させていただいております。ご了承ください。◀小4長女の紹介▶<習い事>♡小2夏から早稲田アカデミー(SS2)♡4歳からピアノ♡小1春からスイミング〔英検4級・漢検6級取得済み〕◀小3次女の紹介▶高IQ(顕在化しないIQ166)<習い事>♡年長から公文式算数:I/国語:FⅠ/英語:HⅠ♡小1夏から早稲田アカデミー(J2)♡小1夏からピアノ♡年長冬からスイミング〔
完成!遂に完成したフジミの三菱ランサーエボリューションⅥ。総括は後にして。先ずは画像を〜どぞ(.❛ᴗ❛.)つ【画像】フジミ1/24三菱ランサーエボリューションVIGSR窓枠マスキングシール付(インチアップNo.102)【ID-102】楽天市場2,376円Part0はコチラ(o´・_・)っ『新キット開始!レビュー編+仮組み』フジミのフェラーリスーパーアメリカも無事完したので、今回から新キットの開始だヽ(`▽´)/今回から開始するキットは〜コ
早いもので、入院から丸一週間が経ちました。手術フェスから6日、退院から3日目の今日も、おかげさまで体調はすこぶる快調です車の運転と、入浴時に湯舟にはつからずシャワー浴のみにすることだけは念のため自粛しておりますが、それ以外はほぼ通常運転に戻っています。なるべく歩いた方が良いとのことなので、退院から2日目の昨日は近くのお散歩コースを、のんびりと写真を撮ったりしながら一時間程歩いてきました。ちょっと留守にしている間に大分季節が進んでいましたほんの数日間ではありましたが、入
ちゃおっす今朝?の深夜2時のフライトで朝8時半頃、日本に帰ってきました~~!!毎度のことながら深夜便での飛行機の中は寝れない狭いし、シート倒れないし・・・なのでひたすら瞑想してましたノイバイ空港⇒福岡国際空港へ!!空港からはタクシーで我が家へ!!帰って片付けもせずに、速攻向かったのが!!すき家!!美味い~~~~~~~~~~~~~~~~やはりジャパニーズクォリティは高すぎですね!!わずか500円~600円でこ
◆2019年総括日本100名城巡りの総括です。飛行機に乗る為に始めた「お城スタンプ」集めです。2019年は数多くのお城に行く事が出来ました。「どこかにマイル」フル活用でした。★熊本城2019年1月13日熊本城のある丘陵地帯は茶臼山と呼ばれ室町時代には千葉城や隈本城が築かれていた地であり、この地を与えられた加藤清正が1591年(天正19)から築城を計画。1601年(慶長6)から本格的に築城を開始し、千葉城・隈本城を縄張りに取り込み、丘陵一帯を取り巻く川の流れを変えこれを内
(1)オウムへの入信と修行オウムの犯罪の原因となったのは、麻原・オウムの教えと修行である。そこでまず、私自身の体験を要約して述べた上で、今の時点で、私が、それをどのように反省しているかについて述べたいと思う。●入会(入信):1986年、23歳の時私がオウム真理教の前身団体であるオウム神仙の会に入会したのは、一九八六年の夏、23歳の時だった。当時は早稲田大学の大学院の修士課程の2年目。動機は、以前から超能力や超常的なことに関心があり、ヨーガに関心をもっていたからだ。私
こんばんは♪プリニー0号ッス。先程の更新の通り、一応の区切りのして羅刹☆0バールを撃破しました。と言うわけで、ディスガイア6を総まとめいたします。※私見ですので、あくまで参考程度に・固有キャラクター(DLC除く)★★★★☆ゼットをはじめとして、今作も濃いキャラが揃いました。人間界の王様で非常にお金にご執心のシュセンドルワガママだけどホの字になれば一途な乙女、メロディアちょっとおっちょこちょいだけど熱いぴよりまさかの自他共に認めるばばあ、果たして元の姿に……
前フリを読んだ上で読み進めてくださいね.関係者以外には面白くない話が続くのでここで閉じることをオススメします.1.序章僕が42歳のとき,2011(H23)年までさかのぼります.直近の先輩とは18歳離れており,3名が同い年.技術長を含む3名が同時に定年退職されます.そのタイミングで人事についての話が事務部長からありました.「総括としてがんばってくれ」「総括って何ですか?組織運営がやりにくくなるので,技術長の名前だけでもください」「まだ若いし技術長が長く固定されるのもよくないしな」
2008年9月2日小林由紀1.オウムと出会う私は、24歳の頃には「どこかの寺に出家して尼さんになりたい」と思っていました。それは、不毛の恋愛に疲れたことが大きく、本気で魂の救いを求め、また、地球の平和と人々の心の平安のために生きて行きたいと思いました。お付き合いしていた男性とは、遠距離になり、電話ではまだ話していましたが、もはやそれが苦痛になり、もう他の人と付き合う気力もなく
■「タントラヤーナの年」と位置づける麻原は1988年について、「今年、私は、大乗からタントラヤーナのプロセスについて説きたい。」と述べました。タントラヤーナについては、いろいろな定義がありますが、ここでは文脈上、大乗(マハーヤーナ)の中でも、さらに後期に成立した「密教」について指しているものと考えられます。一般に、インドやチベットでの密教の歴史においては、グル(導師)への帰依によって修行を進める=グルイズムが説かれるとともに、後期密教では世界の破局予言が説かれることがありました。
(2)反省1:麻原が最終解脱者という妄信次に、ここまで述べてきたことを前提にして、麻原・オウムの修行において、いかなる盲信の仕組みがあるかについて、多少述べたいと思う。まず、麻原が最終解脱者という主張について、私こそが知る話がいくつかある。●最終解脱者を自称したに過ぎないこと麻原は、私が入信する直前の一九八六年七月に、ヒマラヤで「最終解脱」したと主張した。しかし、当時において様々な海外の高僧の称賛の言葉があったが、よく調べてみれば、現地の高僧などに認定されたものではなく、麻
(5)ヴァジラヤーナ活動に参加してしまった原因の反省●なぜ弟子はヴァジラヤーナを受け入れたのかなぜ、弟子達が、大量破壊兵器を用い、日本社会を広く破壊する可能性がある麻原の預言成就の計画に参加したかというと、それには、複雑な複数の原因・要因・背景がある。それは、人によって、時期によって、多少は違うと思うが、絶えず存在した基本的な理解とは、①教団は(大量破壊兵器を含めた)軍事力を形成・行使して、ハルマゲドン的な大災害を起こしたりするが、②その結果として、真理の社会・国家が出来、
この文書『アレフ時代(2000~2008年)の総括』は、『オウム真理教時代(1983~1999年)の総括』に続き、アレフ時代(2000~2007年)についての総括を、2008年に、ひかりの輪として行ったものです。目次【1】2000年、上祐代表の出所後からアーレフの設立まで【2】2000年~2001年、被害者賠償契約の締結など【3】2002年、上祐代表就任とその新たな宗教的活動の始まり【4】2003年初頭、上祐代表の教団改革の試み【5】2
令和歌謡”質量保存”BABUです。3月に続き怒涛スケジュールだった4月も気が付けば終幕。早くも総括です。では粛々と写真から↓↓【演奏曲】※()は演奏回数original♪平成歌謡ハラスメント(4)♪アイドルシンガーの溜め息(2)♪浪速のクソババア(6)♪葉桜お八(7)♪遠い人(4)♪NewYearModernTime(6)♪平城山の路(9)♪太陽工場の歌(8)♪大阪暁闇ブルース(7)♪失態の聖名祝日(ミス・バレンタイン)(1)♪円満破局~愛の一言
■「大乗の年」と位置づける麻原は、1987年を「大乗(マハーヤーナ)の年」と位置づけ、初めて「3つの救済」を説きました。初の本格地方支部である大阪支部も開設し、全国的な展開をスタートさせました。(※なお、ここであえてこのことを記したのは、後述するように、翌1988年をタントラヤーナの年とし、1989年をヴァジラヤーナの年と位置づけていったからです)■殺人肯定説法また、この時期には、元来の過激な傾向を示す説法もしています。同年1月4日、以下の説法を行っています。
■オウム真理教の前身組織の設立松本智津夫死刑囚は、1983年夏「鳳凰慶林館」を設立し、初めて「麻原彰晃」と名乗り始めます。続く1984年2月には、東京都渋谷区でヨーガ道場「オウムの会」を設立、同年5月には、株式会社「オウム」を設立しました。■初の「空中浮揚」――誇大宣伝の始まり麻原は、1985年2月、初めて空中浮揚をしたとされています。そして空中浮揚の写真が『プレイボーイ』などの一般雑誌に掲載され、それが後々の教団で大きく宣伝されていくことになります。このうち、
目次【0】目次・はじめに【1】第1オウム真理教に出会うまで(~1989)――入信の土壌を形成した時期【2】第2オウム入信から出家に至るまで(1989~1990)――オウムへの確信を深めた時期【3】第3サリン事件に至るまでの出家生活(1990~1995)――教団の変質、個人崇拝に追随した時期【4】第4事件後の混乱を経てオウム休眠に至るまで(1995~1999)――社会対応に苦悩しつつ"グル肯定"した時期【5】第5アーレフ発足から「ひかりの輪」に至るまで(2000~2