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昨日の続きです。今日は清州城の四階最上階からです。清州城最上階から名古屋城を見たところです。拡大すると見えにくいですが、第1回のものよりいいかな?4階室内の展示はこの天守にある鯱と同じ、金箔張りの鯱です。金箔張りの瓦です。外から撮影した天守4階部分です。金箔が使われています。連戦連勝の信長公にあやかり、出陣太鼓が打てます。四階からの風景に戻ります南東の名古屋方向です。名古屋市方向の解説板です。織田信雄時代の清州城です。現
写真を追加し、加筆しています。前回の続きです。次回来るときは詳しく紹介したいです。今回は最終回で縄張りを、平成30年度の発掘調査から紹介します。登城口にある縄張図は湯浅城縄張図です。発掘調査報告書にある縄張図です。発掘調査より上が北の赤外線実測図です。赤色で加筆しています。上図①の登城口です。施錠されています。登城口上の曲輪Ⅴです。曲輪Ⅲを東側から堀切2から東側です。堀切1を南から堀切Ⅰを北側から曲輪Ⅰを南
知ったの、いつだろう(笑)。下書きにあるはずですが、ざばっと引用のみ。遺跡は実際バイトをしたくらい好きだけど、これが、もうすこし最近だったならっ!o(TωT)記録として、残しておきたい。↓拡大できるサイズで載せました(*゚ー゚)ゞ↓↓すべて引用です↓↓◆二本松藩の江戸屋敷跡https://blog.goo.ne.jp/svxs4_2005/e/ab97a30acd206614fbf67379746c62deより2006-12-09「美しい国」とはその
勝央町黒土〈くろつち〉と美作市上相〈かみや〉の境を東西に走る道路は、江戸時代、津山藩によって整備された出雲街道にあたります。現在、その脇で発掘調査を行なっている上相遺跡では、この道路に沿うように延びる2本の切り通しが見つかりました。この切り通しの底にはいずれも細かな砂利が敷かれており、出雲街道に先立って使われた道の跡と思われます。特に、上幅9m、深さ3.5mもある南側の切り通しは、断面がV字形をした山城の堀とよく似ていて、あるいはその技術を応用してつくられたのかも知れません。山城が築かれは
本日もまもなく開店!のれんがわりの伝言の、今日のキーフレーズは、【微動だにしないと感じる】です。(4月19日)<当日追記>ほんじつ、13時〜15時30分頃まで一旦閉店いたします。よろしくお願いします。メールはいつでもお待ちしております。さて、團伊玖磨幻の交響曲構想題材文庫本にメモ書き発掘調査のような感覚かな遺された資料から発見されたそうです昨日のメモ;【認めて乗り越える】より。・悪質な不記載「国庫納付」(規制法改正自民案、議員の罰金刑厳格化
【アイウエオの秘密】「高根正教・三教親子」今日は、私の言霊の師匠である高根三教先生ならびにそのお父様の高根正教先生についてご紹介します。以下プロフィールは、Youtubeで紹介させていただいてます内容のものです。(転記)高根正教は明治16年1月,神奈川県足柄下郡小田原町に生まれ。明治40年3月同県立鎌倉師範学校卒業後,同県各所の小学校に奉職,33才の若さで校長の地位につくがその研究が国体に関する公的な学説と相入れないため教壇を去らざるを得なくなり,大正13年に退職する。正教は在職中,国語
名古屋城で行われた本丸内堀発掘調査を見てきました。これは名古屋城の大天守を木造で建て替えるため内堀を調査したもの。しかしこの調査でトンデモナイものが出てきたのです。それが幻と思われてきたもうひとつの小天守(もしくは隅櫓?)の礎石です。●発掘調査の場所まず今回の発掘調査の場所を確認しておきましょう。大天守の西側です。当日の資料より。今回は4つのトレンチで調査。トレンチとは簡単にいうと試掘の穴です。トレンチ部分を見てみると…おお!何やら並んでいる巨石がありますね。これが小天守の礎石と思
https://www.fnn.jp/articles/-/686783?display=full「まさか実習で」大学生が参加した遺跡の発掘調査で大発見!3万年以上前の人類史を紐解く手がかりが!|FNNプライムオンライン宜野湾市の普天満宮本殿の近くにある洞穴から、約3万2000年前に人類が火をたいた跡、炉跡(ろあと)が見つかった。これは、県内で見つかった人類の活動の痕跡の中でも最古級のもので、3万年以上前に人類がどのように生活していたかを紐解く、重要な手がかりとなりそうだ。2024年4月12