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可哀そうな日本の火縄銃を救いたい。日本は,昭和10年代初めからABCD包囲網と呼ばれた経済封鎖を受けた。これに対し日本政府は,物資不足を補うため金属類回収令を定め,国内の金属類を回収して軍事兵器の増産に励んだ。これにより,一般家庭にあった鍋釜からお寺の鐘に至るまで,金属はドンドン軍に供出され,砲弾や兵器に作り替えられたのである。火縄銃もこの例外ではなかった。今,国内には,金属回収令により銃身を供出した火縄銃の銃床がたくさん残されている。可哀そうな火縄銃部品
慶長二年,朝鮮の蔚山籠城戦では日本の鉄砲が威力を発揮し,明・朝鮮連合軍5万7000の軍勢を退けた。日本軍は,14日間に渡り城を守り抜き,ついに援軍が来ると反撃に転じて大勝利をおさめた。この籠城戦には,豊臣秀吉の義理の甥である浅野幸長も加わっていた。幸長は,砲術を稲富一夢に学んだ鉄砲の名手だった。この時,幸長は自ら鉄砲を放って敵を倒すこと夥しく、発射煙で顔の半分が黒く染まるほどだったと伝えられている。浅野幸長像浅野幸長像(東京大学史料編纂所蔵)出典:フリー百科事典『ウィキペディア(W
宮城県丸森町私設博物館博物館『金山城伊達・相馬鉄砲館』が入る屋敷には座敷童子が棲んでいる。『#幽霊を信じるor信じない鉄砲館と座敷童』公式ハッシュタグ令和五年6月2日骨董品ランキング3位私は,幽霊を信じはしないが,座敷童は絶対にいると確信している。座敷童は、古い大きな家に棲み5、6歳く…ameblo.jp3月29日に仙台藩丸森鉄砲隊が金山神社で旗揚げしてからは,座敷童子が二階で走り回る音をしばしばたてるようになった。金山神社での旗揚げ神事(・人・)ナムナム
函館市観光案内所によれば,4月18日,函館地方気象台により五稜郭公園の桜(ソメイヨシノ)が開花したと発表された。本日には満開になるとのことである。北の大地にも,待ちに待った春がやってきた。五稜郭公園は,戊辰戦争の最後の戦いの舞台となった五稜郭を中心に整備された公園だ。五稜郭は,星の形をした西洋式城塞である。星型の5つの先端には砲台を備え,砲撃が出来ない死角を無くし,どこでも十字砲火による圧倒的な火力で狙い撃ちできるよう設計されている。出典:フリー百科事典『ウィキペディア(W
雷管式の鉄砲と同時に火縄銃の技術復元の為に、伊勢守流(津田流御流儀と毛利高政は自筆の伝書に記述。佐伯藩染矢家所蔵)の四匁筒を復元製作することにした。当地は春夏秋が短いので暖かいうちに製作できるものはしたい。福島の伝来鉄砲は現在のところ米国内のマズルローダーの銃身製作工場全てから製作を断られた。理由は尾栓部の銃身が太すぎる為だ。尾栓部の木口が対角線で35mm一寸一分あまりあり一般的な米国のロングガンで29.5mmと比較するとかなり太い。長さは42インチ前後なので同寸の筒が存在するが太さで断ら
種子島に鉄砲が伝来した後,鉄砲は将軍や大名間の進物や贈答品として利用された。新兵器というのはもちろんだが,珍品としての価値があったからでもある。インドや中国しか知らなかった日本人が,鉄砲伝来により南蛮人という異民族を知ったということも贈答品としての鉄砲の価値を高めただろう。鉄砲伝来直後は,数が極端に少ないためどんな鉄砲でも贈答品になりえたに違いない。しかし,諸国に鉄砲が広がった戦国末期には,南蛮筒と呼ばれる南蛮で製造された鉄砲が贈答品として利用されるようになった。例えば,豊
宮城県丸森町には,火縄銃に特化した金山城伊達・相馬鉄砲館という私設博物館がある。今日,当館では銃身の無い火縄銃の清掃を行った。当館は,太平洋戦争を継続するため金属回収令という馬鹿げた政策を行った事実を忘れないための火縄銃展示を行おうと計画したからだ。銃身が失われた火縄銃日本は,昭和10年代初めからABCD包囲網と呼ばれた経済封鎖を受けた。これに対し日本政府は,物資不足を補うため金属類回収令を定め,国内の金属類を回収して軍事兵器の増産に励んだ。これにより,一般家庭にあった鍋
公式ハッシュタグ令和五年11月5日骨董品ランキング3位公式ハッシュタグ令和五年11月7日骨董品ランキング2位宮城県丸森町にある火縄銃に特化した私設博物館『金山城伊達・相馬鉄砲館』では,文化の日の協賛事業として,11月3日に当館の施設を無料開放し,あわせて当日は裏千家による錦秋茶会を開催しました。文化の日の金山城伊達・相馬鉄砲館地元紙の河北新報さんが,当館のお茶会を掲載してくれたこともあり,当日は80名を超える入館者がありました。あまりの大繁盛に,スタッフ
公式ハッシュタグ令和6年4月15日骨董品ランキング1位公式ハッシュタグ令和6年4月16日骨董品ランキング1位宮城県丸森町にある金山城伊達・相馬鉄砲館の庭園は,今や花盛りである。遅咲きのシダレザクラは,やっと花が咲きそろい満開まであと二,三日ほどだ。椿は,さくらよりも早く開花し,今が一番の見頃になっている。ボケの花も満開を迎えた。来週にはシャクナゲが満開になるだろう。金山城伊達・相馬鉄砲館の裏庭当館は,個人住宅の一部をお借りして運営しており庭園は通路部分を使用さ
「駄菓子屋こうちゃ」出店情報!『第15回多賀谷時代まつり』に出店します。縁は粋なもの、味なもの。ちょっとふらっと立ち寄って、久しぶりにお会いした人に誘われて、次男が駄菓子屋をやりたいと言ってると伝え、少しずつお声がけしていただいて出店させてもらっていると話したところ、それならば!とさらにお声がけしていただきました。ぜひ、いらっしゃってください。出店時間は9:00~15:00を予定しています。客足によっては、早じまいする予定なので、その際はご了承願います。
宮城県丸森町にある私設博物館『金山城伊達・相馬鉄砲館』の日本庭園は,素晴らしい!私設博物館『金山城伊達・相馬鉄砲館』当館は個人住宅の一部だけをお借りして運営しており,庭園は通路部分を共用させてもらっているだけだ。正確には大家さんの庭園である。何はとも,あれこの庭は,当館の大自慢だ。鉄砲に興味のない人でも,この庭を見れば,来て良かったと思ってくれるはずだ。東北の春は,一気に花開く。花には人の心を癒す力があり,人の顔に笑顔を浮かべさせてくれる。今,この庭園の中でも裏庭がまさに花盛り
公式ハッシュタグ令和五年1月4日骨董品ランキング3位エビス様を祀る兵庫県の西宮神社をご存じだろうか。開門神事でその年の福男を選ぶ「西宮のえべっさん」と言えば,知っている人も多いかもしれない。その西宮神社の分社が『金山城伊達・相馬鉄砲館』の裏庭にある。私は,大晦日から当直勤務だったので,朝5時には西宮神社に元朝参りした。その後,孫ちゃんの所で年越しをした大家さんが,家に戻って来たら,西宮神社へ元朝参りに来た人と出会ったという。大家さんによると,その方は,足が不自由なのにわ
宮城県南の山奥に住むご婦人から,私は驚くべき話を聞かされた。そのご婦人は昭和26年生まれで,小学校の時に近所のお爺さんが火縄銃でウサギ狩りをしていたのを見たというのである。ご婦人の旦那さんはすでに亡くなられていたが,存命中は散弾銃で狩猟をしていたというから,このご婦人が現代銃と火縄銃を見間違うはずはない。仙台の鉄砲明治末には,狩猟用に村田式猟銃が安く出回り火縄銃の時代は終わったと,現在は考えられている。ところが,昭和三十年代まで,火縄銃が現役だったという証言が飛び出たわけである。
木砲に見る島国の憂い火縄銃を切り口にして見てみるとは,日本人の能力や資質に気づかされる。極東のどん詰まりの日本は,国土が狭く資源が乏しいという大きなハンディキャップを抱えてきた。たとえば,大砲を作りたくとも鋼鉄がない。鋼鉄を作るに欠かせないコークスが,日本にはなかったからである。鋼鉄より質の劣る鍛鉄でも大砲は作れたが,莫大な製作費が必要だった。これには,江戸時代の砲術家も,大分頭を悩ませたらしく,木砲というものを考案した。仙台藩の木砲金属製砲弾ではなく,陶器製の焼夷弾を使用したようで
火縄銃の尾栓の抜き方について,当ブログに問い合わせがあったので,手持ちの馬上筒を実験台として,尾栓の抜き方を説明します。今回の尾栓抜きは錆がひどくなかったので,油漬けだけで,何とか抜くことができました。しかし,普通はこううまくいきません。尾栓を抜くのは油漬け以外に3つの方法をあり,順番にその方法を用いていきます。尾栓抜きはとても根気がいる作業なのです。馬上筒の抜栓成功抜栓直後研磨後整備前(ビフォー)整備後(アフター)
公式ハッシュタグ令和五年10月1日骨董品ランキング3位山形県米沢市には,米沢藩上杉砲術を伝承する二つの火縄銃演武団体がある。一つは,宮坂考古館に事務局がある米沢藩古式砲術保存会,もう一つは,上杉神社社務所に事務局を置く上杉砲術隊である。いずれの団体も,米沢藩に伝わる10匁から30匁の火縄銃の大筒を用いて立ち射ちと膝射ち、腹ばいの体勢での這い射ちなどの米沢藩の実戦射法を継承練武している。9月19日の上杉砲術隊の猛練習,おそらく10匁筒上杉砲術隊の猛練習,おそらく20匁筒
今日は豆腐の日大村益次郎と豆腐幕末,長州の人,村田蔵六は,大阪の適塾で蘭学を学び,郷里の周防鋳銭司村で村医者になった。何事もなければ,蔵六は鋳銭司村の村医で,天寿を全うしたに違いない。しかし,米国の黒船来航により世情は激変し,日本は,渇いた喉が水を欲するように蘭学者を必要とした。蔵六は,四国の宇和島藩から請われて西洋砲術や蘭語の講義や翻訳をし,軍艦も作り上げた。蔵六は,後に大村益次郎と名乗り,天才的な軍事的才能で江戸幕府を倒し,維新の十傑と言われた人物である。幕末に大量に輸入されたゲベ
本能寺の変光秀は本能寺にいなかった殺人者つまり加害者は、殺された人間の、殺された現場にいなければならないことに、<密室の殺人>という例外を除いては推理小説でも、これは決まっている。ところが、信長殺しに限っては、被害者の側に光秀がいた形跡は全くないのである。殺害された日時は、今の暦なら七月一日だが、当時は太陰暦なので六月二日に当たる。時刻は、夜明け前というから、午前四時とみて、それから出火炎上する午前七時から七時半までの間。推定で計算すると、およそ三時間半の長時間であるが
伊達政宗の片腕として数々の武功を上げた伊達成実は,前に進むことしか知らない毛虫を兜の前立てにし「炎の闘将」と呼ばれた戦国武将である。伊達成実所用の紺糸五枚胴(複製)進むを知って,退くを知らぬ毛虫の前立て伊達政宗の仙台入部後は,仙台藩一門第二席・亘理伊達家の初代当主として亘理要害に配され,六千石を賜わった。亘理要害は,仙台城から南二十数キロにあり,仙台城の支城としての役割も持つ城塞だった。合戦上手の伊達成実は,武勇ばかりでなく領地経営にも力を発揮した。城下や領内を整備して新田を切
近頃,私は,火縄銃の練習に口径24ミリの霞流二十匁火縄銃を使うようになった。今まで使っていた鉄砲と比べると射出される弾丸の重さが倍になるから,込める火薬の量も10グラム増やした。今まで使っていた鉄砲は,重量5キログラム,口径19ミリの十匁仙台筒で,15グラムの火薬を詰め込んで撃っていた。霞流二十匁火縄銃は,その重量が9.5キロもあるから,25グラムの火薬を入れて撃っても,射撃時の反動は,あまりないだろうと,私は予想していた。射撃時の反動が,鉄砲の重量と相殺されるだろうと計算したからだ。
徳川家康は,稲富流砲術を学び射撃の名手だった。「東照宮御実記附録巻二十三」は、徳川家康が浜松城の櫓の上にいた鸛(こうのづる)を、50間~60間の距離から稲富流の長筒で撃ち落としたと記している。徳川家康が好んだ稲富流の鉄砲三河住清定の製銃した稲富流仕様の六匁火縄銃銃身には元和三年八月と刻まれている。元和三年といえば徳川家康が亡くなった翌年だ。この鉄砲は,400年の時の流れを超えて,存在し続けている。今日,4月17日は,徳川家康の命日である。『徳川実録』
公式ハッシュタグ令和四年7月31日骨董品ランキング3位火縄銃は雨を嫌う。火薬は湿気に弱いし,火縄には生火を使わねばならない。射撃時には,火縄銃の火蓋を開くと火薬が露出してしまう。ここに雨粒が落ちようものなら,火薬が湿り発火しなくなる。しかし,雨中で火縄銃を撃てないわけではない。実際,私は雨中で火縄銃の演武をしたことがある。鉄砲を傾けて雨覆いで火皿へ雨水の侵入を遮ったり,片手で,火皿を守ったりすれば,にわか雨なら何とかなる。雨中でも撃てるよう準備し,訓練していれば,豪雨でもな