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現在、当ブログでは「サザンオールスターズと野球界の40年」という記事を連載しているが、その1994年編で、私は「桑田佳祐VS長渕剛」騒動について、少し書いた。しかし、その詳細な経緯などについては、スペースの都合上、描いていなかった。1994(平成6)年、桑田佳祐と長渕剛の激しい対立が、世間を騒がせたが、では何故、この2人は、あれほど激しく対立してしまったのであろうか?それを紐解くために、桑田佳祐とサザンオールスターズ、そして長渕剛が、デビュー以来、辿って来た足跡を、改めて辿って
『今日の有名人エトセトラを投稿する理由です』ゴムマスクを被っていると思われる人やトカゲレプティリアンだと思われる人(?)が沢山いますどうして、彼らがゴムマスクを被らなくてはいけなかったのかこれまで、何…ameblo.jp今日も気になる人がいましたいつもお付き合いくださりありがとうございます鈴木砂羽さん。。。🤔51歳・鈴木砂羽、金髪ベリショの激変姿にネット騒然「まるで別人」「本当に美人」(ENCOUNT)-Yahoo!ニュース俳優の鈴木砂羽が金髪
1994(平成6)年に勃発し、世間を騒がせた「桑田佳祐VS長渕剛」騒動について、その原因を明らかにするため、桑田佳祐とサザンオールスターズ、そして長渕剛の、デビュー以来の足跡について、描いている。前回の記事では、桑田佳祐と長渕剛の、デビュー以来の奮闘と、桑田と長渕が、1983(昭和58)年に初めて出会った所までを描いたが、今回は、後年の「桑田佳祐VS長渕剛」騒動の遠因となった、1983(昭和58)年の2人の出会いについて、詳しく描いて行く事としたい。なお、あらかじめ言っておくが
私には少し珍しい野球の話です。私は野球も好きなのですがボクシングや相撲程は詳しくないです。その程度ですので的外れなところもあるかと思い詳しいファンの方には片腹痛いかもしれませんがご了承ください。私が中学から高校の頃プロ野球の世界で快速球と言われるのは140km/hだと言われていました。現代ではプロ野球のピッチャーで140km/hが出せない人の方が珍しいのではないでしょうかね・・?1979年ですから私が中学2年生の時スピードガンでの球速表示が始まりました。確かに当時は140km/h
◇2月20日(火)の『スポーツ報知』においてオリックスバファローズのエース山下舜平大投手の[ボールの握り]が公開された。経験者なら気づかれたかと思います。[通常握り]※投手目線で上から観た時この形で握ります。右側に輪のふちがくる。が!舜平大投手はこうなっている。【左】側に輪のふちが来る。◇これを昔やっていたのが~※1973年春の選抜より作新学院時代【左】側に輪のふち巨人軍時代[拡大]◇【昭和の怪物】江川卓さん。これをご自身のYouTubeの中でこう
1974年秋、一年生ながらも絶対的エースとして君臨した江川の活躍により、法政は7シーズン振りの優勝を達成した。「これで、暫くは法政の黄金時代が続くだろう」と、ファンやマスコミの多くは予想したが、残念ながらその予想は外れる事となった。江川達が二年生に進級した1975年に、「打倒・江川」の凄まじい執念を見せ、江川と法政に立ち向かってきたのは、島岡吉郎監督率いる明治であった。今回は、そんな1975年の、江川の苦闘の法政二年生時代について、振り返ってみる事としたい。<花の49年組
桑田佳祐が、サザンオールスターズのコンサートで、長渕剛を「前座扱い」にした上、コンサート終盤で、桑田が長渕にビールを浴びせてしまったという「1983ナゴヤ事変」により、桑田佳祐と長渕剛の関係が悪化したという話を、前回の記事で描いた。その後、桑田佳祐と長渕剛の間柄は疎遠になってしまったが、桑田と長渕は、それぞれ実績を積み重ね、音楽界で超売れっ子になって行った。今回は、桑田と長渕の1980年代後半の活躍と、深く静かに進行して行った、2人の対立について、描いて行く事としたい。<
1976年に、三年生となった江川の力投と、「花の49年組」の活躍で、見事に春秋連覇を達成した法政。翌1977年、彼らはいよいよ最上級生となり、法政での集大成の年を迎えた。そして、彼らはその期待に応え、更に圧倒的な強さを見せたのであった。(なお、「花の49年組」で、早くからリーダー格となっていた金光興二が、満を持して法政の主将に選ばれている。)今回は、法政四連覇の後半、1977年春秋の江川と法政の快進撃について、お伝えする事としたい。<1977年春、法政V3>1977年
1975年の法政は、春秋ともに優勝を逃してしまった。しかも、江川は右肩を痛めてしまい(しかも、それが疲労骨折である事が後にわかった)、江川と法政にとっては、あまり良くない一年となった。しかし、その悔しさをバネにした江川と法政は、いよいよ飛躍の時を迎えた。法政は、1976年春~1977年秋にかけ、全て完全優勝しての四連覇という、史上空前にして絶後となる、黄金時代を築き上げた。そして、前年秋に右肩を痛めて戦線離脱した江川も、この1976年は再び大車輪の活躍を見せた。今回は、その華々し
今月のベースボールマガジンは、阪神時代の小林繁さんの振り返り。小林さんの阪神入団の経緯が、今後もあり得ないであろう衝撃的な内容。小林さんは、昭和54年に阪神に入団した。当時、江川卓さんが巨人に入団したく高卒、大卒時に巨人以外の球団にドラフト1位指名されたが、これを拒否。3度目の指名は大卒後に無所属で1年待ったが、ドラフト前日は、全球団が契約できるという屁理屈こねて巨人が入団契約したけど、プロ野球機構は契約無効と判断。ドラフトでは阪神が江川さんを1位指名。超法規的措置で江川さんが阪神に入団即
先日…12月4日深夜の『Going』で全盛期の江川卓の『球速』と『回転数』『ポップ率』などを最新技術で検証する特集が放送された。動画サイトでも観られるでしょうが、御覧になっていない方のためそれをここに再現します。◇この企画の意図は~という巷の声が多数あることから~ー「じゃあそれをちゃんと調べてみよう!」ということに。―「この1球はどんな結果になるのか?」◇調べるのは次の項目。それをデータ解析するのは、したデータを福岡ソフトバンクホークスに提供している企業が協力
江川物語も、いよいよ、江川卓の法政大学野球部での活躍に話は移る。だが、その前に、前回の記事で江川が慶応の受験に失敗し、泣く泣く法政に入った、という件について書いたが、今回は、その話をもう少し詳しく書きたいと思う。それと、1973年秋のドラフト会議で、江川が阪急のドラフト1位指名を拒否した、という件についても、述べる事とする。1973年のドラフト会議の一番の目玉といえば、勿論、超高校級のスーパースター・江川卓であった。しかし、江川は慶応進学を希望しているため、何処に指名さ