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もちろん今まで何度もいろんな人の死に直面したことはあります。そのたびごとに嘆き悲しみ、また悲しむ人を見てきました。私も母との別れはいずれ経験することはわかっていました。それでもここまで自分を破壊するだなんて夢にも思いませんでした。確かにその時々の時間で忘れることはありますが、すべてから元気です。おいしいものを食べてなんになる?旅に出かけてなんになる?なんもない。なんもしたくたい。思い出すのは母のかわいい言葉やしぐさだけ。1リットルの涙なんてもんじ
洗面所の掃除をしていると、小物を入れるボックスを動かすと黒いボタンが見つかりました。これは母のオーバーコートのボタンです。「あ、お母さん、ボタンがなくなってるわ、どこでなくしたんやろ?」「さあねえ」「これ着られへんな」「まだほかにもあるから大丈夫」「ほんまやな、しっかりせなあかんな」こんなところでかくれんぼしていました。見つけたらすぐに縫い付けられたのにと思うと申し訳なくてまた号泣。さがしものはなんですか、みつけにくいものですか探すのをやめたとき見つかるこ
今日はあまり寝ないでクルマで1時間ほどかかる病院へ朝に出かけました。阪神高速湾岸線が工事のために通行止めになっており渋滞していました。「眠たいなああ」とつい口に出しました。今まで横にいた母は「ねんといてや」と言っていましたが、その声を聴くことはありません。そのことを思い出して「何で何も言うてくれへんの、お母さん」と何度も繰り返していると大号泣。おかげで目が覚めました。母の思い出が守ってくれたんですね。
何にも食べなくていいし、トイレも行かなくていい。寝てるだけでいいし。人と接しなくていいし。髭でも生やすか。
まあ恋人ではない。サクラを見るためにあちこち行き、おなかがすいたら喫茶店でコーヒーを飲んだり、食事をしたり。とにかくきれいな景色をいつもともに楽しむのは親子というより友達でした。親孝行じゃない。私も楽しんだ。病院へ連れて行くと黙っていつも私の横に座って順番を待ち静かに検査を受けていた。子供だった。時々戦時中のことを教えてくれたり、あまり言うことを言きかなかったけど今から考えれば生きる知恵を与えてくれていた。姉だった。でもやっぱり一番しっくりくる表現は無二の親
母が良く通っていたデイケアではお風呂用にバスタオルとタオルを一枚ずつこちらで準備しなければなりませんでした。私はいつも白い大小のバスタオルとタオルを入れていました。白だと清潔感があるからです。区別するために名前も書いていました。ご存じのように白いタオルはしばらく使うと、水に濡れると真っ白ではなくなるやや黒ずみます。それが嫌で白いタオルはしょっちゅうまとめて買っていました。1か月に10枚くらいかな。家でもフェイスタオルやハンドタオルには白のタオルを使用していたので結構使い
「100まで生きる」とにこやかに語っていた母が亡くなった。私はもう生きる意味も楽しみもなくなった。何年後かしらないが私は死ぬときに必ずこう思うだろう。「俺の命は65歳で終わっていたのだ」
2018年6月に甲状腺癌を患い、9月に摘出手術を受け、そこで未分化がんが見つかり2019年12月14日、1年半の闘病の末に永眠した母。今日2019年12月18日に通夜を執り行いました。200名を超える方々が母の為に集まってくださいました。あらためて、母の人柄を感じました。床屋をしていた母。11月の中旬まではサロンに立った母。生涯現役を貫いた母。多くのお客様に愛されていた母。「なんで言ってくれなかったの…」「病気だなんて知らなかった…ゴメンね…」いろんな言葉を頂きました。どの言葉
母はマグロの刺身が大すきだった。焼き肉が大好きだった。この二つに手を伸ばそうとすると急に胸が苦しくなる。最後の最後は私の家に連れて帰るべきだった。その公開が日々大きくなる。母の身体を抱きしめながら息を引き取るのを見届けるべきだった。その公開が私を責めたてる。ホスピスなんかで死なせるべきではなかった。お母さん、本当にごめんなさい。起きているときはほとんど泣いている。大好きで大好きなお母さん。いろんな旅行が思い出される。その時の言葉と表情も一
その瞬間に「あ、お母さん、これから朝ごはん作らなあかんな」といつもソファに寝ていた後ろを振り返るともちろん誰もいない。それで悲しいかというとむしろ逆でなぜか安心した気持ちになりました。母と一緒に日々を過ごすことが私の命の水だったのだなと改めて深く感じました。それで一日が始まっていたのです。今はAMの6時か夕方の6時かわかりません。寝るのが不定期で夜中の2時に目が覚めてそのままずっと起きていたり。お母さんという言葉は毎日数百回口から出ます。