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母が93歳で亡くなりました葬儀を終えて昨日帰って来ました母は中程度の認知症がありましたが自分で動けていたので特に介護も受けずデイサービスに行くのも拒否していたので自宅でのんびりすごしていました同居の弟が食事の世話などしてくれていました朝様子を見に行くと既に亡くなっていたそうですあと数年は長生きしてくれると思っていたので突然の出来事でした11月中旬に会ったのが最後になりましたハー君は毎日LINEで気遣ってくれました無理のない様に…身体大丈
母を亡くし、こんなにも「お母さんお母さん」と嘆いている私ですが、私はまさか自分がこんなにも母の死を引きずるなんて思っていませんでした。そもそも母が死ぬ日はもっともっと先の未来に起きる出来事だと思い込んでいたし、看護師として何十人、何百人もの患者さんを看取ってきた私にとっては、その時がきてもきっと冷静に受け入れられると思っていました。それに私たち親子は絵に描いたように仲が良い母と娘の関係というわけではなかったし、自立するのが早かった私は母がいないと生きていけないなんて思ったこともありませんでし
母の日が近づき、外へ出ると《MothersDay》や《お母さんありがとう》などというポップが目につくようになる。毎年、この時期は、母のことを考える。いや、恋しくなると言った方が合ってるかな。子供は、どんな親でも愛していて、どんな親からも愛されたいと思っている。虐待され、傷つけられても、愛しているし、愛されたいと願う。たまに、『私、子供に嫌われてるから…』ってゆー親がいるが、その原因は親の側にあることが多い。子供は無償の愛で親を愛しているが、無償の愛で子供を愛さ
12/11から抗がん剤治療・DLd療法(ダラキューロ:抗がん剤、レブラミド:免疫調節剤、レナデックス:ステロイド剤)が始まった。一度に11錠服用しなければいけないらしく母にとってはとても大変なことだったよう。「薬が多くて、何とかスムースに飲める方法がないか。ゼリーに混ぜるやつがあるけど、それならば飲むことができるかも・・」そんな電話もあり、”お薬のめたよ”的なゼリーを用意してあげた・・。抗がん剤も服用しながら輸血などの治療もおこなってすこしでも体調を整えるように
ご訪問ありがとうございます幻覚も出て、私のこともわからなくなってしまった母の様子にショックを受けて落ち込む私のもとへ、のほほん相談員が電話をかけてきました。そしてその電話が、母の現在を心配する私の気持ちと程遠いもので、ガックリしてしまった私でした😞続きです。前回の話はこちら⬇️『のほほん相談員、再び...』ご訪問ありがとうございますリモート面会で、母は初めて私のことが認識できず、幻覚も出ていたようで、驚いた私です。元気に退院できると聞いたばかりだっただけに、ショ…ameblo.jp
久しぶりの投函です母のことでこれからどうしていいのかずっと考えていました姉は結婚して実家の近くに住んでいますが、子育ても落ち着いた為、母と距離を置きたいそうでこの数ヶ月、母と姉がよく喧嘩をしますどちらからも泣きながら電話があります母は昔っから気が強いところがあり、姉は抜けているところが多いのと言い方が強い時があり、頻繁に喧嘩をします喧嘩になると姉は母は認知症だから早く施設を考えないとといいますいっぱいいっぱいなのはわかるけど、その発言が冷たいな〜と感じて姉の事が嫌いになります自
12/7病状説明を受けた母は血液内科へ転科し12/11から抗がん剤の治療を開始することになった。12/8電話とCメールで「Fちゃんに会いたい」「電話がつながらないから連絡を取ってくれ」「最後のお願いだから」と連絡があった。Fちゃんとは亡くなった妹の子のことだった。私も数十年連絡をとっておらず、会ってもいなかった。母も同様で数十年会っていないようだった。なんでFちゃんに会いたいというのだろうこれが正直な私の気持ちだった。母と父は私たち姉妹と父の連れ子の姉と兄は
私の実家側の家族はちょっとだけ複雑。母と今の父は、私が20歳の時に再婚をしました。私はある理由があって家をでて、寮生活中でした。母からある日、突然「この人と再婚します」と告げられてその一週間後には結婚式が決まっていて。結婚に対する意見も言えずに2人の結婚は決定事項になっていました。結婚の決め手は何だったのか、いまだに理由を聞いていないのでわかりません。20才の私は「私達姉妹も大きくなっていて、母としての人生より一人の女としての幸せを考えても仕方ないな
今回病気のことではなく家族のこと母のことは以前少し書きまして疎遠になってしまった時期もありますが今は近い家に住んでよく連絡し合い今回の病気でもいろいろ協力してくれてとても感謝しています1人親でよく育てて貰ったなと思うし面倒みる側の私が今はずいぶん面倒見て貰ってて情けない限り母は、10年前、60歳で25歳から35年やっていた飲食店を閉めましたそのあと、なんとパートナーの大工の仕事を手伝い始め逞しい筋肉質の母になりました60歳からの再チャレンジが大工でびっくり本人はペンキ
みんなの回答を見る亡くなった母が特別養護老人ホームにいた頃、電話が鳴るとドキドキしました。ホームからの電話かと思って。また、電話がかかってこないか、常に気にしていました。でももう今は気にしていません。特別養護老人ホームから電話がかかってくることはありませんから。母がもういないことは寂しいけれど、電話の心配をしなくていいのはいいことです。;
母のこと私が自宅にいないと分離不安ひたすら私を待っていて帰宅するまで何度も玄関の扉を開けて確認してるっぽい子供が母親を待ってる感じというんでしょうか心配なのもわかるし早く帰ってきてほしいと思っている気持ちもわかるんだけどねそうやって待ってくれているのが私には重いんです母は耳が聞こえないので大きな声で話すのですがそれが私には辛いんです肺に転移したことも関係していて大きな声を出すと胸が苦しくなってしまいますちょっとストレス溜まっていますほぼワンオペ
今日は内側をみていて、とても大きな気づきがあり自分でびっくりしてしまった。私は困難なことがおこると、「自分一人でなんとかしないといけない、誰も助けてくれない」という考えがよくやってくるなあ、とは認識していた。でも、なぜそのような自動思考ができあがってしまったのかについては、深く考えたりしたことがなかった。でも、今日内側をみていて、気づいた。母に対して「自分はこうしたいんだ」と私が自己主張すると、それが母のしたいことと違うときは却下されたり否定されてしまう。それは仕方のないことだと受け入れて
介護っていくら頑張っても誰にも頑張ってるね!!と言ってもらえないんですよね。ひとり介護で、決断もしないといけない。介護事業所の人達と関わりながらコミュニケーションを取りながら気を使い、自分の時間もなく日々生活していく中で…少しは楽になりたい!自分の時間がほしい!そんなことを思っているのではないでしょうか…毎日同じことの繰り返し。朝起きて薬をあげ、介護士さんが来てリハビリの人が来て、看護師さんが来て…でも、誰も頑張ってるね。と言ってくれる人はいない
低体重にて入院した娘。入院してまもなく5ヶ月が経ちます娘の入院中、私は病院の医師、看護師さん、臨床心理士さん、いろいろな方とお話をさせて頂きました。病院とは別に、個人的にカウンセラーさんにもお世話になり、私自身のことを見つめ直すこととなりました。私が小さな頃、両親は忙しく働いており、比較的慌ただしい生活の中で育てられました。そうは言っても愛情はしっかりと受け、私のことも両親でよく話し合って考えながら育ててくれたと思います🙂ただ忙しそうな両親を見て、困らせてはいけないと
『介護用品の返却で突き付けられた現実』【2020年4月30日】この日はレンタルしていた介護用品の返却でした。25日(土)に母が逝き、27日(月)昼前にケアマネさんから電話があり、お悔みの言葉と…ameblo.jp介護用品を返却し、何もなくなったリビングで一人でいると、喪失感、虚無感、虚脱感・・・、コレは想像以上でした。何もする気が起きず、誰にも会いたくない・・・、というか、一人で母のことだけを考えていたかった、というのが正しい表現かも。母が逝ったのは4月25日(2
ご訪問ありがとうございます何とか転院許可をとりつけましたしかし...なかなか一筋縄ではいかない病院の対応です。続きです。前回の話はこちら⬇️『やっと、母の転院が決まったが...』ご訪問ありがとうございます母の転院を今の病院に交渉しますが、なかなか許可してくれません。あちらの病院の看護部長さんが直接交渉してくれることに。祈る思いの私のも…ameblo.jp(以下、👩🏻は私、👩🏻💻はソーシャルワーカー)病院から今週の木曜日に先生からのお話しがあるので、来るように言われていた。こ
夜になると不安が押し寄せてくる。母のこともそうだしもしも万が一死んでしまったらこの世で誰も味方がおらずたった一人になってしまうような気がする。しかし究極のことを言えば不安も何もかもそれを感じることもすべてふくめて人生なのだと思います。不安ばかり感じていてもいい。もちろん物事のいい面を見るようにと賢者はいいます。しかしみんながみんなハッピーに生きられているわけではない
ViSゆったり羽織れる,ビッグシルエットカーディガンビスニットカーディガンブラックブラウンベージュ【送料無料】楽天市場5,478円おはようございます。メッセージありがとうございました。排卵後チェックですが、忙しくて断っている方もいらっしゃいましたし、注射をしても確実に排卵するとは限らないので排卵後チェックをしているという方もいらっしゃいました。注射をしたら必ず排卵するものだと思っていたので、そういう事もあるのかとお勉強になりました。次回から納得して通えそうです
母の入院から2週間経過。2週間経過の中で母が便秘傾向になり下剤の漢方薬(大建中湯)を服用始める。そのためもあるのかトイレに間に合わないこともありパットを使用したり、汚した下着が多々でるように。病衣の貸し出しがあるものの、下着類などは家に持ちかえって洗濯のシステムの病院だったので、仕事が休みのたび、病院に洗濯物の交換を兼ねて面会にいっていました。景色は紅葉が始まる手前の頃。顔や手足の浮腫みは面会の度にひどくなったり、良くなったりを繰り返していて。
久しぶりの更新です。今回は、自分の記録用として、母の事とそれにまつわる事柄について残しておこうと思って、ブログに書きます。「春になったら・・・」そう言い残して、母は1月に天に召されました。あっという間のできごとで・・。今も心の整理が、感情がおちつかない。そんな心情で過ごしています。こんな桜を母と見るはずだったのに・・・。今は母がいません。寂しいです。私は、20歳になるまで、母1人で姉妹2人育てられました。4つ下の妹は、もう10数年前に亡くなって
今日のお仕事(ビーズ教室)今日のお仕事はビーズ教室。5名ということで、サブテーブルも準備です。新作《コネクト》を作り始めた方が2名。1人はブレスレット、もう1人はピアス以外の3点セット×2。日曜日の生徒さんと、「きっと、この色を選ぶよね」と話していた通りとなりました。(ふふ)先日は、生徒さんが帰るまでに30分もかかってしまったけれど、今日は10分早く帰ったのが2人、残りの3人も5分前に見送りとなりました。20分早く帰った2人って、いつも少しだけ早めに来て
久々のブログ更新ですのにたくさんのアクセス、いいねをありがとうございます❤️今、私に起こっていることは今までのことを振り返っても人生最大の危機ともいえると思います。10年以上も様々な学びを重ねてきたおかげでなんとかやってますが。一昨年田舎の母が青信号の横断歩道を横断中、ほぼ反対車線の車に轢かれるという交通事故に遭い、要介護4の重症を負わされ、母のことで大変でした。去年は事故の大きさと加害者の対応の悪さから公判にまでなりました。刑事裁判です。この加害者がまたとん
ブログへのご来訪ありがとうございます夕方、母宅へユキヤナギが咲き乱れてた婦人科でCT結果を聞いてきたようだ希少がん発覚して3年経過3年1ヶ月と刻んでいくところであるが、、、肺の方に病変があったらしいゼジューラ2年半服薬してマーカー低値安定ずっと良好な経過だったので母もちょっと心配なようだマーカー値をみるとまだまだオッケー今すぐどうこうってわけじゃないし大丈夫だよ〜と軽く言ってサクッと退散したドライな娘ワタクピである里山へ筑波山が前方に見えるえー天気だわぁワタクピ
11/24受診の結果、緊急入院した母は、神経内科の病棟にいた。面会、メール、電話の中で母から検査の報告があった。血液検査はもちろん心電図、心エコー、腹部CT、骨髄検査など。他にはF病院から取り寄せた胃カメラのときにとった細胞の細胞診など・・。なかなか結果がでず、医師からの病状説明も結果待ちのためなく、母の病状というものの客観的な情報がありませんでした。このS病院も下着は持ち帰って洗濯のシステムだったため3日1回は面会に行って交換していました。このころの母は体が思う
連勤ちゅううううう!!(疲れています。)ただでさえ疲れている、のに。仕事の忙しさ、部署異動のほぼ新人の病欠明けがおる。(年は若くない)んーーー仕方ないことだけどイライライライラ…心の余裕がないとこうなりますね。かまってられません、そんな余裕ないです、心も体も。せめて物腰は柔らかくしてみた。ずっと座っておる…なにかしておくれ。頼むよ…。もう定時に帰ることしか考えられない。与えられた仕事をきちんとこなして時間で帰る。子供達を迎えに行って帰って食事を食べさせ
昨年の初夏あたりから「食欲がない・・」「胃が痛い」との母の口から電話口で聞かれるようになりました。それと共に貧血があって、なかなか改善しないと・・・。そういった電話の前に母が右手の手根管の手術をしていて、痛み止めなどの薬も服用していたので、痛み止めの副作用と思い、痛み止めの服用と胃カメラをうけることをかかりつけ医に相談するようにと進めていました。結果、胃には特に問題がなく痛み止めは服用を止めたとの返事が。その後、母の胃の痛みはなくなったようでした。その代わ
「あなた、あの◯◯さんの娘なの?!あなたのお母さん、◯◯さんは頭が良くてスキーも県大会でベスト5に入るくらい上手な人なのよ〜」私の母の家系は皆、地元で一番の学校を卒業していて母も、勉強しなくても成績は常にトップでスポーツも万能。私の母は、地元の同級生の間ではちょっとした有名人だった。特に文才が優れていた母は、文学の道を目指して東北大学の文学部を受験したけど、さすがに勉強せずに、東北大は不合格。浪人と
今は他界してしまいましたが、母が76歳のとき、奥歯を失って、インプラントを勧められてどうしょう?やろうな〜って、相談受けたとき、「インプラントは、手術だし、もう70代なんだし、義歯でいいんじゃない⁉️」と、言ってしまった。でも、母の妹の娘が、東京で歯科衛生士をしている、(私からしたら、従姉妹)〇〇ちゃんに、インプラント、相談してみたら?歯科衛生士だし…。相談した結果「インプラントは、手術した後メンテナンスも、定期的に通わなくてはならないし、あまりお勧めはできない。」みた
母が認知症になってから妹は母のことを嫌う内心はわからないけどあんなに仲がよかったのに毎日文句を言う今日だって母のことなんてもう知らない!といって通院のこととか妹にたよってばかりだそれは本当に感謝しているし、申し訳なく思うだけど母にキツくあたらないでほしいどうしたらいいのだろう妹のこころ、母のこころ私のものじゃないから自由に出来ないもどかしくて仕方ないよ
母が逝去しましたほんのしばらく休憩いたします散々苦労が続いたのに、楽天的に生き抜いた母へ・・・★次回は元気に、又銀座結びについて書きたいです。にほんブログ村←よろしければどれかボタンを慰めと励みになりますにほんブログ村にほんブログ村