ブログ記事5,745件
大井川鐡道井川線のアプト式区間を堪能し、アプトいちしろを出発。土砂崩れが起こってますね。静岡県道388号線に架かる泉大橋。奥泉に到着。ここでは大勢の観光客がいましたが、どうやら反対列車に乗る様子です。川根小山で反対列車と交換。土本駅。Wikipediaによると、2018年で駅周辺には3世帯3人が居住。しかも80歳以上の高齢の超限界集落。駅名は居住者の姓が地名と同じ土本だからだそう。大井川の支流寸又川を渡ります。左
愛知県の豊田市もしくは知立市にあったとされる慶雲廃寺(けいうんはいじ)。3月中旬でしたが、クルマでの用事のついでに、慶雲廃寺の候補地のひとつである豊田市駒場町朝日の「今上駐蹕之所(きんじょうちゅうひつのところ)」と、慶雲廃寺の後身寺院であるという知立市八橋町の無量寿寺を訪れてみたことがあります。早咲きの桜と今上駐蹕之所の石碑両方とも初めて訪ねた場所でしたが、早咲きの桜が青空に映えて春の到来ムード満点。さらにこの辺りは鎌倉街道が通り、在原業平にまつわる史跡が点在していて、なかなか
『斎藤一と吉田道場(13)』で紹介しました、水口藩の剣術師範・吉田兵馬が水口の大岡寺(だいこうじ)に奉納したという額を見たくて、先日、猛暑の中を甲賀市の水口まで行って来ました。額を奉納したのが明治三十五年ということで、斎藤一もまだ存命中。まあないだろうなと思いつつ、ひょっとしてひょっとしたら、額の中に藤田五郎の名がある可能性も「微レ存」かな、という思いと、なによりも吉田兵馬自身に関して何かわからないかと期待したのです。※.大岡寺龍王山大岡寺は天台宗の単立寺院であり、
ぽんぽん「五街道か」夫「どこだっけ?えっと東海道、中山道……」そういうわけで、ぽんぽんと夫は自宅から35キロほど離れた街まで、歩くことに決めたのでした。ぽんぽんは張り切っています。朝4時に家を出るのだといいます。果たして起床出来るのでしょうか。夫は朝4時からぽんぽんを起こそうと頑張っていました。ぽんぽんはもちろん起きては来ません。紆余曲折を経て二人が家を出られたのは6時頃だったと思います。歩きながら連絡が来たのですが、電車で移動するのと、実際に歩いてみる景色はだいぶ違うようで
武将名・行動力・能力・家臣団クエスト必要か否か◎×廻国異能の者や限定武将などは色分けしてあります。限定武将はイベントや合戦時に出現した武将、姫で、基本的には現在入手不可です。東海道1(常陸、下総、上総、安房、武蔵、甲斐)常陸25人蘆名義広・52・63・◎江戸忠通・63・52・×小田氏治・31・38・×小田友治・33・49・×小田守治・26・25・×岡本顕逸・20・69・×岡本禅哲・12・77・◎小貫頼久・30・61・×車斯忠・63・51・◎佐竹貞隆・46・
みなさんこんにちは。東海道徒歩旅、本編の第11回です。今回は桑名宿からです。地図で紹介する写真の撮影場所は、URLの地図をご参照ください。東海道の旅(坂下〜宮)-Googleマイマップ東海道の旅(坂下〜宮)www.google.com今回の行程桑名-宮2023年5月1日桑名宿〜宮宿(約26km)歌川広重の「東海道五十三次桑名宿」と、模型(土山宿の東海道伝馬館で撮影)前回の記事でも紹介した通り、桑名から宮までは海路で、昔の人々は船で移動してい
お天気に恵まれた2月3日、横須賀古地図くらぶで古代東海道の様子が色濃く残る葉山の木古庭地区の散策を行いました。出発点は池上隧道そば、木古庭に通じる古道入口です。平安時代初めまで、東海道は三浦半島を通っていて走水から房総へ海を渡っていました。後に「鎌倉道」「西の浦賀道」にもなり、今では県道横須賀葉山線として大楠山と三浦アルプスに挟まれた谷合いの道はずっと交通の要衝です。今回散策した辺りは曲がりくねって高低差もあるオリジナル古道の様子を欲張って残しています。水の澄
◎このブログの目次はこちら11月下旬の平日・・・お休みをもらって、新車ロードバイクの引き取りに行きました《ロード購入経緯はこちら》『ロードバイクがやってきた!ポリゴン・ストラトスS2はコスパ優良なエントリーモデル』◎このブログの目次はこちらママチャリを1台処分し、ガレージにスペースができたので・・・ロードバイク、とうとう買っちゃいました!!POLYGON…ameblo.jp購入したのは滋賀の自転車屋さんです。行きは電車で出発朝、京都駅をしゅっ
【愛知】愛知県豊川市音羽町赤坂の東海道三十六番赤坂宿江戸から三十六番目の宿場町赤坂宿。元々、御油宿と赤坂宿は「赤坂御位」という大きな宿場で約80の旅籠が軒を連ねていました。大橋屋は東海道で唯一現存する旅籠で平成27年まで旅籠として営業していましたが現在は歴史記念館として無料で内部見学が出来ます【赤坂宿御宿場印】来館記念として
連続もののお題はいつでもリクエストしていただけます◉三十三観音(原作:杉浦総師範)◉三十三観音、観音さまがその姿を変えて人々を救済するという三十三応現身にちなんで選定されました(法華経普門品に説かれる)。それぞれの起源はインド、中国、日本とさまざまで、いつ、誰が定めたのかハッキリしません。◉西国三十三観音霊場巡礼(原作:京井みね子)◉父と私の共通の趣味でもある御朱印と千社札の世界。訪れたお寺でお話のきっかけになれば。。。と四年前に描いた西国三十三観音の各お寺のご本尊。そろ
◎このブログの目次はこちら日曜日に友人2人と滋賀県湖南エリアをサイクリングしてきました!出発地は瀬田(大津市)、終着点は希望が丘文化公園(野洲市/湖南市/竜王町)。行きは東海道を走って、三上山(近江富士)周辺へ出て希望ヶ丘へ。希望ヶ丘では、文化公園内のサイクリングルートをぐるっと走り。帰りは希望ヶ丘から中山道へ、草津からは行きと同じ東海道を走って、瀬田に帰りました。地図上の赤い線が走行ルートです。(C)GoogleMaps|地図データ@2023(文字と線をブログ管
今回の「日帰りお城巡り」の4城目は、「亀山城」(三重県亀山市)です。「甲賀郡中惣遺跡跡」の3城を見た後、「柘植駅」経由で関西本線の気動車に乗って「亀山駅」に着きました。時間は14時を少し過ぎたところでしたが、日没が早い山深い所ですので、事前に計画したルートに則って足早に効率よく巡りました。「亀山城」の原点は、13世紀中盤以降に「関家」によって築かれた「亀山古城」で、現在の「亀山城」の一部まで城域があり約300年間も勢力を維持していました。しかしながら、「織田信長」が伊勢へ侵攻し
日本橋から歩き続けている東海道今回は、三島から沼津宿まで三島広小路駅起点。JR三島から広小路駅までの商店街が笑栄通りふるや寿司のまえを通って・・わたしの好きなおにぎり♪東海道中には、にぎりめしが必要です♪素朴なおにぎり♪干瓢巻や稲荷もあって・・ザ・日本のごはん♪ビニールではなく紙の包みがエコです。持ち歩いていたらいびつになったけど握り飯はそういうもんです。しいたけの炊き込みめんたいこシャケ@110旨すぎる。
「講大津百町」は「里山十帖」「箱根本箱」に続いて"自遊人"岩佐十良氏がプロデュースしたライフスタイルホテル。古い町家の保存活用が進む大津百町に、築100年を超える町家7棟をリノベーションした「商店街HOTEL講大津百町」が2018年にオープンしました。明治24年に日本訪問中のロシア帝国皇太子ニコライが沿道警備の津田三蔵巡査に襲撃される「大津事件」がありました。露国皇太子遭難之地からそう遠くない東海道沿いに「講大津百町」があります。電線が地中化され街並みが修景された石畳の東海道、
〜モグモグ備忘録〜2022年4月上旬の滋賀モグモグレポでゴザイマス〜〜〜(-ω-)大津の旧東海道沿いにある人気の老舗和菓子店御饅頭処餅兵(もちひょう)創業は宝暦年間(1751年〜1763年)と約270年続く、滋賀で歴史ある老舗和菓子店なんデスゾ(・ω・)/うさぴょんお子ちゃま時代は、町のお菓子屋さんと変わらへんような細々と店をやってるカンジやってんけど旧東海道は人通りが少なく閑散としてるんで、店前を通り過ぎる度に繁盛してるようには見えへんかったのダヨ←失礼なっだがしかーし現
明日(4月26日)から5月6日まで、東海道・山陽新幹線の「のぞみ」は全車指定席になります。通常1〜3号車は自由席ですのでご注意下さい。
武将名・行動力・能力・家臣団クエスト必要か否か◎×廻国異能の者や限定武将などは色分けしてあります。限定武将はイベントや合戦時に出現した武将、姫で、基本的には現在入手不可です。東海道2(相模、伊豆、駿河、遠江、三河)相模21人安藤良整・20・51・×石巻康敬・31・42・×板部岡江雪斎・12・84・◎上杉景虎・42・24・×太田氏房・28・34・×梶原景宗・58・49・×内藤綱秀・39・41・×垪和康忠・36・69・◎風魔小太郎・79・15・×北条氏勝・47
【ニッポン城めぐり】の武将図鑑です。武将名・行動力・能力・家臣団クエスト必要か否か◎×廻国異能の者や限定武将などは色分けしてあります。限定武将はイベントや合戦時に出現した武将、姫で、基本的には現在入手不可です。東海道3(尾張、伊勢、志摩、伊賀)尾張60人浅野長政・48・64・◎池田恒興・70・42・◎池田輝政・59・67・◎お市の方・53・73・×岡田善同・50・76・×奥村永福・71・68・×織田有楽斎・13・18・◎織田信雄・30・11・◎織田信包・45・34
2番目の宿場町「川崎」少し涼しくなったこの日のウォーキング。スタートはJRの川崎駅です。川崎駅前タワー・リバークの中にあるアートガーデンかわさきには、川崎浮世絵ギャラリーがあります。建物の外に出て、一番最初に気がついたのは、川崎市のマンホールのフタです。シンプルに表現されたデザインでした。川崎は、東海道五十三次で、品川に次ぐ2番目の宿場町でした。稲毛神社は江戸時代までは、河崎山王社という名で、この宿場町の鎮守様でした。お賽銭を入れて、いろいろお願いしました。
東海道七里の渡しを令和の船で渡っる七里の渡しクルージングに参加してきました!これは愛知県の東海道を歩く愛知ウォーキング街道巡りクラブのイベントです。■七里の渡しとは■七里の渡しとは、東海道宮宿(名古屋市熱田区)~桑名宿(三重県桑名市)を結ぶ海路のこと。東海道は江戸~大阪を57の宿場で結んだ街道ですが、全て陸続きではなく、途中で途切れた場所がいくつかあります。七里の渡しは東海道最大の海路で、約七里(28km)の海を船で渡る、いわば海の道です。今回はこの海路を船で渡ってきました。■江戸時代
資料館では、江戸時代の旅人が持参していた品々を陳列しています。その一部をご紹介します。「小田原提灯」コンパクトに折り畳みできるように工夫された提灯です。川越富洲原駅西にあるまちかど博物館「小田原提灯参考館」からお借りしているものです。高級品から普及品までさまざまなものがありました。「煙草入れと煙管(キセル)筒」金具の細工などが見どころです。「印籠」腰に下げる三重または五重の長円筒形の小箱。箱には蒔絵(まきえ)、堆朱(ついしゅ)、螺鈿(らでん)などの細工が施され、緒には緒
川崎宿の田中本陣と佐藤本陣田中本陣跡です。川崎の宿場には佐藤本陣と惣兵衛本陣と田中本陣の3つの本陣がありました。そのうち最も古い歴史をもつのが、ここ田中本陣だったそうです。東海道かわさき宿交流館。川崎の歴史を学べます。次は曹洞宗のお寺、宗三寺に立ち寄ります。鎌倉時代には勝福寺というお寺があったそうですが、戦国時代から宗三寺に変わったと書かれていました。川崎宿3つの本陣のうちの1つ。佐藤本陣跡です。こんなところに自転車を止めなくてもいいのに!と思ってしまいます。
川崎宿ができて400年小土呂橋(こどろばし)の交差点までもどってきました。このあたりは新川堀とよばれた用水が流れていました。この堀が東海道と交わる地点に架けられていたのが小土呂橋です。昭和6年の風景ですが、今からは想像できません。松尾芭蕉の句碑がありました。不思議な建物です。最後は浄土宗のお寺、教安寺です。ゴールはスタートと同じJR川崎駅でした。約6km、1時間20分のウォーキングでした。東海道が整備され、川崎に宿場が置かれて400年も過ぎたんですね。はじめて
我々の東海道ウォークの復習。藤川宿〜池鯉鮒宿(現在の知立)まで。いつも「歴史のお話」の裏方一切を取り仕切り、実は名ベーシストの“人神人(ヒトシンド)”君が編集してくれたダイジェスト映像。こちらから御覧下さい!↓↓↓↓↓https://youtu.be/D_9G5LwETu0?si=6VGtQcNuCt6XJIwR東海道五十三次ウォーク旅の様子藤川〜池鯉鮒東海道五十三次を歩いています歴史のお話~第130回、「東海道Vol.14」岡崎城下二十七曲り記録動画https://you
お久しぶりの南武線この日のウォーキングのスタートは、JR南武線の向河原駅です。この駅のある川崎市は市制100周年をむかえたそうです。向河原駅のすぐ前はNECのオフィスビルです。貨物線の跡地が市ノ坪緑道となっています。この緑道を少し歩いて行くと、横須賀線の隣りに、市ノ坪田向公園があります。さらにその先は市ノ坪公園です。JR横須賀線の高架横に細長い公園が続いていました。無量寺は真言宗のお寺です。1580年に創建されました。一年前は川崎市の東海道宿場町を巡りましたが、
野干平(やかんべい)この鶴は、妹背山と同じ紙の切り方で、同じ様に折り、頭の向きを左右反対に折ります。【狂歌】野干平つれて狐の嫁入りかな時雨もしたり日も照りにけり<注>野干…狐の意味狐の嫁入り…日が照っているのに雨が降っている天気の事を言う
マロがお届けするブログdeいいジャン!皆さん、ジャンジャン月間楽しんでますか?只今、店内にて19周年に向けて4/25.26.27.28.295日間共通抽選参加券配布中です数に限りがございますのでお早めにどうぞ♪尚、こちらの参加券は会員カードが必要となります。会員登録されていない方、お気軽にお近くのスタッフにお声がけ下さいLINE登録していない方直ぐ登録を!ブロックされている方はブロック解除をおすすめしますさて話は変わり、今日も群馬をご紹介!今回の【上毛かるた】の
戸塚元町別道画面の右端、柏尾川の上にかかる橋の手前には、「左りかまくら道」の文字が書かれた道標が見えます。江戸から10里半(約41キロ)の宿場である戸塚は、鎌倉に至る道への分岐点でもあったのです。一方で、「こめや」と書かれた看板がかかる茶店の軒端には、参詣者の集団が旅の途中で残していく印「講中札」が下がっています。ひょいと馬から飛び降りる男と、それを迎える茶屋の店員、馬の傍らで笠の紐を解こうとしている女性など、長旅の合間に人々が見せる一瞬のひと
月見里神社やまなしじんじゃ御祭神月読命由緒江戸時代の東海道藤枝宿から西に外れた場所に鎮座しています。創立年不詳。宝暦4年(1754年)再建。明治8年(1875年)2月村社に列しました。明治40年(1907年)1月、神饌弊帛料供進社に指定されました。神社西側の鬼岩寺門前通りは中世(平安時代後期〜)の東海道です。高野山真言宗楞巌山鬼岩寺の門前から東側へ続いていたと推測されるそうです。当時の鬼岩寺はとても有力な寺院だったそうで、月見里神社の場所も鬼岩寺の境内でした。◎例祭
【原文】三川(みかわ)の国保美(ほび)といふ処に、杜国(とこく)がしのびて有けるをとぶらはむと、まづ越人(えつじん)に消息して、鳴海(なるみ)より跡ざまに二十五里尋かへりて、其夜吉田に泊まる。寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしきあま津縄手、田の中に細道ありて、海より吹上る風いと寒き所也。冬の日や馬上に氷る影法師【意訳】三河の国保美という所に杜国がしのんで暮らしているのを訪ねようと、まず越人に手紙を送り、鳴海から後ろに二十五里、杜国をたずねて戻り、その夜吉田に泊まる。寒けれ