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前回取り上げた和歌で、最後の段落で記した梅の花のイメージの譬えは、ちょっと俗っぽく、気品ある式子内親王の和歌にはそぐわないので、撤回します。述べたかったのは、梅の花のイメージが、人間の思惑から離れて、軽やかで自由であることです。古今集以来の伝統的な和歌が移り香にこだわっている(悪く言えば、人間の勝手な思惑を押し付けている)のに対し、内親王の和歌には、そうしたこだわりが見られないことです。さて、桜の開花が関東でもいよいよ間近に迫っているので、梅を詠んだ歌は、ひとまず今回限りにして、次回から桜
日曜日に、第57回吉祥寺古典を読む会を開催しました。テーマは、源実朝の『金槐和歌集』。個人の歌集(私家集)は一般に、『和泉式部集』『紫式部集』というように、歌人の名でシンプルに呼ばれることが多いのですが、源実朝の場合、『金槐和歌集』というきれいな名前が付いています。「金」は「鎌」(鎌倉)の偏から、「槐」は大臣を意味する「槐門」から来たと言われています。百人一首でも、彼は「鎌倉右大臣」という名で表されていますが、そういう名前の付け方なのですね。実朝がこの和歌集を編んだのは建暦3年(建
七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき・・・は太田道灌が無学を恥じた歌兼明親王の本歌があるななへやへはなはさけども山ぶきのみのひとつだになきぞあやしき無学を恥たにしては、、本歌取りの知識はあると思うのだが桜の季節が終わると、、何故かホッとするょざわついた雰囲気が嫌いなのだと思う