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硫黄島の戦いで1ヶ月近く激戦を繰り広げ、多大な犠牲者を出したアメリカ軍が硫黄島を占領した翌日3月16日、摺鉢山近くの岩山の穴から片足を失った日本の陸軍少佐が降伏のしるしのハンカチを掲げて出て来てこう言いました。「司令官はいないか。穴の中にはまだ有能な30名の青年達が残っている。彼らを日本のため、世界のために生かしてやりたい。私を殺して彼らを助けてほしい」と言いました。この少佐に引見した第五艦隊レイモンド・スプルーアンス司令官は「お前も部下達も助けてやろう」と言うと、少佐は「サンキュー」と言い
こんにちは。本日は、日本軍の航空眼鏡(鷲の目型航空眼鏡)をメーカー別に紹介していきたいと思います。鷲の目眼鏡にはメーカ―名の刻印が無いものもありますが、今回は特に知名度があるメーカーを選別いたしました。高島屋飯田株式会社金具に高島屋の高のマークが刻印されています。高級品として定評があった。高島屋飯田貿易店は、1916年12月に高島屋飯田株式会社として独立、現在の大阪にある高島屋が本店。画像は曇り止め用調整機構を設けた航空眼鏡。日満
[釧路地区]電波警戒陣地釧路市桜ヶ岡8丁目4-139(釧路民放FMラジオ中継局電波塔付近)釧路市興津の海岸から内陸に入った釧路市桜岡地区の丘陵地帯には、2棟のコンクリート製の大きな建屋がある。これは陸軍の電波警戒陣地(電波警戒機を擁したレーダー基地)の施設らしい。超短波警戒機乙の受信設備?との話もあり。天井部には煙突のようなものが四角のブロック状のものが付いているが、よくみるとブロック内部の構造が異なる。雑草が深く土砂流で出入口が狭くなっているため、
[下関要塞/昭和期]津和瀬穹窖砲台昭和20年2月下旬〜8月、筑前大島(宗像大島)の南西約1.5キロ、津和瀬地区から南東部に約500メートル入った海岸崖に面した稜線の山頂近くに津和瀬穹窖砲台(洞窟砲台)が構築された。戦況が著しく悪化、本土決戦が現実的になった昭和20年2月以降、下関要塞守備隊は再配備計画に基づき、砲の新設・移設作業にとりかかった。具体的には筑前大島砲台に配備されていた45式改造固定15センチ加農砲4門のうち、2門が「対上陸戦」に備えて九州本土の垂水峠穹窖砲台に移設。残る
[釧路地区]大楽毛トーチカ(新大楽毛トーチカ)釧路市大楽毛南1丁目1付近道東のトーチカは1トン爆弾に耐える重掩蓋で、コンクリートの厚さの規定は1メートルだが、湿地帯や地盤が良くない地のトーチカは工法が異なる。半完成品を工場で作成してトラックで運び、設置する場所に置いた。半完成品のトーチカの上に掩体(天井)=分厚いコンクリート板をのせた。近くに現存する新富士トーチカ、根室半島の桂木トーチカ①も同様の工法だ。大楽毛トーチカはJR根室本線の新大楽毛駅の近くの住宅街にある。変形六
[内之浦臨時要塞]権現島水際陣地鹿児島県志布志市志布志町帖日本がポツダム宣言を受諾・無条件降伏しなければ、連合軍は南九州地域を制圧するOLYMPICoperation(オリンピック作戦)を実行しただろう、と言われる。連合軍は昭和20年11月1日、兵力約76万人で、鹿児島県の志布志湾(大隅半島東海岸)、吹上浜(薩摩半島西海岸)、宮崎県の宮崎海岸の3方面から同時に上陸する作戦を立案している。昭和21年3月1日に関東地区に上陸、東京などを占領する「コロネット作戦」も計画されており、2つの作
「大本営参謀の情報戦記」本の紹介第二部軍事指導者は何を書き残そうとしたのか昭和陸軍の軍事指導者たちの手記の類は、戦後七十五年の今、私家版も含めると、三百冊ほどになるのではないか。こうした類の書にふれてきた者として言えることは、次のような特徴に注目して分類が出来る。①昭和陸軍の軌跡と自らの軌跡を同一化した書(全く反省の色がない書)②昭和陸軍の中枢にいたが、自らはその政策に疑問を持っていたとの書(自分と組織を二元化した書)③昭和陸軍の軌跡に関わりなく自らの歩んだ道を説く書(史
現在の日本は、世界各国のスパイが一番多い「明石元二郎①日露戦争を勝利に導いた男」「明石元二郎②黒田藩明石家の系図」「明石元二郎③大名小学校から東京へ」「明石元二郎④明治を突っ走った福岡の同胞」「明石元二郎⑤欧州での諜報工作活動」「明石元二郎⑥台湾総督と陸軍大将」「明石元二郎⑦福岡出身の元二郎を偲ぶ」の続きです。■元二郎の無頓着な性格と陸軍のスパイ活動軽視台湾では今でも尊敬されている明石元二郎が、日本においてあまり知ら
[網走地区/網走港]鱒浦トーチカと防空陣地北海道網走市網走市鱒浦殆ど資料がない鱒浦トーチカ。「台町しおさい公園下のトーチカ」を探索した網走歴史の会・トーチカ調査報告に、あるくらい。今回も参考にいたしました!ありがとうございます。トーチカ調査報告・鱒浦okhotsk.vis.ne.jp網走歴史の会・トーチカ調査報告に書かれているようにJR鱒浦駅から南へ約200mの地点にある。ちなみ丘の上ではなく中腹。鱒浦トーチカにはこの廃墟(工場)の建物の手前から横をまわるよう
弁ヶ岳のトーチカ沖縄本島、那覇市首里鳥堀町4丁目(弁ヶ岳公園)一般的に「弁ヶ岳のトーチカ」と呼ばれるが、これはトーチカの構造ではではなく何らかの耐弾施設。向かって右側が出入り口、左側に1室あるのみ。何回か訪れているが、出入口はいつも水没している(。・ω・。)第32軍航空情報隊(球18822)電波警戒隊の記録によると、昭和19年8月頃より建設中の対空監視用の要地用電波警戒機の送信所(または受信所)=通信所のようだ。第32軍早期警戒電波隊の島村隊は弁ヶ岳で
日本の教科書などによる歴史などでは、1939年に、モンゴルと満州国との国境線で起きたノモンハン事変は極僅かの記述でしかないでしょう。モンゴルに進駐していたソビエト赤軍は、満州国の国境に配置されていた日本の関東軍の三倍以上の戦力を保有していました。戦車や装甲車、火砲などは近代化されたソビエト赤軍に抗うことすら難しい装備でした。しかし、日本の航空戦力は世界的にもとても優れていてソビエトのイリューシン機を圧倒する性能でした。日本陸軍は末端の兵士まで文字の読み書きが出来て意志の疎通は迅速
こんにちは。本日は新作の日本陸軍飛行帽をご紹介いたします。こちらです。耳カバーが日本海軍の前期型飛行帽によく似ています。片耳レシーバーを装着しています。訓練前の教育事項の指示が終わり、「訓練飛行開始」により挙手の敬礼でパイロットが搭乗した2式単座戦闘機Ⅱ型甲が訓練飛行区域へと飛び立つところ。こちらの訓練学生は今回ご紹介の飛行帽を被っておられ、左耳にだけレシーバーがみえます。推測ですが、いかなる状況にも柔軟に対応
[広島湾要塞]包ヶ浦弾薬本庫(宮島地区)→広島陸軍兵器補給廠包ヶ浦分廠厳島(宮島)東〜大奈佐美島の間にある4つの砲台、宮島(厳島)西〜本土(大野浦)の間にある1つの砲台のための弾薬本庫。広大な敷地内には火薬本庫、火具庫、弾薬庫、弾丸本庫、装薬調製所、炸薬填実所、兵器小修理所、兵舎、糧食支庫などがおかれていた。広島湾要塞廃止後は広島陸軍兵器補給廠包ヶ浦分廠が使用。還送弾薬処理、弾薬調整貯蔵などの用途で使用していたようだ。宮島口フェリー港から包ヶ浦に向かって市道43号線を歩く
[小倉城]②4年式15糎榴弾砲福岡県北九州市小倉北区城内2-1明治8年4月1日、歩兵第14連隊が編制され、小倉城(勝山城)に連隊司令部をおいた。西南の役(明治10年)では乃木希典少佐(連隊長)に率いられて出征している。明治31年11月に第12師団が新設され、小倉城内に第12師団司令部と監督部が置かれ、歩兵第14連隊はその隷下にはいる。第12師団は日露戦争やシベリア出兵を経て、大正14年に久留米に移転した(廃止された第18師団の跡地)。小倉城内指令部跡には第12師団隷下の野戦重砲
161.8高地陣地沖縄本島標高161mの場所にあり、北は北谷町や読谷村、南は浦添から知念半島辺りまで一望できる。米軍呼称は”Pinnacle”(尖塔)。頂上の監視哨はガマ(天然の洞窟)の上に自然の岩に近づけてつくった。軽便鉄道の鉄骨や松の木をコンクリートの支えに、北上原地区の石工と住民が工事に携わっている。<自然の岩山に似せるよう、石工がつくった人工の岩山>監視哨直下のガマは、奥間集落の拝所(集落発祥故地)キシマコノ嶽。戦時中
12月29、30日の2日連続、21時から放送された「NHKスペシャル」を見た人は多いと思う。私は「帝銀事件」の4文字と、犯人とされた「平沢貞道」の名前ぐらいは知っているが、なぜ、ここに松本清張が出てくるのか、それが不思議で、興味を持ち、番組を録画した。結論から言うと、画家であった平沢は事件とはまったく関係がない。事件は大量毒殺。使った毒は青酸カリと言われた。生存者がいたことにも驚いたが、その1人、竹内正子さん(故人)は娘に「(平沢は)違う」と言い、語ったテープも残っていた。また、死に方が即
[釧路地区]興津トーチカ釧路市興津の海岸。「岩を刳り貫いてつくられたトーチカ」とされているが、釧路オコツナイ骨格陣地の南端に位置していること、銃眼の形状や大きさからここは監視所を兼ねたトーチカかもしれない。"トーチカ"から見た景色"トーチカ"の出入口は転落防止のため塞いだとのこと(通りがかりのご老人談)。崖地の岩盤を真上から掘り込んだ、とのこと。*釧路海岸の防御陣地道東の太平洋側は戦前より国防上の重要拠点と考えられていた。陸軍ではアメリカ
[陸軍第73師団](本土決戦)二川のトーチカ愛知県豊橋市二川太平洋戦争の戦況が著しく悪化した1944年(昭和19年)夏以降、連合軍による本土上陸作戦に備えて、予想される地域に本土決戦用の防御陣地を構築した。静岡県は浜名湖西岸から愛知県の渥美半島伊良湖岬にかけての遠州灘も、本土上陸作戦が予想されていた場所だった。1944年(昭和19年)7月に新設された日本陸軍第13方面軍第73師団によって、豊橋市一帯には多くの防御陣地がつくられた。具体的には、海岸沿いの丘陵地帯に
キットの見本画像からこの画像から、そのまま作る事は出来ないとは思っていました。WORLDOFTANKSの九八式軽戦車の画像。このCGは何用のものか正確な事は分からないのですが、見比べると、このCGを元にキット化されていると思って、間違いないと思われます。ゲームでの九八式と思えば、かなり完成度の高いキットと言って良いでしょう。ところが、元にしたゲームの九八式軽戦車自体が実車とは違っています。アバディーン試験場に送られた二式軽戦車とされる写真。車外装備品が失われた状態な
[釧路地区]大楽毛山麓トーチカ(すずらん団地トーチカ)釧路市大楽毛172-6付近すずらん団地と呼ばれる企業団地にある地区、小高い丘の山麓にあるトーチカ。釧路西知水際の一画を成す。2010年に採石関連会社が周辺の土地を購入して掘り始めたところ、発見されたという。ソーラーパネルがある一画から入ると柵が無く、途中から現れる鎖の柵沿いに進むと、小高い丘の山麓にあるトーチカに着く。てくてく、苦労せず到着。こりゃ、大きい!一周してみよう。というか、出入口
うみです♫昨日の夜は雨が結構降っていてビックリ!今日は風が強いし変なものが空中に舞っていそうな感じがしますお気を付けて、、、昨日のマドモアゼル愛先生のYouTube動画どうなったんでしょう??💉の集団訴訟について💉💉と連呼したからバンされてしまったのか??愛先生の💉や世の中に対する見方は本当に共感するばかりで今日こちらにご紹介したかったのに。。、まだまだ検閲が激しいんです
[網走地区/網走港]鱒浦トーチカと防空陣地北海道網走市藻琴225網走原生牧場観光センター藻琴の海岸段丘の上、網走原生牧場観光センター(牧場)内にあるトーチカ。縦型2階建てトーチカで、1階部分に銃座/2階部分に観測所がある。1階と2階は伝声管等でつながってはいるが、それぞれに独立した出入口がある。牧場レストランで「トーチカの内部見学」を申し出ると、「暗くて足元が悪いので気をつけてくださいね」と快諾してくださる(要懐中電灯)。トーチカはこのレストランの裏にある。三
本日は、日本陸軍の電熱線航空頭巾をご紹介したいと思います。被服本廠、昭和17年製●表側・・・山羊革●裏面・・・兎毛右側の耳垂れは顎部分に当たるように長く裁断されており、丸見がつくようにタックが2本入っています。高高度用で飛行帽の中にコードが張り巡らされています。陸軍飛行帽のなかでも特に裁断が複雑でたくさんのパーツがあります。当時の資料によると、値段も当時の定額25円6銭(通常の飛行帽は10円40銭)と高価なものでした。顎部分を上手い具合に包み込むよう
東京第二陸軍造兵廠荒尾製作所の大型火薬庫(熊本県荒尾市)第1工場群でつくられた火薬などは、第2工場群に運ばれて炸薬形成され、これをRC造りの火薬庫で保管した。(引用:千寿の楽しい歴史)火薬庫は、崖面につくられた「崖面設置型」と、丘陵を削ってこれを土塁代わりにし小さな平地につくられた「単独型」=ガソ、の2種類がある。いづれも部屋は本室(1室のみ)。*大型火薬庫は崖面設置型のみ。出入口は2カ所、部屋はひとつで仕切り無し。内部の屋根は蒲鉾型。シンプルな造り。
[勇払平野/苫小牧]①植苗トーチカ&緑ヶ丘公園トーチカ安平川(&勇払川)の西側。丘陵・山地にも縦深陣地では、植苗トーチカ(41式山砲)が現存、緑ヶ丘公園トーチカ(92式重機関銃?)がほぼ埋没しているが気配は確認はできる。安平川(&勇払川)の東岸に隣接する柏原には、山の中に柏原2号トーチカ(41式or94式山砲)が現存しているようだが、こちらは詳細がわからず行けなかった。勇払海岸〜汐見町海岸〜高砂海岸〜基町海岸には水際陣地が構築されていたが、現存するのは元町海岸トーチカ(92式重機関銃
宗谷臨時要塞宗谷砲台の観測所北海道稚内市横に幅が広いゆったりとした2階建て。熊笹や藪がひどく全景は撮影不可能。出入り口は1階と2階にある(2階から入った)。(2階)2階部分の窓枠の上には偽装網をかけるためのフックがある。奥には司令室もある。地下部分に測遠機を設置。1階の天井(というか2階の床)にある四角い穴から潜望鏡を出して観測したようだ。半円状に突き出た部分(測遠機室)のみ、堀のように掘り下げた構
こんにちは。本日は、前回のつづきで日本陸軍第一種航空頭巾と装備品をご紹介したいと思います。陸軍飛行244戦隊の勇士たちの、このタイプの航空頭巾を選んでみました。作戦室から流れる「はがくれ隊青空(出動せよ)」の放送を受け、機則待機所のテントから愛機へと向かう高山隊長、佐藤准尉、板垣軍曹、中野軍曹。3015号機と鈴木正一伍長。彼の締めている鉢巻きは、昭和20年1月3日の戦果記録者に授与された、「神風」と書かれたもの。昭和20年2月頃の板垣政雄軍
kato@kato8501様製作の3Dプリンター製、「日野小室式自動拳銃」の実物大モデルガン(写真↑の左側)を苦労して入手しました。樹脂製なので改造とかはまったくできない安全な物です。この日野式は個人の超少量製作品なので店舗では販売していないですし、納期も3ヵ月くらいかかりました。それでも待った甲斐はありました。上の写真の右側(下側)は日本軍の14年式拳銃で㈱共栄製の実物大6連発木製輪ゴム銃です。これも良く出来ています。↑日野小室式拳銃は1904年(明治37年!!
✨秋山助六郎✨秋山少佐の略歴★明治21年8月4日士官候補生として歩兵第18連隊に編入★明治21年12月27日陸軍士官学校へ入校★明治23年7月29日陸軍士官学校卒業同日第18連隊に帰隊陸軍歩兵曹長の階級に進む★明治24年3月26日任陸軍歩兵少佐尉補歩兵18連隊付★明治25年2月3日叙正8位★明治27年8月動員下令連隊旗手として日清戦役に從軍平壌海城、牛荘の戦闘に参加★明治28年6月27日凱旋★明治28年10
こんばんは。本日は、日本陸軍最初の特別攻撃隊である万朶隊の岩本益臣大尉の飛行帽を紹介したいと思います。万朶隊は、1944年(昭和19年)10月21日、鉾田教導飛行師団で編成された。装備機種は九九式双発軽爆撃機、隊長は陸軍航空士官学校第53期岩本益臣大尉(1917〜1944)。出撃は4機の「九九式双発軽爆撃機」に5名の万朶隊隊員が搭乗して行われた。本来、「九九式双発軽爆撃機」は4名で運用するが、機銃等は特攻機改造で撤去しており、通信士の搭乗する1番機を除いては、全機