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次の目的地は、MRT中山駅から5分程の台北當代芸術館へ。戦前、ここは1919年に創立された旧建成小学校で、主に日本人子弟が通っていた小学校で、父含めて兄弟7人全員この学校に通っていました。ひとクラスに5〜6人の台湾人子弟もいましたが、入学するには成績優秀で裕福な家庭だと言う事が必須条件でした。児童数が一番多い時で、2000人ほどいたマンモス校です。校舎はコの字に建てられており、煉瓦造りの瀟洒な建物です。校庭はとても広大で、プールや相撲の土俵もありました。建成小学校の正門だった方
今日は日曜日で李記豆漿がお休みなのでホテルからぶらぶら散歩しながら台北駅北口から南口へ北門台北古城には全部で5つの城門-東門(景福門)、西門(寶成門)、南門(麗正門)、小南門(重熙門)、北門(承恩門)があります。これらは清の光緒年代、劉銘傳の主政時期に建造されました。商人を台北城区内に住まわせて家屋を造り、通りを形成し、城区内の発展を促しました。台北古城の北門は承恩門とも呼ばれ、城内から大稻埕一帯へ行くための要路でした。門は2階分の高さがあり、城閣は厚い壁に囲まれ、まるで堅固な要塞のよ
日月潭は日本統治時代にはお茶の樹を栽培していました。その茶葉で紅茶を作って輸出していました。いたるところに紅茶のお土産物屋さんがありました。私が良いと思ったお店をご紹介します。廖鄉長紅茶故事館。ご紹介はこちら中にはお茶の工場で使われている機械が展示されています。二階にはお茶の葉を乾かしているところもありました。とても良い香りが立ち込めています。一度二階に上がって、参観してから反対側の一階に下りますと、またお茶の歴史の紹介があります。新井耕吉郎さんという方が日本統治時代に台湾の
二日目朝食付きにしていたので、ホテルでバイキング。ハーゲンダッツアイスがあるわぁと思ったら、無かった😭ライチーのジュースが美味しかった。フルーツとヨーグルトドリンクコーナー❣️お料理は種類も豊富でどれも美味しかったです!緑色の果物の密棗(ナツメ)があっさりしていて好きです😋忠孝新生駅からMRTに乗り、台大醫院で下車。歩いて行くとすぐニニ八和平公園に着きました。この公園は1908年に開園し日本統治時代に都市公園として、円山公園の後に新しく作ったので「台北新公園」と名付けら
ニーハオ!台北人です。YouTubeもやってます。チャンネル登録お願い致します。台湾チャレンジ台湾チャレンジ皆様初めまして。台北人と申します。日本人女性です。台湾人と結婚して、台北在住歴20年を超えました。自分で車を運転して、台湾をあちこち行くのが趣味です。台湾のおもしろい情報を現地在住者の視点でご紹介しています。台湾のレア情報、グルメ、シヨッピングや風習などをブログで発信しています。そのために映像として、もっとわかりやすくするために「見るブログ」…youtube.com先日から台湾で
台湾は意外と知られていないが、自転車大国である。メイドイン台湾として最も有名なのは、ジャイアント(GIANT)でないだろうか。それゆえか、台湾内は自転車専用道路がとても多い。その中でも気になっていたのが、鉄道の廃線跡を利用したサイクリングロードである、后里鉄馬道だ。廃線跡の再利用としてサイクリングロードにするのは、最も手っ取り早い方法である。なんせカーブは緩いし、勾配変化も少なく、単線の場合は道路にするには狭すぎるし、サイクリングロードにはちょうど良い広さである。また、跡地の権利関係も単純
日本統治時代の台湾の教育機関は、日本人は小学校、台湾人は公学校と分けられていました。台北には小学校が8校ありました。樺山小学校建成小学校旭小学校寿小学校南門小学校幸小学校錦小学校付属小学校創立年月日は樺山小学校は明治44年2月、建成小学校は大正8年4月。生徒数は両校とも1700〜1800人もいるマンモス校でした。私の父は日本人なので建成小学校に通っていました。ほとんどは日本人の子弟ですが、50人ほど居たクラスに5〜6人の台湾人の子弟がいました。この数人の台湾人の
日本統治時代の台灣臺北駅周辺の地図です。上部のオレンジ色の所が臺北駅。左側の円形黄色が北門。その少し南に下った線路の近くに竹の家があります。この竹の家は高級料亭です。樺山小学校の同窓会に参加させて頂いた時にこの竹の家の親族のTさんにいろいろお話を伺いました。この竹の家は公会堂の近くの大和町にあり、(この地図はかなり古いようで、違う地図には公会堂はこの位置に載っている)エレベーターもある高級旅館でした。日本時代の最後の総統19代安藤利吉も泊まったそうです。ここで雇う芸妓さ
台湾で最も重要な鉄道路線は、かつて「台湾縦貫鉄道」と呼ばれた、台北(基隆)から高雄を結ぶ路線であり、現在の経済圏の90%を占める地域を縦断している。その路線の全ては、日本統治時代に造られている。その後は、モータリゼーションの発展や、台湾新幹線が完成したりして、相対的にその地位は低下している。また、戦後かなりの時間が経過しているので、橋梁などは架け替えられた物も多い。ではあるが、人々の生活に密着している路線であるのは今も昔も変わらない・・・台湾の中部に建設された、台中線の旧山線であるが、平成
今回のツアーではそこここに鯉のぼりを見かけるのでそれらに対する質問が多かったです。今回のツアーで日本のお祭りについて質問があったという話をしましたが、もう一つ、今回特に出てきた質問が「鯉のぼり」についてですね!♪ヽ(´▽`)/というのも、今の季節はバスで移動すると、そこここで風にたなびく鯉のぼりを見かけるんですね。ついでにひな人形がまだ展示されている所もあったこともあって、日本の男の子と女の子のお祝いの仕方について今回は特別にバスの中で解説をしました。まず、ひな祭りについて
8月&9月の韓旅(8/29~9/4)レポこちらの記事↓のつづきです。9/38月&9月の韓旅⑭仁川編①日本家屋探索と激安&激ウマ炭火焼きカルビのランチ新興(シヌン)市場の周辺に、かつて敷島遊郭(부도유곽)があったエリアがあるということで、その痕跡を求めて歩きました。桃源路(トウォンノ)~仁中路(インジュンノ)の路地裏に여인숙(ヨインスッ旅人宿)と言われる安宿が軒を連ねる一帯が。(↓中区桃源路2-1)店を閉めているところもありましたが、どうやらこの一帯が元遊郭だった
《寸感》日本統治時代の1935年に発売され、朝鮮全土で一躍大ヒットし、湖南地方の南端に位置する港町・木浦を全国的に知らしめた。そして木浦出身で当時10代後半だった新人歌手の李蘭影は一気にスター歌手へと上りつめた。(略)歌詞を一見すると、木浦を舞台にした別れのラブソングのように感じられるが、日本の植民地下で苦悩した朝鮮民族の悲哀が所々に散りばめられている。(略)李蘭影は1936年から38年にかけて岡蘭子の名前でテイチクレコードから日本語のレコードを出している。(大和泰彦)(2024.1.25
韓国旅行の必須コース北村韓屋村北村韓屋村とは?北村は高官大作や王族、士大夫が集まって居住してきた高級住宅の跡地で、韓屋はすべて朝鮮時代の瓦屋で、元々この地域にはそびえ立つ大門のある家数軒と30数戸の韓屋しかなかったが、日本統治時代末期から韓屋が多く建てられ、1992年に嘉会洞韓屋保存地区から解除され、1994年に高度制限が解除され、一般的な建物が多く建ち並びました。合計2,297棟の建物があり、このうち1,408棟が韓屋で、残りは一般的な建物です。