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つつじの時期、去年は根津神社へ行ったのを思い出します。↓やはり都内では一二を争う名所です。きゅっと寄せ集まっていて壮観。2023年2023年一方でアクセス的に手軽でよく行くのが皇居東御苑のつつじ見物。根津神社とは選定手法が異なり、手入れがよくて心地よく。2023年2023年2023年そして今年、久しぶりに六義園へ。4月最後の週末でした。(が、せっせと吉原展のことを集中的に書いたせいで今頃に。)うーん、やっぱり六義園も捨てがたい。密度は根津神社に
家康を基準にすると、秀忠は子(二代将軍、三男、1親等)家光は孫(三代将軍、秀忠の次男、2親等)家綱は曾孫(四代将軍、家光の長男、3親等)家綱には男子がいましたが、命名前に死んでいます。家綱は1680年5月8日に享年40才で亡くなりましたが、その時点で跡継ぎがいませんでした。家光の男子は、長男家綱次男亀松(夭折)三男綱重(甲府藩主、1678年9月に死去)長男綱豊次男清武四男綱吉(館林藩主)五男鶴松(夭折)五代将軍の候補としては、綱重長男
家康を基準にすると、秀忠は子(二代将軍、三男、1親等)家光は孫(三代将軍、秀忠の次男、2親等)家綱は曾孫(四代将軍、家光の長男、3親等)綱吉は曾孫(五代将軍、家光の四男、3親等)家宣は玄孫(六代将軍、家光の三男綱重の長男の綱豊、将軍世子をなって家宣と改名、4親等)家宣の弟清武(越智松平家初代)家継の死去時点で54才家宣の男子長男夢月院(1699年生まれ、享年1才、夭折)次男家千代(1707年生まれ、享年1才、夭折)三男大五郎(1708
こんばんは!!ブライダルナカノの愛植男です!世界中から集めた愛の名言集♥今日の名言はこの方民は為政者を信用しておらず為政者もまた民を疑っているこのようなことが起こらないように意思の疎通を心がけるべきである徳川綱吉徳川家光の四男で江戸幕府五代将軍。四男家綱(四代将軍)が40歳で死去し、子供もいなかったため急に将軍になることに。生類哀れみの令という悪法で有名ですが、実は政治家としては有能で、儒学を重んじて多く
こんにちは!佐咲です。昨日はなぜかものすごくPCの調子が悪かったのですが、朝になると治っていたので更新今日からは、山川出版「詳説日本史B」でいう第七章に入ります第七章・幕藩体制の展開です今日は、幕政の安定4代5代将軍の時代です。さてさてここで抜き打ちチェックです、、、みなさん、もう、徳川将軍の順番はいえますね・・・呪文書き出して、ならべられますよね・・・「え?」と思われた方のためにええっと。。。私にはリンクを貼るとかそういう技術がありませんのでコピーして貼り
4/5群馬県千代田町の寶林寺へ参拝してきました御朱印山門宝林寺の縁起については、再三の火災により、詳細は現在に伝えられていないところもありますが、開山が大拙祖能禅師であり、数多くの弟子を輩出し、また、中興開山潮音道海禅師の時代には、伽藍が建立されていたとする記録もあり、潮音道海禅師を慕い、数多くの僧侶がこの地に訪れたといいます。現在では、本堂と鐘楼堂を伝えるのみとなっていますが、その当時の隆盛は想像に難くないものと考えられます。中興開基である須田覚心居士が、「師(潮音道海禅師)が慕われて
まずはご近所の白山御殿町から。五代将軍綱吉ゆかりの「白山御殿」からつけられた地名である。文京区の立看板「旧町名案内」には以下のとおりある。「町の大部分は白山御殿の跡である。承応元年(1652)館林藩主徳川綱吉が、別邸を与えられた。ここは白山神社の鎮座地であったので、白山御殿(小石川御殿)と称した。綱吉が五代将軍に就任後、御殿は廃止されて幕府の御薬園となった。それで付近の土地と併せて白山御殿跡地と称した。周辺を合併して明治24年、新たに町をおこした。町名は、俗にいう白