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5月26日(日)は運良く本城球場を13時から5時間借りれるようになりました。久々の本城球場です。なかなか貸し出しする事すら少ない球場です。ただ高価なので人気はイマイチかもしれません。グレード的には上級ですので何かイベント事しても良いかな?とも思ったり…つーか、その日は若松サンデーリーグが2試合入ってるので、まずはそちらが重要です。なのでこの日は4試合になるのかなぁ(笑)で、せっかく良い球場借りてやるんだったらさ、アナウンス付きにしたらより豪華じゃない?😙なのでアナウンスのプロフェ
愛知県江南市の曼陀羅寺(まんだらじ)の隣にある曼陀羅寺公園の藤を見に、名鉄電車と名鉄バスを乗り継ぎ行ってきました。(4月25日撮影)色鮮やかな紫の藤は一部散っていましたが、長く優雅な花房が残って待っていてくれました。特に遅咲きの白い藤が最高の見ごろを迎えていました。早咲きから遅咲きまで11種類約60本の藤が園内の藤棚に張り巡らされていました。藤を撮影した後、後醍醐天皇の勅願で建立された尾張の
本書内では「教旨」という単語が頻繁に記述されているけれど、「ミッション(使命)」と理解すればいいだろう。2019年7月初版。【南朝系】私、張勝植は、後醍醐天皇から数えて14代目の南朝の末裔です。ひいおじいさんの明治天皇=基元(きげん)さんは11代目でした。(p.13)後醍醐天皇は『太平記』に描かれている中心人物で、今からおよそ700年前、鎌倉時代から室町時代へと移り変わる南北朝時代を生きた天皇。後醍醐天皇(1288-1339年とされるが没年不詳)は、日本にいる間にもさ
【奈良】奈良県吉野郡吉野町吉野山にある南朝勅願寺如意輪寺のステキな【御朱印】令和元年5月1日より新たに猫不動尊の御朱印がいただけるようになりました【如意輪寺御朱印】月ごとに印の色が変わるそうです(カラー書き置き御朱印もありました)【猫不動明王】令和元年5月1日開眼法要※撮影許可をいただいております【如意輪寺御朱印】
よっしゃーーーと自分に気合を入れている井上祐宏です(笑)これから綴るのは、ウルトラもちろん!効果効能を保証するものではありませんからねええええ!!!分かってますよね!信じるな!疑うな!確かめろ!という私のポリシーに同意できない方は決して読まないでね(笑)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー新型コロナから加護してくれる観音菩薩様との遭遇談…※お土産に購入した観音菩薩の写真私が、現代健康研究所の高橋呑舟先生から京都・宮津の真名井神社にお参りすると、新型コロナウイルスから加
小佐城(養父市八鹿町小佐字石堂)承久の乱以前の小佐郷地頭は、朝倉高清の弟小佐二郎大夫盛高の子、小佐大夫頼重であったろう。乱後、小佐氏は地頭職を失い、代わって為安、次いでその妻とも思われる尼常陸局が任じられている。ところが弘安八年(1285)頃には4人の地頭に分割される。すなわち安原兵衛入道、尾張入道、伊達五郎三郎、阿波孫五郎。伊達五郎三郎は伊達系図の時綱であろう。山田村と呼ばれていた彼の所領分は今井・石堂の辺りで、居館は現洞泉寺が建っている丘ではなかったか。元弘の乱にあたって貞綱・義綱は後醍
葉の香りがとても良くて美味しかったです。歌藤(かとう)さん吉野で後醍醐天皇に仕え、歌を教えたご先祖様が後醍醐天皇に直接与えられた苗字だそうです。由緒ある素晴らしい苗字宝ですね。熱い緑茶と一緒にいただく柏餅好評でした。緑色の葉はこしあん緑色じゃない方は粒あん
南北朝の争いは「南朝が正統」で決着しました。北朝の天皇が「北朝1」「北朝2」みたいな脇扱いされているのは、そのときの「政治決着」が今も生きているからです。北朝のスポンサーである室町幕府、足利義満が、三種の神器を南朝から取り戻すための方便として、名目上だけ妥協した、ということです。どういうことか、以下、説明します。天皇家が「持明院統」と「大覚寺統」の二つの家系に分裂したのは鎌倉時代のことで、これは純粋に天皇家の内輪もめです。後嵯峨上皇という困った人がいて、末っ子が可愛いからといって、兄
こんばんは、デジkota9です!突然ですが、室町時代を切り開いた人物として知られる足利尊氏。今回はその足利尊氏が九州に来たことがあるということでその足跡を辿る話なんですが…時の将軍といえば江戸幕府を開いた徳川家康とか鎌倉幕府の源頼朝などは有名ですし、とりわけ家康公ともなると歴史物でしょっちゅう出てきますし、日光東照宮などは世界遺産になるほどで、知らぬ人はいないといった感じです。鎌倉時代と江戸時代を挟む武士の時代の、帝は南北朝に分かれてのちには戦国乱世
連日のTOLANDVLOGや土御門さんから考えるのは、推しである謎多き【大塔宮護良親王】。なぜなら彼の軍はめちゃめちゃ強く荒くれ者「山の民」の寄せ集めとdisられていたし「山伏」に変装してあちこち神出鬼没する様子には彼自身までもが「忍者」と伝わるほど実際に熊野、吉野、十津川、と奥深い山々を縦横無尽に活躍した背景には有力な「山伏」の協力が容易に想像できるそれに宮家も宮家、後醍醐天皇の皇子という御立場その家臣団て、秦氏の「侍」のように最強の軍団だったのでは‥【侍】古来の神職は侍
5月の令和初詣シリーズです。先月、奈良県吉野郡吉野町吉野山にある吉野神宮へお参りしました👏素晴らしく気がいい場所にあります。思わず、おおーーっ!と何度も声に出てしまうぐらい、素晴らしいです。写真は少し暗く写っていますが、実際はもっと明るいです。参道をしばらく歩くと、開けた場所に大鳥居があります。大鳥居の手前にある木は、ハワイオアフ島にある「この~木なんの木気になる木~」のちっちゃい版のように、横に長~いです。境内案内図です。だだっ広い駐車場です。平日なので1台
後醍醐アンダーソン天皇鎌倉幕府の後に天下を制したのは持明院統の光明ラビン天皇を擁する足利スクワイア尊氏だった。しかし不満を抱いて京を脱出した大覚寺統の後醍醐アンダーソン天皇はモンセラト吉野に南朝(通称ABWH朝)を開いた。南北朝時代の始まりである。南北朝はそれぞれの正統性を訴えて訴訟合戦を繰り広げ、内戦状態に陥った。後醍醐アンダーソン天皇が開いた南朝は、非商業主義であり、三種の神器(ブルフォード、ハウ、ウェイクマン)を有すると、正統派プログレを主張したが、セカンドアルバムの制作が進まず
【奈良・吉野】奈良県西吉野賀名生南朝旧皇居堀家堀丈太様よりご依頼を頂き音楽演奏に伺ったご縁より、後醍醐天皇所縁と言い伝えのある尺八試奏のご相談を賜りました。2月25日には吉野の寺社へお参りに伺い、金峯山修験本宗管長五條良知様、金峯山修験本宗務総長五條永教様、南朝皇居吉水神社宮司佐藤一彦様、後醍醐天皇勅願寺如意輪寺宮司加島公信様奥様加島典子様、吉野神宮宮司東輝明様へご挨拶に伺い歓待頂きました。金峯山寺様では管長様の書の有り難い陶磁器を賜り、管長様宗務総長様と正午の疫病退散と追福菩提のお祈りに
今回は怖い日本史のカテゴリに入る内容です。立川流(たちかわりゅう)は、オカルトフアンならご存知だと思いますが、真言系密教の一流派で、淫祠邪教の代名詞のようにあつかわれています。ちなみに、字は同じですが立川流(たてかわりゅう)と読むと、故立川談志師匠が創設した落語団体のことになります。どっから話していきましょうか。まず、立川流の教義および儀式ですが、これははっきりわかってはいません。というのは、立川流は徹底的に弾圧され、独自の経典などは焚書ですべて失われているからです。現在残っ
愛知県郊外の江南市で藤まつりをやっていたので藤花大好きなカミさん孝行をしてきました。後醍醐天皇の命で建立された曼陀羅寺の藤まつりです。いろいろ屋台も出ていて大変な賑わいでした。カミさんの希望は「あしかがフラワーパーク」らしいのですがGW中、わざわざ混雑するところに行く気もしないので所謂一つの「安近短」で誤魔化した次第です。何年か前に行ったあしかがフラワーパークの藤花です。間違いなく感動します。佐野ラーメンも食べたいです。(^^♪
3月の上旬、雨上がりの気持ち良い翌日奈良の月ヶ瀬梅林へ行きました梅の名所として知られていますが、今回はじめての月ヶ瀬です赤い橋を渡り、川沿いを走って山の下の大きな駐車場に停める事が多いみたいですが、北側から回って山の上の駐車場を目指しましたよその名もズバリてっぺん駐車場駐車場の梅が満開でした車を降りたらふわ〜と香ってきて『来てよかったぁ』と第一声濃いピンクがとっても好き可愛いですこれから咲きそうなツボミがたくさんついていました。(3月上旬)てっぺん駐車場からほ
皆様こんにちは。沙貴誉(さきほまれ)です。YouTube動画『吉野桜~後醍醐天皇と南朝皇居~』が公開されました。早速紹介させていただきます。↓こちらの方が見やすい方はこちらからご覧下さい。吉野桜~後醍醐天皇と南朝皇居~おにぎり丸と嵯峨仙識が、吉野へ旅してきました。吉野桜と南北朝時代の先頭に立った後醍醐天皇の歴史に触れた旅となっています。沙貴誉(さきほまれ)の名前でブログを書いていますhttps://ameblo.jp/basara-do
下街道歩きは鶴ヶ城跡に登城した後、本丸跡に祀られていた土岐神社の祭神「土岐頼兼(よりかね)」の墓に向かいます。鶴ヶ城登城口から北に進みますと「諏訪神社」があります。永禄8年(1563)鶴ヶ城主延友三郎兵衛信光が建立したと伝える神社です。神社由緒當社の祭神は建御名方の神にして、大国主大神の御弟神なり。當社の創建は、永禄八乙丑年正月美濃国土岐郡住人延友三郎兵衛信光の心願なり。當村字諏訪洞と言ふ地に勧請せり。其の後延宝の頃、當社地則ち天神ヶ森へ遷坐し闔村氏神と仰ぐ。この地を往
吉野では吉水神社⛩️にも参拝菊の御紋吉水神社の参拝は十七拍手👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏口に出して数えてないと忘れてしまいます💦参拝した後に南北朝時代に足利尊氏と対立吉野にて南朝を開いた後醍醐天皇がその際に皇居とされた『吉水院』もゆっくり見学来ました。後醍醐天皇の玉座源義経潜居の間兄の頼朝から逃れるために静御前と武蔵坊弁慶と共に吉野山に落ち延びた場所が吉水神社1594年に豊臣秀吉がおこなった吉野のお花見のレプリカの屏風🌸この吉野のお花見為に錚々たる大名など連れて
後醍醐天皇の側近の一人で、大僧正・第3代東寺座主・第66代醍醐寺座主を務めた文観僧正が施したとされる立川流に関して、いい加減な都市伝説が蔓延しており、先日も、弊会へ、『立川流』を基準にして建武を評する誤った認識下でのご意見が届けられた。この誤認識は、後醍醐天皇が建武や中興に掲げた理念についての認識をミスリードさせかねぬ深刻な問題と考える。そのため、当amebloとYouTube投稿に至った。僧侶ではない者や修行の経験すら無いような者が、著作やメディア等で中途半端な知識を以て流布
吉水神社【内容】「初期書院造りの傑作」といわれる書院建築で、世界遺産でもあります。作法が「二礼十七拍手一礼」と珍しい形です。17の神様を祀っているからだそうです😳後醍醐天皇が「南朝の皇居」と定め、ここを拠点として「吉野朝」の歴史が始まったそうです。皇居ですから、すごい場所ですね😳ちなみに後醍醐天皇は、ここ吉野の地で病のため亡くなっているそうです。最後の地でもあるわけですね☝️源義経が静御前と弁慶を連れて、頼朝兄さんから逃げのびてきた場所でもあります。境内には、弁慶が追っ手をドン
こんばんは、デジkota9です!足利尊氏を追う!福岡編エラそーな題名をつけておりますが、尊氏公ゆかりの地を訪れてるだけです(;^_^Aそんなプチ歴史探訪ですが、福岡で訪れるのが多田羅という交差点と興国寺というお寺の二カ所。足利尊氏を語る上でおよそハズすことのできない戦いが福岡でありまして、それが多々良浜の戦いと言います。京での戦いに敗れ、再興を賭けて九州へと西走し、この多々良浜の戦いで勢力を立て直して再び京へと向かうことになるのです。
現在の天皇家は「北朝」の子孫です。なのになぜ、「南朝が正統」とされているのか?足利義満が「南朝を正統と認めます」という政治的決着で南北朝を合一したから、です。そんな馬鹿な、南北朝は「北朝勝利」で終わったから、南朝の子孫は消えて、北朝の子孫が今の天皇に至るのではないのか?実質的にはそうでも、形式的には、南北朝の分裂は「南朝正統」で決着したんです。「南北朝の戦い」というのは、実は「源平合戦」と同じくらい、誤解を招く表現です。南北朝時代を「南朝と北朝が戦った時代」と考え「北朝の勝利で終結し
脳天大神龍王院からの階段を、月美結貴さんと共に上がって、蔵王堂までたどり着いた時には、二人ともすっかり息が上がってしまい、ゼイゼイしていました。大峯千日回峰行の阿闍梨(あじゃり)になるには、まだまだ程遠いようです。いや、絶対になれないから(笑)これから向かう予定の吉野神宮は、ここからかなり離れた所にあるのですが、バスは土日だけで、平日は通っていません。月美さんがタクシー会社に電話して調べてくれたのですが、どのタクシーも満席で出払っていて、送迎をするの
こんにちは〜🌟前回、かなりしんどい〜、という感じでしたが、若干戻ってきました今朝は6:30から1時間強のウォーキング👍後半はゴミ拾いもしました🌈わたしが拝読するブログは、やっぱり、見えない世界を身近に感じておられるかたのブログになりますそんなブロガーさんのお一人が、ぜひ聴いてみてください、と紹介されていました、篠笛奏者の佐藤和哉さん!なぜか、心惹かれるものがありまして、、、先日、ついに和哉さんの篠笛を生で拝聴する機会に恵まれました(遠くに佇み
金峯山寺(きんぶさんじ)蔵王堂の仏像や建築物に夢中になって、いつしか時間が昼過ぎになっていることを忘れ、月美結貴さんから、𠮷水神社に参拝する時間がかなりギリギリであることを告げられた僕ですが……10秒ほど思案したものの、何とかなるんじゃないかという気がして、「速攻で、𠮷水神社を参拝してしまいましょう」と月美さんに提案しました。この時間に追われる展開、まさに僕のいつもの人生パターンです。こういう時には、考えるよりも早く行動してしまうに限ります(笑)月美さんも「𠮷水
大きな木には必ず触っとく思考の学校校長の大石洋子です。ところでですね、このお寺、うちから100歩くらい歩いたところにあるお寺なんです。九品寺(くほんじ)って言います。このお寺、鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞さんが、当時の鎌倉幕府の権力者だった北条一族のみなさんの菩提を弔うために建てたお寺なんだそうで(最期は北条一族さんみんな自害されたみたいですね、昔の政権交代はそんなかんじだったんですよねえ、そう考えるといまはずいぶん良い世の中になりましたね。)つい最近そのことを知りました。なんと
2020年1月4日近鉄の観光特急「青の交響曲」に乗って吉野まで来たけれど、普通電車で一駅逆戻りしました。下車したのは吉野神宮駅です。ここから吉野神宮まで歩いて参拝に向かいます。帰りの電車をチェックして・・・・15分か40分ですね。帰りの電車を12時40分に目標を定め吉野神宮に向かいます。吉野神宮駅前から南へ向かうと直ぐに大鳥居が建っています。鳥居をくぐって「吉野神宮」までの道のりは、少し急坂を約1キロ程(20分ほど)登るそうです。結構な急坂の自
さてさて…………【清荒神清澄寺】を出発して、我々が次に到着したのは……………【満願寺(まんがんじ)】兵庫県川西市満願寺町7−1こちらは、あの『新TV見仏記/宝塚ラララ編』で、あのおふたりが来られていたので参詣する事としたのだ【山門】かつて境内にあった【多田院】が、神仏分離によって【多田神社】になった際に、ここに移された『多田院南大門』の仁王像だという。立派で、かつ雰囲気のある【山門】だ寺伝では、奈良時代に聖武天皇の勅願により勝道上人が日本全国に【満願寺】を創建することとなった。こ
天皇の名前というのは、ほとんどすべて、死んだあとに後世に贈られる尊称です(生きているときは、単に「ミカド」とか「院」とかです)。この「死後に付けられる呼び名」には、実は二種類あるんです。その天皇の業績などに因んで後世の学者がつけたもの(天智とか天武とか)を「諡号」といい、その天皇が離宮を営んだ、引退後に住んだ場所で呼んだものを「追号」といいます(奈良時代あたりまでは学者も力をこめて天皇の諡号を考えていたんですけど、平安時代になって天皇が実際の政治をしなくなってくると、業績っていってもあんまし何