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ご訪問ありがとうございます。今回から垂仁天皇の巻に入ります。とりあえず読んでみましょう。活目入彦五十狹茅イクメイリヒコイサチ天皇(垂仁天皇)は、御間城入彦五十瓊殖ミマキイリヒコイニエ天皇(崇神天皇)の、第三子である。母の皇后曰御間城ミマキ姫は、大彦命の娘である。天皇は、崇神天皇29年壬子ミズノエネの年春正月1日瑞籬宮に生まれ、生まれながらに秀でた容姿で、壮年になってからは度量も広く、人となりは真理に叶い、歪めたり飾ったりしなかった。(崇神)天皇はたいそう可愛がって、お側にお置きになっ
「神人分離」の始まり、奈良の大和神社金澤成保石上神宮から徒歩で天理駅に戻り、JR万葉まほろば線(桜井線)で長柄駅まで行って、駅の南東徒歩10分ほどにある大和神社(おおやまとじんじゃ)を訪れた。石上神社とともに、「上古」の神々への信仰について触れてみたかったためである。大和神社は、天照大神とともに宮中に祀られていた倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ、日本大国魂神とも表記)を遷してお祀りした神社で、国の主要神社である「二十二社」に列し朝廷から特別の奉幣を賜り、9世紀末には伊勢神
この急な石段。。。キャリーケースを持ってえっちらおっちら登る。😩失敗したかなぁ。。。やっぱり今回はやめれば良かったかも。。なーんて思って登ってましたが😆来て良かった‼️‼️生石神社(おうこしじんじゃ)トップページ生石神社(おうしこじんじゃ)は、兵庫県高砂市阿弥陀町に鎮座する神社です。宮城県塩釜市の御釜神社の大塩釜、宮崎県高原町の霧島東神社の天逆鉾(あまのさかほこ)とともに日本三奇と呼ばれています。地元では、石宝殿(いしのほうでん)と呼ばれています。www.ishinohou
『日本書紀』を読んでいると、不思議な数字に気が付くことがあります。『日本書紀』編纂時に現れるのは、天武天皇の崩御日と川嶋皇子の薨去日が同じ9月9日という不思議な一致です。川嶋皇子は、天武天皇が国史編纂の詔を出されたときに、筆頭に名前を記されている皇子です。その川嶋皇子が、天武天皇が崩御された5年後の同じ日に亡くなっています。神武東征に関連して、神武天皇が東征出発前に語られた言葉の中に、1792470年という数字が登場します。東征出発の年が、瓊瓊杵尊が天孫降臨してから17
~大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天橋立~古来、和歌にも詠まれてきた大江山へ、真名井神社からの帰り道で差し掛かりました。和泉式部の娘・小式部内侍の余りにも有名な歌。当時、母の和泉式部と同じく女官として出仕する傍ら、歌人としても知られ始めていた小式部内侍でしたが、一部には、彼女の詠む歌は母の和泉式部が代作しているのでは?などと悪評を流す人々もおり、その噂がまことしやかに都人の間で流布されていたそうです。この噂を受けて、とある歌合せの場に参加していた小式部内侍に対し、同席した
ここまでは、賀茂社伝承における建角身命の足跡を辿ることで、大和の葛城地方に行き着くことができた。しかし、山城の賀茂氏にとって、葛城は故郷の地と呼んでいいはずなのに、葛城の鴨社では出雲の神々が祀られていました。そして大和には、山城の賀茂氏とは違うもう一つの賀茂氏が存在したのです。天神「賀茂県主」神魂命の孫、武津之身命の後なり(山城国)天神「鴨県主」賀茂県主と同祖(山城国)皇別「鴨県主」開化天皇の皇子、彦坐命の後なり(左京)皇別「鴨君」出自は開化天皇の皇子、彦坐命なり(摂津国)
先日の記事『物好きたちの夏と支配からの独立2〜鬼の祭祀者〜』にて、史上初の神主であり大神《おおみわ》神社の創設者・オオタタネコを特集した。しかし、私はてっきり「オオタ・タネコ」だと思っていたのだが、なんと本当の姓名の区別は「オオタタ・ネコ」だったと判明した(笑)私は「タネコ」と略して呼んでいたが、実際は「ネコ」さんだったということだ(笑)だが、ネコと呼ぶのはなんか違和感があるし、やはり通称はタネコでいこうと思う(笑)タネコとその化身であるyumi21氏は、名前が二文字違いであると書いた