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風街散歩新選組ゆかりの地⑥芹沢鴨【せりざわかも】新選組筆頭局長✳芹沢鴨⁉文政10年(1827年)、常陸国行方群玉造町芹沢村(現茨城県行方群玉造町)、芹沢城主の末裔で36代目にあたる豪士、芹沢貞幹の三男に生れる。幼少の頃より力が強くワンパクであったが、人望厚く、剣客であり、絵が上手く、子供たちに大人気だった。青年時代は、水戸学と尊王攘夷思想を延方(のぶかた)郷校で学び、剣術は岡田十松の神道無念流を戸賀熊太郎の元で鍛え、免許皆伝の腕前であった。安政6年(1859年)
文吉を連れ去ったのは土佐勤王党でした。その一員であった五十嵐幾之進がのちにこんな談話を残しています。(閏)八月末日の晩の目明し文吉の絞殺一件、これには少し私も関係しております。瑞山(武市半平太)先生の木屋町の宿所に集まりまして協議をしましたが、斬りに行くという人が多くて仕方がない。そこで籤(くじ)取りをして決めますと、清岡治之助、阿部多司馬、岡田以蔵の三人が当たりました。島村恵吉が、あのような犬猫同然の者を斬るのは刀の汚れである。絞め殺すがよろしいと申しますと、皆それが良いということ
さて、そろそろ時間を戻しましょう。慶応四年(1868)二月三十日の夜、三枝蓊に対して二回目の尋問が行われました。一回目の尋問では共犯者はいないと述べた三枝でしたが、二回目の尋問では共犯者がいることを認めました。ミットフォードの回顧録によると、「朱雀操と名乗っていた共犯者の本姓は林田というが名前は知らない。彼は京都の近くの桂村の村医者の息子で士族ではない。彼は浪人で御親兵の南一番隊に属していた」と三枝は供述したようです。が、先述したように、実際には朱雀操はれっきとした武士であり、おそらく三
幕末、水戸藩内で武装蜂起した「尊王攘夷派」の一部(天狗党と俗称)が、京都にいた「一橋慶喜」を頼り、朝廷に「尊王攘夷の志」を訴えるとして、水戸藩を脱出京都へ向った(天狗党の乱)が、結局「幕府の討伐軍」に降伏した地「敦賀」に行きました。天狗党は、ここ越前国・「新保宿」(敦賀市)で討伐軍に包囲され、先鋒の「加賀藩」に投降します。藩を出てから47日目でした。頼みの一橋慶喜が、天狗党討伐軍を指揮した事も堪えたようです。新保宿(木ノ芽峠への道)天狗党首領「武田耕雲斎」本陣跡旧新保宿は、越
天誅組とは?幕末の動乱期に幕府を倒し天皇中心の国家にしようと志した尊王攘夷派の集団です文久3年(1863)に天誅組は大和国(現在の奈良県)の五條代官所を襲撃しましたそして五條御政府という政治機関を設置し討幕の狼煙を上げましたしかし天誅組は逆賊として討伐されてしまい現在の奈良県東吉野村で天誅組は壊滅しましたこのあと起こる明治維新は1868年です天誅組の決起は明治維新の5年前になりますそれゆえに天誅組は明治維新の魁といわれておりますまた天誅組が襲
春雨じゃ濡れて行こう...「月形半平太」は、行友李風(ゆきともりふう)原作の戯曲。幕末の京都を舞台にした、長州藩士である月形半平太を主人公にした恋と剣の物語です。月形半平太のモデルは、武市瑞山(通称武市半平太)だといわれる。その中で有名な台詞が、これ。「春雨じゃ濡れて行こう」(はるさめじゃぬれていこう)月形半平太が、傘をさしかけようとする舞妓・雛菊に対して言う台詞です。雛菊「月様、雨が」半平太「春雨じゃ濡れて行こう」今でも、小雨の中を傘なしに歩く時などに、ある時は