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(E)私の死一般に死は、《壁》の向こう側に存在するものであるから、この上もなく非人間的なことだと思われているが、一変して、これを別の観点から考察した人もいないわけではないし、それも理由のないことではない。というのも、死は一つの端であり、あらゆる端は端であるかぎりにおいて、双面の扉であるからである。例えばある音楽の終符は、当の音楽を限っている「存在の無」に付着させることもできるし、系列のうちにある最後の過程とみなすこともできる。そういうわけで、死を、それが限るところの系列のうちから、
結論I-即自と対自、形而上学的概観今や我々は、結論を下すことができる。我々は本書の緒論以来、意識を「存在脱落としての存在」、すなわち対自として定義し、この意識は意識の対象たる即自存在を、直接に、指し示す。けれども即自と対自について記述したのち、両者の間にきずなをうち立てることが困難であるように思われた。すなわち、そこには根抵的に異なる二つの存在様相があるように思われたのである。我々の研究は、まず次のことを明かした。すなわち、対自と即自とは、対自それ自身に他ならない一つの綜合的
シグマの元ネタ・予想まだ異能名が公開されておらず、元ネタが不明のシグマ。今ある情報から予想してみたのですが、個人的にはフランスの哲学者であり、小説家のジャン=ポール・サルトル又は、日本の小説家であり「天人五衰」の生みの親でもある三島由紀夫を候補に挙げています。三島由紀夫の可能性が一番高いのでは無いかとは思いますが、ネタにしずらい部分や賛否両論を考えれば、ん~.....。なんとも言い難いところですよね。個人的には朝霧カフカ先生に時を超えて新たに三島由紀夫を生かして欲しいです。プロフィ