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主人が突然亡くなって、今5年と10ヶ月。逢いたい気持ちを今は諦めて…と言うより、それはとてもとても諦め切れる想いではなく、だから心の奥の奥に押しやって、どこか封印するかのように生きてます。あの頃のように苦しくて苦しくて、居ても立っても居られないような気持ちとは今は違うけど、それでもその想いが一たび湧き上がってくると、それは無性に懐かしくてたまらなくて、逢いたさがどうしようもなく募ってしまう、愛しさでいっぱいになってしまう瞬間…そうなります。どんなに願っても、何をしても絶対にこの世で
夫が交通事故で亡くなったあの日のこと夫は飲み会のお誘いがあると必ず「行って来ていい?」とLINEしてきた。ダメと言っても行くのだろうからその度に私は「はい」とか「了解」とか返事をしていた。でもなぜだろう?あの日はそれを既読スルーした。「はい」とは言わなかった。それでも時間になると夫は出かけていきそして帰らぬ人となった。その日飲みに行ったことをあまり快く思っていなかった私は父親の帰宅時間を尋ねる息子に「どうせ遅いでしょ」と嫌味を言っていた。翌日、次男が家を出るのが
私のとても信頼する、そして尊敬する大好きなブロ友さんです。今朝のブログが、その気持ちがわかり過ぎて…リブログさせていただきます。主人が突然亡くなってここまで来る中で、私もどれだけそんな事を言われたかな…でもそう、今現在の私はmasaさんとここも同じで、ここまで時間が流れたせいか少し落ち着いて?ちょっと違ったふうにも受け止められる…なんとか流せる方向にも気持ちがなって来たのかもしれないとは思う。でもほんと、私だったらとても生きていけないと思う…とか、言われたことは忘れないかなぁこ
夫は、くも膜下出血で突然死した。気付いたときには、もう冷たくなっていた。検死した先生には、「きっと一瞬で、苦しまずにいったよ」と言われた。くも膜下出血は発症した人の3分の1は死亡、3分の1は重い後遺症が残り、3分の1が社会復帰できると言われているらしい。(その社会復帰できる人の中には、自ら体調がおかしいと早い段階で病院を受診した人も含まれているらしい、、。)とても恐ろしい病気だ。夫を亡くしてから、何人かに言われたこと。「重い後遺症が残ったら、それはそれでrayの人生が介護になってしま
私は生きているので誕生日しかない。夫は誕生日と祥月命日がある。夫の誕生日は来月。夫の祥月命日は再来月。毎年、夫の誕生日が来るたびに思う。小さなカットケーキをお供えして、ビールをお供えして…お誕生日おめでとう。。。え?おめでたいのかな?もう、歳を取らない。何と表現して良いのか分からないが、変な気持ちになる。おめでたいのだけれど…、なんか違和感。生きていたら、どんな風になっていたかという想像すら出来ない。だって、貴方は37歳から歳を取らないから。遺影の中で微笑んでいる。この世に生を
アメトピに掲載頂きました。私のblogは、いわゆるキラキラblogでもないですし、有益な情報がある訳でもなく(むしろ、フォロワーさん達のコメントで、教えて頂く事が多く助けて頂いています)したくはなかったけれど、兄の事故、長男の難病、次男の不登校、夫の死、ははの介護問題…一通り経験してもしも、同じような事で苦しんでいる方がいるなら、1人でも良いから、何か力になったり、寄り添っていきたい。最初は、義両親があまりにひどくて、備忘録としてblogを始めましたが、今年からは、上記したように、誰かの役
『こんなところにポツンと一軒家』をたまに見る。が何でもかんでもではなく、山奥で1人暮らしを頑張るお爺さんかお婆さんの時のみ。リスペクトの念を込めて、つい見入ってしまう。老夫婦が仲良く協力し合って秘境で暮らすパターンの時は、一気に見る気が失せてYouTubeに切り替える。僻んでいるのとも少し違って興味が無いのだ。もう私には手に入らないライフスタイルだから、老後の参考にならないというか…僻むのなら私はよっぽど夫と同い年くらいのスーツ姿のビジネスマンを見る方が辛かった。私の夫だって、私
もうすぐ恐怖のGWがやってくる。また月命日がくる…何回目だろう。最近だんだん夫の影が薄まっていくようなそんな変な違和感を感じることがある。悲しいのにこんなに苦しくなるのにどこかでこの悲しみに慣れてきている自分もいてああ、自分はもう何か月夫と会っていないんだろう。会えないことに慣れたくない…なのに…こないだ、ふと夫の口癖が口をついて出た。あー、これいつも言ってたな。久々に聞いたな。え?1
皆様、こんにちは。プロ友の皆様に心配して頂いた、友人の死や、その他もろもろ。随分、グラグラの揺れが収まってきました。こうなる事がわかっていたなら、もっと彼女と会っておけば…もっと彼女にこうしていたら…仏教的には、そういうのは欲、煩悩になるのかな。キリがないですよね、もっともっと、、、って。夫の死の後にも、自分の死生観は大きく変わり、ヒトはいつ亡くなるかわからないだから、やりたい事を後回しにせず…って強く感じた筈なのに、長い5年の歳月のうちに、だんだんとその事を忘れ、俗世の雑
先日、夫の実家に行った時のこと。不登校になっている三女のことで氣を揉んでいる義母が私と長女に向かって(この時三女はいなかった)人間生きていれば人の死に目に遭うことは必ずあるねん。そんなことぐらいで学校に行かれへんようになっててどないすんの〜⁈と言い放った私は義母の言葉に絶句した長女も後で「おばあちゃんの言う通りだと思う」と言っておりあんたもそう思ってんねや…と返す言葉がなかった三女は夫の病が発覚した事がきっかけで不登校になったがその前から友達関係のことで悩んで
この週末山奥の広大な敷地に建つ観音温泉の旅源泉かけ流し大浴場のお湯は飲用可門の左横にミーアキャットが二匹お迎え敷地内に11匹の猫ちゃんがいるそうですお目にかかったのは正面玄関に鎮座するシーちゃん微動だにしないので置物かと初日は踊り子号のハプニングで大幅に遅れ宿に到着普段歩き慣れていないせいか、私の人工膝関節と太ももはガクガク大浴場とお部屋の露天風呂のお陰で翌日の歩行は12000歩😀コロナ禍で予約していた観音温泉二回もキャンセル行っておけば良かったと後悔まさか夫と愛犬
息子の幼児返り②ここのところ、息子の様子がおかしい。『おとうさんしんだ』これはわかっているらしい。最近、まだまだわたしにべったりな状況が続いています。『息子の幼児返り』息子の幼児返り夫が死んでからのこの3週間、息子の幼児返りが激しいです。中学1年生になる息子は、ダウン症です。精神的な年齢としては、5歳位のように思います。(去…ameblo.jpそんな、わたしが、息子に言われていちばん辛いこと。『おとうさんいつげんきになる?』お父さんはね、元気にならないんだよ。死んだんだ
昨日は病院の支払いに行った。久し振りに病院の駐車場に入った。色々思い出すのかなと思ったけど駐車場には特に感じるものは無かった。車を停めとぼとぼ歩くと正面玄関が見えてきて「毎日毎日通ったなぁ・・・」と思った瞬間夫の横たわった姿が鮮明に思い出された。目に浮かぶとはああいう感覚なのか。「やめてやめて」当たり前だが病院には夫の良い思い出は無い。絶望的な悩みだけを抱えていた場所。いつも行っていた病院の食堂でよく注文していたミニカレーを食べようと予定していたが中止することにした。用事
ある日の土曜日、子供達を連れて、少し離れたスーパーへ買い物に行きました。子供達と、何買おうか〜?などと買い物をしていると、「あ、Iさん!お久しぶり〜」と、長男とも次男とも幼稚園が同じ同級生のママであるM山さんに声をかけられました。(幼稚園は少し遠かったので、小学校の学区が違う)「お久しぶりです。」M山さんが「あれ?今日はパパいないの?いつも一緒のイメージなんだけど笑」咄嗟に「今日、仕事なんだ」M山さん「パパによろしくねー」その後も、夫と出会った会社の先輩が、近くまで来たから、と連絡を
夫はとても忙しい人で、平日は大抵午前1時過ぎ土日も出勤が多く彼が早くに亡くなるなら過労死だろうと思っていた。私達は共働きだけど夫がそんな風なので家のこと子供のことは私が任されていて家計も私が管理夫は我が家にいくら貯金があるかも分からない状態子供達の成績もよく知らず学校へ出す提出物など書くのは全て私、PTAの役が回ってくれば大きなお役も全て私そんなわけで、私は常日頃から不満だらけだった。夫は自分の仕事に集中できて帰ったらご飯が出来ていてアイロンもかけてあって
ごんぎつね、という話をご存知ですか?夫が亡くなってから私の身を案じた友達が入れ替わり立ち替わり差し入れを持ってきてくれた。最初の頃は、ご飯を作る元気がないだろうとスーパーのお弁当やパンやおにぎりなど。やがて、果物だったり野菜だったり、高級食パンだったり、みたらし団子だったり、お菓子だったり手作りスープだったりカツ丼だったり。ピンポンしてくる時もあればそっと玄関先に置いてあったりドアにくくりつけてあったり。ごんが兵十のためにせっせと栗を置いて行ったように。そん
病院からの電話で、急いで義両親に電話し、子供達を起こし、病院へ向かおうとするとピンポーン。出ると警察官の方が二人。夫が交通事故にあった事、ひき逃げだったことを聞いた。外を見てびっくり。規制線がはられ、パトカーが何台もいた。物々しい雰囲気だった。とにかく今から病院へ行くと言うとくれぐれも気をつけてと言われる。三人で病院へ向かうと義両親はすでに到着していて呼ばれるまで一緒に待った。やがて呼ばれて、部屋へ入ると夫らしき人がベッドで横たわっていた。あぁ、良かった!そう思っ
夫の交通事故の判決言い渡しがされた。検察の求刑通り懲役3年ただし5年の執行猶予付きつまり彼は今日から自由の身になった五年間、罪を犯さなければ三年の実刑もなかったことになるこれが私の夫の命の重さ飲酒運転だったけど逮捕されたタイミングで飲酒量は少ないとみなされ危険運転致死ではなく過失運転致死おそらく過去の判例から考えると適当な判決なのだろうと思うでも日本の法律は犯人に対して甘すぎやしないだろうか夫の命を軽く見過ぎじゃないだろうか私は納得がいかないけど検察が控訴
自死遺族の私が、感じてること、思うことなど書いています。夫が他界したのは11年前。今までに感じてきたこと、今になって思うこと、時系列は乱雑になると思いますが、なるべく等身大で表現しようと思っています。自死遺族について書き始めたブログはこちら夫は友人が少ない(と本人が言っていた)年賀状のやり取りもそれほどなく葬儀は火葬のみでほぼ親族亡くなった知らせは喪中はがきその知らせで連絡を下さる方もいらっしゃった名前だけは知ってるけどお話したことがない方もお電話い
夫の大学時代の友人でお互いに地元の果物を送り合っている方がいるこちらからは毎年みかんを送りAくんからは九月にナシがBくんからは九月にブドウが届く私達家族はみんなそれを楽しみにしていて夫もなかなか遠方で会えないけれど果物が届くタイミングで電話をして、年に二回近況報告していた。夫が亡くなった時次男が、AくんとBくんに知らせた方が良いのではないかと言った私は少し迷ったけど遠方で葬儀に来るのは難しいから結局喪中ハガキのタイミングで訃報をお知らせしたハガキを送ってすぐに
夫が亡くなった後様々な手続きをしなければなりません。病院、葬儀、役所、学校、生活費などなどキリがないくらい襲ってきます。失意のどん底にいても母子で生きていくためには夫のいない新しい人生を歩んでいくためには必要な事ではありますが心身共に傷を負ってボロボロの状態でやらなきゃいけないのはとても残酷な手続きばかり何かにつけて戸籍謄本だの住民票の除票だの夫が亡くなったという証明書を求められるのは夫の死という現実を目の前で見せつけられることだからです。手続きをする度に「夫
よく、亡くなった人が側にいてくれるのを感じる瞬間があると聞きますが…今日息子と一緒にユニクロに買い物に行った時のこと息子が買おうかなと思っていた服のLサイズがちょうど残り一枚で試着した後、他の服と迷っている間に他の方がカゴへ入れてしまいました。それはそれで仕方ないので他の色にするか、別の服にするかあと見本でハンガーにかかっていたのもLだったので、まぁ、それでもいいかなんて考えていたら…その方がふと戻ってきてカゴからそのLサイズを棚へ戻したんです。私達の目
スタジオアリスから夫宛で「家族撮影無料ご招待」のハガキが届いた。息子達の一歳記念と七五三で撮影していただいた個人情報から長男が今年卒業なのでこの節目にご家族で記念のお写真を、というもの夫が生きていたら撮っただろうか…その前に息子達がスタジオで家族写真というものに拒否反応を示しそうだけど…仮に撮ろう!となっていたとしても夫はもういないスタジオアリスは夫の死を知らないだから仕方のないことでもこのハガキを見て私達家族はもうあの時とは違うんだということを思い知らさ
先週、息子達のインフルエンザの予防接種のため小児科を訪れた時のこと小さい頃からお世話になっている先生も看護婦さん達も夫の訃報をご存知で行ったらすぐに受付で「大変だったね…」「頑張ってね…」などと声をかけられた。注射の前に先生と話した時に「◯◯家だから、耐えられる試練を神様が与えたんだと思うよ」と言われた。それは一見褒め言葉のような気はするけど全く嬉しくなく言葉を返せば私と子供たちがこの悲しみを乗り越えられなさそうならこんな試練は与えられなかったという事にな
夫の死について誰一人私を責める人はいないでも私は、二ヶ月経った今でも私が夫を救えたはずと考えてしまう。いつも飲み会へ出かける時は私が送迎することはなく誰かに迎えに来てもらったり自力で行ったり帰りはタクシーだったりとにかく私をあてにしない私も帰りを気にすることなく自由にお風呂に入り自分のタイミングで先に寝ていたでも、あの日、もしも夫の帰りを少しでも気にしていたら?いつ帰る?と聞いてもう歩いて向かってるよと返事が来たらなかなから帰ってこない夫を気にして電話し
家族に不幸があると職場で弔慰金が給付される夫が亡くなった時人事課で色んな書類を書いた憶えているのは子供達を私の扶養に入れる書類扶養手当の書類あと、忌引きの特別休暇の申請書他にも色々書いた気がするその中で弔慰金に関する申請書も書いたような気がしていた…が一向に振り込まれない労働組合からの2万円は現金でいただいたけど…夫が亡くなってもうすぐ4ヶ月さすがにおかしいと思って人事課へ確認するとまだ申請してないとのこと夫の死に伴う色んな手続きをしたんだから、弔慰金の
夫が亡くなって二週間後仕事に復帰した。お香典をいただいた方たちには復帰前に一通りご挨拶したけどみんな、何と言ってよいやら、という感じ。突然の事で…大丈夫…?びっくりしました…ご飯食べてる…?かける言葉が見つからない様子確かに逆の立場だったらなんて励ましたらいいか私も分からない仕事中もずっとダンナさんのことを考えてしまう半分仕事のこと半分ダンナさんのことこんな調子では大きなミスをするんじゃないかと心配になってしまう。初日、なんとか勤め上げ帰りに車に乗った
美容院ネタで引っ張りますが・・・以前の美容師さんから夫の事を積極的に聞かれたことは無かった。それはそれでありがたかった。日が浅い頃は夫がいるていで話したいと思っていたけど夫の「今」が無い状態で、夫の話しはなかなか出来るものじゃない。聞かれたら夫がいるフリをするけど自ら夫の話題をふることは無い。美容師さんは離婚しているのでご主人の話題が無く、私の夫の存在にも興味が無く家庭の話しより時事ニュースネタに話が咲いた。先月の施術の日、何の会話の流れからだったんだろう思い出せな
夫が亡くなる前職場の人と、夫が少年野球チームのコーチをしている、という話をした。子供の卒団と同時に辞めるお父さんも多い中、夫は引き続きコーチをしていた。そのことを私は笑いながらヤクザみたいなもので死ぬまで辞めさせてくれないんですよと言った。その数週間後、夫は亡くなりコーチを辞めることになった同じ日のこと近所で自死により亡くなった方がいた家族を自死で失うと、残されたご家族は色々後悔が多いのではないか、という話になった。では、どういう死に方なら家族に悔いが残らない
色んな書類で配偶者の有無を書く時私は「無」にマルをつけなければならないそしたら、結婚指輪はどうなんだろう?もう結婚していないのにいつまでも結婚指輪をしているのはおかしいのか?でも結婚以来ずっと24時間つけていたものを急に外すのも違和感がある私と同じようにご主人を亡くされた皆様は結婚指輪はどうしているのだろう?