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4月19日(金曜日)に亡くなったラミーコのおばさんM子(母のすぐ下の妹91歳)の告別式に今日行ってきました!母と兄から詳しい話は聞いてなかったけれど、翌日20日(土曜日)には、亡くなったM子おばさんのところに行く準備はしていましたが、しかし、母と兄だけ⁉️行ってきたとのこと‼️なので、何があったのか、よくわからないので直接M子おばさんに聞いてみました。最初は、『心配しないでいいよ~』というニュアンスで、あまりおしえてくれなかったけれど、やはり家の『あの階段』で転んで、額や額の
長い付き合いの友人が急逝したとの事同業の友人で年は確か一つ上の方気が付いたときは手遅れだったと聞くで、月曜は病院へ薬をもらいに行った何やらアプリで予約していったら予約制ではないので、初診の発熱外来用だという説明ただ、チェックインと言って、受信に来たことはQRコードで出来ますが、窓口なので、口で言ってもらったほうが早い!という事で、よく判らないまま保険証と言われて出したら「これ去年のです」あ!先だって4月の第一週に別の病院へ行ったときに出したけれど
ご近所の農家仲間の方の告別式に参列してきましたやっぱり涙、涙でした😢😢😢お友だちの弔辞に😢最期のお別れにみんなでお棺にお花を入れてお別れの言葉をかけている時に、娘さんが何度も何度も「ありがとう、ありがとう…」と泣きながら声をかけていたら、小学生の息子さんが泣いてるお母さんの背中をさすってあげてるんですよ。それを見てまた涙😭😭😭冷たい雨が降る中、出棺をお見送りしました本当にありがとうございました🙇家に帰ってきても思い出しては涙が😢泣いてばかりいてはダメだと思って、引き出しの中を
4月末毎年参加してるイベント敷島公園ばら園今の名称はちと違うらしいが今年は2人の主催者さんからの要請😱どちらも無下にはできないが出来ればIさんの方で出たいIさんが続けるようならIさんの方だけに出たいがう"~んで両方出ることにしたがまさか!?日にちが被るなんてー😱と思ってた日々でーIさんと話し合った結果Iさんの方は丸々委託で昨日作品を預けに行く訳だったがぁ法事お通夜って夜やるもんだと思ってたら昼間に召集でも蓋を開けてみれば(行って
ご訪問ありがとうございます当地は今日はシトシトと雨が降っています今日は母の命日あれから2年3回忌(法要は家族の都合で3月末に終わってます)『母の癌シーズン2静かに安らかに天に召されました』ご訪問ありがとうございます昨日の記事から数時間後↓昨日の記事『母の癌シーズン2お別れの時が近づいてきました』ご訪問ありがとうございます『母の癌…ameblo.jpこのときも小手毬を画像にしてたんですね『母の癌シーズン2通夜・告別式を終えました』ご
時を巻き戻している母の初7日までのことも忘れないうちに書いておこうと思う初7日は亡くなった日を1日目として数えるということをお坊さんから説明されたのは、告別式の時火葬して遺骨を拾った後会場へ戻りお経とお坊さんからのお言葉を頂き喪主の挨拶をして全て終わってから家族でお坊さんの控え室に挨拶に伺った時に初7日の話しを聞いた兄が初7日を自宅で行うと言うとお坊さんから「家は大丈夫ですか?」と聞かれた。お坊さんに心配されるほどに実家がやばかったからだお坊さんはわたしを
お通夜、告別式と無事終えることができた。告別式は晴天で桜の花びらが風で舞って、穏やかな春の日だった。お母さん、さすが晴れ女だな。喪主として、といっても告別式には、私の家族とお母さんの妹家族と父方の親戚のおばさん、そしてダンナさんのお姉さん3人姉妹だけだったので緊張することもなかった。お通夜はお母さんの妹家族と、お母さんの友達数名と私の友達が来てくれて、終わったあとはお母さんの話をしながら和やかな時間を過ごせた。ほんとにお母さんの友達にも、私の友達にも感謝。おばさん(お母さんの妹)はいい人
こんにちは。明日は、長男の誕生日です。23歳になります。大学を辞めて、関東から地元に戻ってきて、2年経ち今はバイトをしています。のんびり、先の事は考えず、たぶんお金のない生活を続けています長男と次男は、小学生低学年までは仲良くて、二人でよく遊んでいました。長男が高学年になり、友達と遊ぶようになってからは、次男と遊ぶことはなくなりました。中学に入ってからはほとんど会話なくたまに会話したと思ったらケンカしてたような気がします。私は、長男にはいろいろ厳しかったです。その反動かどうか
『母が膵臓癌になりました53』『母が膵臓癌になりました52』『母が膵臓癌になりました51』『母が膵臓癌になりました50』『母が膵臓癌になりました49』『母が膵臓癌になりました48』『母が膵…ameblo.jp8月21日母の強い希望によりごくごく僅かな人数の家族葬でお通夜、告別式、初七日終わりました喪主は父弟は前職が葬儀関係だったため知り合い、友人、関係者に事前に依頼していたので決めることも少なく副住職の先生も知り合いで滞りなくおえることができました東京の火葬場は混雑
さてさて、今日のおばあちゃんのビューイングとお葬式の流れとは・・・午後12:30からビューイングが行われた。これは、故人と最後に会いたい人たちが、綺麗にメイクアップされてキャスケット(casket=お棺)に入れられた故人に会いに来る。日本のように通夜などは無くて、このビューイングは大体告別式の直前に行われる。時々事故などで遺体が痛んでいる場合は、クローズドキャスケットと言って、お棺を閉めたままの場合もあるけれど、通常はお棺が開いていて、最後の姿を見ることができる。斎場の入
身内に不幸があり昨夜は通夜そして今日11時から告別式です。が透析が有るので不本意ながら出席が叶いませんでした。今日の透析を月曜日に変更して貰って、何とか告別式は出席したかったが、日曜日21時前にクリニック先生に電話を掛けるも出て呉れなかった。24時間何かあったら電話をするようにと聞いてる携帯なのに。よって透析日が変更できないので告別式には出れない!透析も3日間空けるわけには如何ないので。お通夜の席で喪主にお詫びを入れて泣く泣く欠席を決めた。そんな中ですが
ようやく来た娘婿にどうしても聞かなければならない事があった。怒り悲しみは抑え奴の背中に手をまわし、その手で背中をさすった。私「来てくれたんや~」って、いつもの優しい義母を装って、言ってのけた。来てくれたんじゃないやん!お前が喪主せなアカンのんちゃうんかい奴は、穏やかで、いつもの優しい声に安心しきっている。バカよなぁ・・・娘婿「〇〇さんを幸せにするって、約束したのに、約束守れませんでした。」って、私の上着の袖口を握りしめて泣きだした。
さようならと言ふを追ひ打ち閉す柩花の中にみ顔消え去る―初井しづ枝この度一月十二日夫熊倉貞武が79歳にて永眠いたしました。ここに謹んでお知らせ申し上げます。葬儀に関しましては、すでに遺族と友人のみの家族葬を執り行い、昨日二月二十五日はおかげさまでつつがなく四十九日法要を行うことができました。故人が生前に賜りましたご厚誼に厚く御礼申し上げます。***********************ところでわたくしが主人が急
2023年7月18日(火)今日のこと今日も外は暑くていいお天気でした。3連休が終わり、家は静まり返っていた。朝はゆっくり起き、息子にお線香を上げて、花の水を変える。供えていた夕飯のお肉が乾いている。チョコパンの消費期限も切れている。減らないお供え物を見て、悲しくなるけれど仕方がないね。スーパーにも行きたいけど、何を作ればいいのか何を買えばいいのか分からない。1人で外に出る勇気がまだ出ない。いつも息子のリクエストでご飯を作っていた。パート帰りにLINEをして、「スー
夫たっての願いによりシンプルそしてミニマムでしたがとてもよい式でした。亡くなってからの3日間は自宅で過ごすことができたので通夜として十分な時間もありました。今日のこと。黙祷と焼香後は夫を囲んで語らいの場になりました。BGMは好きなジブリシリーズのオルゴールバージョンです。皆で夫に触れ涙をながしながら、時には笑いもありあたたかい時間をすごすことができました。出棺のときの兄、弟、甥二人と仲人さん(大学時代の部活の先輩)達に運んでもらう様子をみていたら妻はもちろん上も感謝と嬉しい気持ちで胸が
ご両親と過ごした21年より長い37年間。私と一緒に歩んだ人生。私は、とても、とても幸せだった。あなたはどうだったかな。幸せだったと思ってくれてるかな。今日であなたに触れることも出来なくなってしまいます。でも、あなたと交わした言葉や思い出は私たちの心の中に居ます。とても、とても寂しくて辛いです。
呑みすぎて病院に運ばれたのではなく、細菌による食中毒によるものだったと、自分自身で私にLINEしてきた事を忘れているらしい・・・友人と食事に出かけた娘。食後体調不良で病院送り。しかし、保険証を持っていなかった為、実費精算となった。私に連絡があった時に、保険証は常に持参しておくように!と、お小言を言いました。娘婿と私のLINEのやり取り。しかし、この診断も謝りで、後日、一緒に食事に行った友達に聞いてみると、アレルギー
私の母親は、18年前に交通事故で亡くなりました。母が亡くなってまずしないといけないのは、葬儀会社を選ぶことでした。病院から母を運び出さないといけないので・・・。駅近くに葬儀会館が数件あったのでその中から、電話帳で一番上のところへ電話見積もりに来てもらい、出したのが前回書いたように180万円!葬儀一式の費用まず葬儀のセットというのがあります。「葬儀A」とか「葬儀B」とかあって、祭壇の大きさや花の量などが違います。これは小さめを選びました。お棺や骨壺も数種類の中から選びます。
95才の祖母が亡くなり、家族のみ、一日葬にて葬儀が終わった。母方の祖母だが、母の弟夫婦が同居していたため弟(以下、伯父と記載)が喪主となったが、実際、あれこれ決めたのは伯父の妻(以下、毒伯母と記載)と、その長女が取り仕切った。まず、葬儀が始まる前に、伯父にこちらがわの参列者全員の香典を、母からまとめて渡したが、アル中の伯父は無言で頭を下げて終わり。隣で目を光らせている伯母が光の速さで取り上げ、無言で自分のカバンにしまった。挨拶の1つも出来ない恥さらし。そして本堂にて
娘が会場に移動した頃ようやく、娘婿とその両親が来た。昨日、職員の方に、娘の数珠を持って来て欲しいと言われたので、娘婿の母親に「娘が結婚する時に持って行った荷物の中にあるはずなので、生まれて初めて履いた靴と、娘の数珠を持って来て欲しい」と、頼んでおいた。それを棺の中に入れて、数珠を手に握らせた。息子にも、娘にも、生まれて初めて履いた靴は、綺麗な状態で保管していた。いつか、自分の子供が出来た時に、「お父さん、お母さんも、
*お葬儀の写真がありますのでご了承いただける方のみお進みください*『帰ってきました』自宅にもどりました。寂しさもあるけれど一緒に帰ってこられた!という喜びもあり一緒だなって思えていて今のところ気持ちは大丈夫です。最近の記事がアメトピに掲載…ameblo.jpこの時からもう2年が経ちました。お式の様子を「いつか綴ります」と言っておきながら、ずっと書けませんでした。2年たってようやく、写真と共に綴ってみようと思いました。お葬儀屋さんに「良いお式だった」と
告別式告別式の日のこと。お通夜の後は、夫と2人でそのまま親族の控え室に泊まりました。最後の夜、息子の側で過ごせました。翌日の告別式にも親族だけではなく、先生やお友達、お世話になった方々が見送りに来てくださいました。平日の昼間でみなさんお仕事や学校もあったと思います。足をお運びいただいて、嬉しかったです。棺の中にはたくさんのお花と手紙、好きな物を入れました。ジュースを入れてあげたかったけど、ダメだったので、みんなで口をジュースで湿らせてあげました。それぞれお別れを言って、最後は私
毎週訪問している実家🏠。父の入院中みたいに「今日は行けないわ」が無理なわけではありません。買い物🛒に連れて行く為に行っているので代わりに誰かが行けばいいのですから。私の代打は私の兄🐻。実家から徒歩2分のところで1人暮らし。母も1人暮らし。一緒に住めばいいのに【店内全商品ポイント10倍】【タッチペン付ビジネスペン】フルカラー名入れ名入れボールペン小ロットOKノベルティ販促品卒業祝い退職祝い記念品粗品企業向け展示会用景品参加賞周年記念品ノベルティー
今、夫と2人きりです。介護ベッドの上に白いお布団を敷いて、ドライアイスに囲まれて寝ている夫はとても安らかな笑顔です。発病から丁度14ヶ月。告知されたとおりの闘病期間でした。長野旅行から帰って来てからは、あっ!と言う間に病気が進行してしまいました。息子も、予定を切り上げて帰って来たので夫の最後に立ち会う事も出来、少しだけでもお世話をする事ができました。たった2日早めただけですが、この差は大きかったと思います。あと2日だからと思いきれなかった息子の背中をおしてくれた嫁に感謝です。25
何か月か前になるがインターフォンがなったので応対すると訪問者「〇〇〇(宗教団体の名前)と申しますが亡くなった方の供養のお話を聞いていただけないかと」と、話しだした。私「結構です!!」と、断ったら訪問者「少しでもお話を」と、食い下がってくる。私「チラシ、セールス、勧誘お断りの張り紙が見えませんか。」と、返事したら諦めて帰っていった。ご近所さんも訪問するのかとインターフォンのモニターを見ていたら我が家だけ訪問して帰っていくではないか。この地に住んで20年弱1度もそんな勧誘が来た事
そして1年前4月17日は、告別式の日でした。実は告別式もどうしようか悩みました。旅立った後、次男と少しでも一緒にいたいので、直ぐに告別式するのはどうかと考えたあまり人も呼ばず家族葬にしようかいろいろ悩みました。正直、お金の事も頭を過りました。でも頭の中で、常にあったのが次男は闘病してから車椅子になり、ご近所さんや、ちょっとした知り合いに会うのは嫌がっていました。親も人と会うのを避けていました。学校と病院しか、次男の行動範囲はありませんでした。知り会いに会うと逃げるようにしていま
2月10日叔父の告別式だった。お通夜は欠席するつもりだったので、先に時間を気にすることなくゆっくりできる自宅での枕経に行き、告別式は繰り上げ法要までいる事に決めていた。開始は朝9時。妹と斎場で待ち合わせをした。妹とはあのお好み焼き屋さんでの一件以来会っていなかったが、枕経で久しぶりに顔を合せた。案の定ぎこちない感じでどこかよそよそしい。斎場は旦那の葬儀を行ったところで、もちろんあれ以来足を踏み入れる事はなかった。自動ドアを潜り抜け、足を一歩踏み入れた・・・パラパラとあ
後日談④ともに今回話す内容が、おそらくペルー旅、最終章である。ただこの話をするには、少し説明が必要な人物がいるので、まずその方についての話をしたいと思う。恩人との出会い私にはここ2年くらいお世話になっている方がいる。年齢的には60半ばのおじさんなのだが、見た目は正直その10歳も20歳も上に見える方である。というのも私と出会ったときには、もう癌で余命宣告を受けているような状態だったからだ。抗がん剤治療によって、日々身体を蝕んでいく癌と闘いながら、毎日を過ごしていた
きのうたまたま三条正人さんの歌をアップしたら予想外に好評でしたそこで今日は三条正人さん特集「小樽のひとよ」などのヒット曲で知られる「鶴岡雅義と東京ロマンチカ」のメインボーカル三條正人(さんじょう・まさと)さん(本名・渡辺正好=わたなべ・まさよし)が2017年10月5日午前5時54分、悪性リンパ腫のために都内の病院で亡くなった。74歳。大津市出身。関係者によると、約1年前に悪性リンパ腫と判明。治療を続けながら仕事を続けてきた。9月26日に群馬県でコンサートを行ったが、これが最
2021年1月高校1年生で脳幹グリオーマという悪性度の高い脳腫瘍と診断されました。診断と同時に余命宣告をされ、放射線治療で一時的な症状の緩和が見られますがわずかな期間で再燃をします。この残酷な病気を知ってほしい。息子の頑張りを知ってもらいたいです。当時の記事はこちらです。『【脳腫瘍】診断から2年(加筆修正済み)』診断から2年が経ちました。よく頑張っていると思います。振り返るのは辛くなると思いますが記録してみようと思います。2020年11月28日新人戦後から言われまし…amebl