ブログ記事3,511件
クラウディアさんの剣術について。つまり、いつもの妄想設定話となります。いや、彼女と洞窟で遭遇すると手ごわいですね。幸い私のパーティーとは、相性がかなり良いのでなんとかなってます。加護の、ジャッジメントレインはほぼ必須。次点で、霊王の聖棺。シャイントルネード。軍神の采配Lv3。龍神の松明。などが、欲しいところです。私は、火力でゴリ押しという、メメモリでの一般的な編成ではないので、クラウディアさんみたいな回復を持ってる敵は苦手な傾向にあります。つまりは火力面で苦労している。とい
京都見廻組の渡辺篤は激動の幕末維新を生き抜き、天寿を全うした人物です。そのため晩年に自らの経歴を書き残したり、あるいは近しい人たちに語り残しており、生まれてから死亡するまでの生涯がほぼわかっている人物でもあります。渡辺篤は、天保十四年(1843)十二月十八日に二条城南城番組与力・渡辺時之進(諱は均)とその妻・滝の長男として生まれました。ただし維新後、戸籍を登録する際に何らかの手違いがあったらしく、戸籍上は弘化元年(1844)一月十八日生まれとなっています。三人兄弟で弟は菊吉(
松濤館、和道流、糸東流などの本土系の空手は剣道に近い、首里少林流は剣術に近い。その根拠は型と組手を見ればわかります。本土系の首里手はほとんどが糸洲安恒そして船越に受け継がれた型である。沖縄でも松村宗棍から糸洲安恒そして知花朝信に受け継がれた型と、松村宗棍から糸洲安恒の空手と屋部憲通を通して城間真繁に受け継がれた型が違う。本土の組手は競技化するために剣道の足運びに自然になっていったのだと思う。そして剣道の理合いを取り入れたのかもしれない。剣術と剣道の違いは、竹刀だと遠い間合いから飛び
安政四年(1857)二月一日、渡辺篤(当時は一郎)は十五歳で二条城御門番見習となります。そして元治元年(1864)二十二歳の時に、二条城において上洛中の将軍家茂の御前にて剣術上覧試合が行われました。篤も参加し、褒美として丁銀五枚を授かっています。また、将軍警護のために上洛していた伊庭八郎と親交を結んだようで、伊庭の『征西日記』元治元年五月五日に「渡辺一郎兄弟暇乞いに参る。鱒を持参」と書かれています。伊庭八郎は同年一月から六月までの間、二条城勤番となっており、一緒に勤務していたり、城内に
黒田鉄山先生がご病気だったなんて、知りませんでした。鉄山先生の事は月刊秘伝で知り、ベリーダンスのパイオニア・海老原先生も、鉄山先生の元へ剣術を習いに行っており、その時の話を聞いておりました。ご子息が宗家を継がれたそう。エールと祈りを捧げたいと思います🙇♀️鉄山先生のお言葉「型は理論であり、一般的な動きで型を行えば、それは形骸にしかならない。」月刊秘伝2023年11月号[雑誌]Amazon(アマゾン)『日本発のベリーダンス文化を創る!』『黒田鉄山先生…』黒田鉄山先生がご病
大野・吉田両家によって受け継がれ、京都の役人たちの間に浸透していたはずの西岡是心流剣術は、明治維新を機にパッタリと消滅してしまいます。西岡是心流がなぜ伝承されなかったのか、途切れてしまったのか、はっきりしたことはわからないのですが、大きな要因として二条城稽古場(文久二年)や京都文武場(慶応二年)の創設により、門弟だった役人子弟たちがそちらに流れていってしまった可能性が挙げられると思います。さらに初代京都府知事・長谷信篤と二代目府知事・槇村正直は、剣術をはじめとする日本古武道を
元治元年(1864)四月二十六日のこと、備中浅尾藩主・蒔田相模守広孝(まいたさがみのかみひろたか)と旗本交代寄合席・松平因幡守康正(まつだいらいなばのかみやすまさ)の二人が新たな任務に就くため江戸城に召し出されました。京都見廻役蒔田相模守交代寄合松平因幡守右、芙蓉間替席において仰せ付けらる旨、老中列座、周防守これ申し渡す。但し御留守中に付、御前へ召し出しこれ無し。同日、周防守殿御渡す。御目付へ京都見廻役席の儀は大御番頭次と心得らるべ
いよいよ台風が迫ってきた、先ほど携帯に緊急速報も入った!古参兵も引きこもり体制じゃといいながら昨日の残りのカレーと太平燕を食べる^^それにしても昨日、「木枯し紋次郎」ネタの反応が異常によくて、困惑したが、当時の視聴率を調べると、さもありなん、というところじゃ^^土曜日とはいえ、22時30分から23時30分という、深夜枠的な枠で初回こそ10%(今ではこれでもかなりいい方だが)だったが、その後、20%、30%と伸び、最高視聴率は38%に達する怪物ドラマだったのだ(古参兵、最近知ったけど、当時
近江屋襲撃の指揮をとったとされるのが京都見廻組の与頭・佐々木只三郎です。佐々木只三郎は天保四年(1833)に会津藩士佐々木源八の三男として生まれました。名は唯三郎とも書き、また諱ははじめ泰昌を名乗りましたが、安政六年(1859)二十七歳の頃に幕臣で同姓の佐々木弥太夫(矢太夫とも)の養子に入ると諱を高城と改めています。実兄に会津藩公用人の手代木直右衛門(勝任)がいます。また養子先の佐々木家は親戚だったとも、縁戚関係はなかったともいわれていてハッキリしません。青年時代までを会津で過ごした只
渡辺篤、桂早之助と西岡是心流の剣客二人を紹介したところで、剣術流派・西岡是心流について少しお話したいと思います。西岡是心流は大和郡山藩の西岡是心を開祖とした流派として知られています。おそらくその出典は古武術研究の第一人者であった綿谷雪(わたたにきよし。1903-1983)の書によるものと思われ、たとえば『武芸流派辞典』(綿谷雪・山田忠史共著/昭和38年)に是心流(剣)郡山藩の西岡是心。吉田武八郎の是心流も同系か。尾州藩の是心流は一に円導流ともいう。西岡是心流(剣)大
「腕は短く使う」ということをこのブログでは五輪書の「秋猴の身」を取り上げて解説してきました。今回は「腕が伸びるのは最後」ということを書いてみます。「腕を短く使う」と言いながら「「腕が伸びるのは最後」というのは矛盾しているように感じると思いますが、そうではありません。「伸ばす」ではなく結果として「伸びる」瞬間もあるのです。打突時に腕を短く使うということは、「相手に我が身を寄せて打つ」または「相手を我が身に寄せて打つ」ということでもあります。打ちの初動から振りかぶり終
お疲れ様です黒執事と陳情令と東華帝君をするヨネです東華帝君熱まだまだ続きそうですね付き合ってください前回書いて下さった東華帝君詳細はこちら『少し調子に乗らせて!』お疲れ様です黒執事と陳情令と東華帝君をするヨネです調子に乗ると痛い目に合うぞ!うん人気者だと分かってる…調子に乗せて頂きます『5月も終わり誕プレイラスト集合…ameblo.jpそして東華帝君また書いて下さいました夢幻の桃花を知らない人の為に東華帝君は天空の最高位の方で愛と恋という言葉には振り回されない
久しぶりです。ここ数ヶ月は仕事で忙しく、卓球が出来ない状況でしたが、久しぶりにラージをやってきました。アジア大会の卓球競技では、絶対王者中国が地元開催でありながら、女子ダブルスではメダル無しという事態が発生したり、日本男子が団体戦でイランに惨敗してしまうという末代までの恥をかくような事態が発生したりと、ハラハラドキドキの大会でございました🥵本来ならば、別の記事を書く予定だったのですが、急遽この記事を書くことにしました。ということで、今回取り上げる記事はこちら💁※アン卓卓球夜話の動画より
こんにちは!ドクターストレッチ大宮そごう店です!本日は中平が担当いたします!今日は少し肌寒いですね??久し振りの雨もありだいぶ湿気もむんむんしていますね>皆様は名探偵コナンはお好きですか??最近映画館で上映されているコナンをとても観に行きたい中平です(笑)最近映画の影響でネットフリックスなど動画配信アプリでより多くコナンの映画が見れるようになりました。ほぼ毎日見ています。僕のオススメは迷宮の十字路です!!京都を滞在とした映画になっており剣術で戦うシーン
十一娘は先程から粘り強く交渉していた。「旦那様、絶対に危ないことはしませんから!」「駄目だ」令宣の声は断固としていた。十一娘は今度は夫に擦り寄りその胸に手をかけた。「旦那様〜…いいでしょ?」「駄目だ」令宣は曲げなかった。十一娘は令宣の首に手を回して抱きついて頼んだ。「ねえ〜ねえ〜旦那様〜〜…」流石に令宣の鼻の下が伸びそうになったがこれにも令宣は心を鬼にした。妻の腕を外して顰め面を堅持した。「駄目だ!お前に危険な事はさせられない」十一娘はプンと横を向いて小声で呟いた。「い
明さん「やあ・・・ずいぶんと・・・久しぶりだね・・・。皆は・・・元気だっただろうか・・・?私はずっと・・・人の心を感じ・・・人の心を見守っていた・・・。それは・・・今の私にとって・・・嬉しく・・・幸せなことだ。しかし・・・時には苦しく・・・心に痛みを感じることもある・・・。それはやはり・・・見守っている人が・・・苦しく・・・心に痛みを感じているからだ・・・。それでも・・・私は・・・そのことを感じられることが・・・幸せなのだ・・・。なぜなら・・・私
お母様は月に三回仙綾閣へ行かれます。お母様は仙綾閣で刺繍を教えています。お弟子さんがたくさんお母様を待っています。だからその日はお帰りが申の刻になります。いつも萬大顕さんがお母様のゴエイをして下さいます。時々、お父様がお母様と一緒に帰って来られます。そんな時お父様はお母様の手を繋ぎます。繋いでいない時はお父様がお母様の腕を支えて歩きます。わたしは不思議です。諄兄様に「お父様は何故お母様を支えて歩くの?お祖母ちゃまはおみ足が悪いけどお母様は悪くないよ?」と聞くと思い切り嗤われまし
妻沼聖天山春季大祭の準備をして、尚且つ前日はケアハウスの夜勤勤めで寝不足や疲れが溜まり少々体に負担が来た。眠気もあるが当日はリハ稽古通り参加剣士が頑張って日頃の鍛錬成果を披露した剣術・居合道と試し斬りをお伝えします。国宝「歓喜院聖天堂」熊谷市内に配られたチラシ仁王門を潜ると正面が本堂午前9時より石舞台では、お琴やフルート、二胡の演奏やベリーダンスが踊り賑やかな演目が続きます。中でもベリーダンスはカメラマンが群がり舞台を撮り囲います(驚きましたね~)人
ベトナム空手協会主催のセミナーを開催しました。まず一つ話しておく必要があります。ベトナムでも強調したのですが沖縄には空手は無いという話です。沖縄では手(ティー)とかティジクンと言います。大正時代に空手となずけられましたが、それとは別物です。今後は手=Teeと言います。ベトナムでも松濤館空手が主流です。私としては分けて考えればよいと思いますので、日本本土の空手とティーは違うと・・・!ベトナムの空手協会の皆さんは理解しておりました。何が違うのか❕あえて深くは言いませんが、リズ
広徳寺は、元々箱根湯本の北条氏菩提寺の早雲寺子院として小田原に創建されました。開基は北条氏第4代当主氏政の子太田源五郎で、明叟和尚が初世として招かれました。今でも北条の家紋北条鱗が庫裡など建物の一部に見られます。太田源五郎は太田道灌の流れを汲む岩槻太田家に婿入りし岩槻城主となりますが、19歳程の若さで亡くなりました。(案内板。今回は全然写真がない・・・)豊臣秀吉が鉄壁の小田原城を攻め落として北条氏を滅亡させると、徳川家康は北条氏の旧領地武蔵、相模等を与えられ、江戸に移りました。広徳寺
去る平成31年4月21日、山梨県甲府市古府中町の武田神社にて「第十二回武田信玄公上覧新陰流兵法奉納演武」開催。家元始め総勢28名にて、日頃研鑽の武技を奉納。新陰流兵法は、室町末期に上州上泉伊勢守が為した剣術流儀。一時甲斐武田軍に身を寄せた伊勢守は、信玄公の許しを得て離甲。往西して柳生宗厳(石舟斎)に印可相伝。現在までの道統に繋がる。本行事は流祖が信玄公より賜ったかかる旧恩に報いるべく、平成20年より毎年実施しているもの。爽やかな春光の下、今期も恙無く神事
バガボンド井上雄彦小次郎編①鐘巻自斎あらすじ鐘巻自斎(かねまきじさい)中条流の剣豪であったが、剣を捨て村はずれにて隠遁生活を送る。かつての弟子佐々木佐康に托された嫡男小次郎を育てる事となった。剣の道に破れ、生きる意味も見失った男を生かしたのは弟子より托された無垢なる瞳だった。剣のみに生きてそれに破れた自斎は、人と関わる事すらままならない人間だったが、人の良い近隣の農夫、久作やその家族に助けられながら小次郎
早いこと端午の節句の季節になりました。今日から鯉のぼりを流します。明日兜を設置。今日は春日和だったので庭木の剪定も。高所恐怖症をおして精神統一でだいぶ綺麗にしました。明日はお茶と剣術の稽古です。
▼日時:2024年3月17日(日)・9:30~子供クラス・10:30~大人クラス・11:30~武器稽古(任意)▼場所:豊田市武道館(スカイホール隣)<稽古のポイント:呼吸投げについて>呼吸投げにも他の技同様、基本があり、応用変化の技があり、各攻撃に対する技があります。昔から数々の実戦の例が証明しておりますが、何等かのトラプルに巻きこまれた人達は、呼吸投げにより多人数の相手を制し、その難を逃れております。呼吸投げは、最も実戦に有効な技です。呼吸投げでは、特に半身に
こんちゃ瞳輝ですゴールデンウィークも終わり、5月病を気にする方もいらっしゃるかと思いますがこの機会にもう一度気合入れていきましょう!私の最近は、YouTubeばっか観てますw大好きなのが、『原田龍二のニンゲンTV』です!そのチャンネルはこちら原田龍二の「ニンゲンTV」原田龍二のYouTubeチャンネルです。「ニンゲンTV」というタイトル通り、僕の人間的な部分をさらけ出しながら、触れ合いも大事にしていければと思っています。ディープな街を散策しながら、そこで暮らす人たちと触れ合ったり、エッ
その時その時、自分の中で関心のあること、時には直面している課題などを雑記ようなかたちで、ゆるーく書いていこうと思っています。もとより自分が人さまの役に立てるようなことを言えるようになるには、あと300年くらいはかかると自覚しておりますので、ふーん、そういうこと思っているんだくらいの感じで、どうぞお気軽にお読み下さればありがたいです。
色々な説が見つかりました。しかし現代の武道家で直接小笠原源信斎師に手ほどきを受けた人物はいないだろうと思います。あるYoutubeで紹介されていた内容は、「八寸(約24cm)の金属の短棒で、打刀に応じる技」という説明がなされておりました。内容としては、「後の先で、半身で躱(かわ)し撃つ。」以下は、“推測、推定”や個人の主観であると注意書きがなされたうえで、ネットに掲載されていたものです。①両手持ち⇒片手打ちに変化させる刀の使い方②延金は「短刀」のことで、短
日本の古い武道の達人が西洋の武器や防具の使い方を検証している。真っすぐの両刃の剣は盾を持つことには違和感を感じるだろう。しかし、日本も古墳時代ぐらいまでは中国の影響(いや、輸入品か?)なのか、両刃のまっすぐの剣と盾を使うスタイルだったらしい。草薙の剣(イメージ)(画像借用元)https://www.touken-world.jp/tips/32745/西洋の大型の両手剣(ロングソード)体格の関係なのか、日本の刀より
桂早之助の名前ですが、今井信郎の供述書(刑部省・兵部省)では「桂隼之助」と「隼」の漢字が使用されています。が、本人の由緒書を元にした『桂早之助略伝』(川田瑞穂)など、本人や親族が関わっている史料や心眼寺の墓などは、すべて「早之助」と表記されており、「早之助」が正しいと思われます。早之助は幼少より武芸を好み、剣術は所司代与力・大野応之助のもとで西岡是心流を学びました。一方、『龍馬暗殺の謎:諸説を徹底検証』(木村幸比古)では桂早之助は安政四年(1857)、十七歳のとき、京都所司代
先日、武術仲間たちからこの動画が廻ってきました。https://www.youtube.com/watch?v=7p_NUEn7F_g&list=LLD8GbAMD0XRbSYXCFOyCjvQ&index=4ハイチでのマチューテ武術の様子です。この動画は以前から知っていました。その時見た感想は、左手を使わないのがフェンシングっぽいなあ、という物でした。現代のオリンピック式のフェンシングは、フランスの物です。名前は英語なのですがフランス式で、用語もすべてフランス語であると