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3/7に最初の介護認定を受け、その後再申請をした結果が4/17に届いた。結果は、初回結果と変わらず。要介護4私達家族は、介護認定結果を要介護5だと予測していた。理由は、父は意識不明で認知能力、身体能力がないからだ。そこから、家族が理解できる理由を見つけたくて、インターネットで厚生労働省の資料を見ると、父の場合は、食事の介助時間はないので、そういった理由なのだと理解ができました。介護認定結果について、少しの説明文章や、説明を聞ける機会があるといいのにと感じました。これまでの人生にまった
兄の友人がよく面会にきてくれる。父も息子のように、よく飲みに誘っていた。病室に度々父に会いにきてくれるのが本当にありがたい。父に話しかける。というより、普通にいろんな話をしている。それが、父も楽しいのか、両目を開けている。本当に聞いているかのよう。それを目にしてはっとした、私は、父に、おはよう、おやすみ、大丈夫だよ、ずっといるよ、そろそろ苦しいね、痰吸引しようか、動かすよ、マッサージするよ、顔ふくね、髭剃るよ…。そんなことばかりだった…。私の話、してみよう。
一日数回、栄養を鼻からチューブで入れている。口がたまに動く。何かはいってきてるってわかるのかな…。ふと見ると、父が口からあわをふいていた…。その姿にショックをうけ、すぐにはっと、きっと呼吸苦しいよね、危ない。ちょっとびっくりしたが、キレイに拭き取ったら落ち着いた。栄養入れると、痰もでやすくなり、苦しそうになる…。まだ私には、元気な父が鮮明すぎて、日々こういう姿を見ていくってことが、受け入れられてない…。何もできないとは、寝ているだけの姿を想像していたけど、こういうことか、、父をみ
今年1月末に介護申請した結果、介護認定が3/7に届いた。父の意識不明で目も開かない状態から、家族が予測していなかった結果でした。介護認定には、特に理由もなく、認定結果だけなので、納得できる理由が見当たりませんでした。再度申請をすることにしました。病院にいると、まわりの患者の方にスーツを着た若い審査の方が話しかけているのを目にした。面談したソーシャルワーカーの方が案内していた。父のところにも、こうして、家族が誰もいない時に来たんだな。
母が認知症と診断されて…いつ母から呼び出されるか分からない(ガスが点かない、お湯が出ない…すぐに解決出来ないと業者さんを呼ぶか不穏になる)また、私自身の精神的負担の為、仕事に行けなくなりましたその後、母は認知症疾患医療センターに入院しています私は働いている時から、そんなに遊びに行くタイプではなかったけれど、母の病気が分かってからは、出掛ける事に特に罪悪感がありました母は病院から一歩も出られないのに、私だけ出掛けて良いの?働いてもいないのに、私は遊
今年1月20日、左右両方の脳出血で倒れ、緊急手術をした父。開頭手術をし、頭蓋骨はお腹の脂肪のなかに入れた。2月19日、お腹のなかに入れていた頭蓋骨を取り出し、頭に戻す手術をおこなった。もう1ヶ月もたつんだ。術前の頭は、べこっとへこんでいて違和感ある頭でした。もとに戻るんだ、嬉しい。術後、またも包帯ぐるぐる巻きの頭。そして、4-5日間は顔も腫れあがった。これまで健康で手術の経験がなかった父、この1ヶ月で、頭を2回、お腹も20㎝ほどを2回きり、気管切開、肺、と、大変な1ヶ月を送った。体力
痩せてきた…。2/5に一般病棟に移って以降、父を見れる時間が増えたことにより、痩せてきていること感じはじめていた。最初に顔、次に膝下が、細くなってきていたが、リハビリ病院にきて、とくに膝下の細さよくわかる。車椅子に座らせた父のふくらはぎを見て、細さが際立った。細くまっすぐになったふくらはぎ。あんなに、がっちりしてたのに…。がっかりした私に、リハビリスタッフの方が励ましてくれた。少し痩せてくれたから、移動させたりリハビリできますよ。
今年1月20日に脳出血で倒れ、2月5日、一般病棟に移った。父の意識は戻らない。目も開かない。人工呼吸器がついている。その状態でも一般病棟なのは不安に思うが、仕方ない。ICUやHCUには、日々、救命のために、次々と運びこまれてくる。
病院から袋に入った状態でわたされた。父が着ていた服と靴…。ビリっと切られた服を見て、大変だったね…。倒れたときを想像してしまう。助けは呼べなかったのか、呼んでほしかった。痛かったのか、苦しかったのか、意識がなくなるまで、どれくらいの時間を苦しんだのか。父は東京都で個人タクシーをしていた。倒れたのは車内。誰も乗せていなかった。車を駅付近の道路脇に停めていたそう。異変に気がついてくださったのは、バスの運転手の方。きっと数時間も同じ状態だったのだろう。最後のメーターは午前1時ぐら
リハビリ病院に転院し、父を見てすぐに、父の壊死した片耳に気がついた。大変でしたね。と会話の中で、このリハビリ病院での今後の生活のなかで、今後はこういうことはないのだと思った。かけられたお言葉に、とても安心した。
おはこんばんは。すっかり春めいて、ミネソタン(ミネソタ人)はワクワク気分で外に繰り出す今日この頃です。🌸いや、桜はもう今週末くらいかなミネソタは。さて、先日びっくりの展開で今まで父の認知症話から、一気に母の話題へ急展開でしたね。まさにこれっていつ自分が介護者になるかわからない。私の書いたことをお読みいただいた方が、勇気をもらえたり、後悔になったり、ただ言葉がない、って思ったり色々感じていただいたこともあるかも思うんです。私自身も読んでもらって同情してほしいとかでは
脳出血で倒れた父。目も開かず意識不明が続いている。それでも、顔を真っ赤にして苦しい顔をする時がある。苦しさで身体も動く。ピンコンピンコン、機械音も鳴る。最初はすごく驚いた。原因は痰がつまっているのだ。意識不明でも苦しいのか…。看護師の方が痰吸引してくださる。口からは人工呼吸器がつながれているので、鼻からチューブを入れ、吸引する。それが、すごく苦しいという。顔が真っ赤になり、身体全体で苦しさを伝えている。数分のことだが、見ていられない。そんなことが1時間おきにやってくる…。生き
今年1月13日(日)後から考えたら、倒れる1週間前のこと。その日は、母と観劇に行きました。観劇帰りの夕方、父と待ち合わせ、3人で食事へ。その時の会話は、観劇についてや、4日後が父の誕生日だったので、お祝いの話など、いつもどおり、笑顔で過ごした時間。誕生日をむかえることで、病気することなく健康でいられることに、父は亡き親への感謝の気持ちを語っていました。食事した東京の店を出ると、両親はバスで埼玉の家へ、私は電車で横浜の家へそれぞれ帰り、別れ際、父は私に、実家に泊まらないの?と泊まってほしそ
60代の父と母をもつ私40代の娘。同じ40代の兄がいます。兄弟二人とも家庭をもち、実家はでています。とても元気な家族で、笑顔に溢れていた日々が一転。今年1月父が脳出血で倒れました。背が高くて、恰幅のよい父、風邪で寝込んだことも記憶にないくらい健康で、まだまだ仕事もしていました。そんな父が…目まぐるしく過ぎてゆく日々と、追いつかない気持ちを書き留めておきたい。心のページです
一般病棟に移ってから2日後、医師から説明があった。最近撮った術後の脳の画像。腫れは落ち着いてきていたし、中心位置も戻ってきていた。意識不明のことについては、今後、目を開けてくれるかどうか…。倒れた日の説明では、片麻痺、失語などの可能性を話されていたし、家族も質問していた。ただし意識回復が目標だと。今回は、失語や片麻痺の言葉は誰からもでなかった。気管切開の話になる。私の気持ち、今の人工呼吸器がついた状態で目も開かない父。気管切開をして、この状態で生かされていくのはどうなのか…。医師に話
どういうわけか、父の年齢が、実年齢より10歳若い57歳と書かれていた。ベッドにも。父の手首バンドにも。気がついたのは、1月20日に倒れ、そのまま開頭手術となってから、確か2~3日後のことだ。どういう経緯かわからないが、他人から見たら、50代でも違和感がないのかもしれない。背が高くて恰幅がよく、シワもまだないし、白髪も目立たない父。開頭手術する際、本人にはかなりの負担がかかる。その判断のひとつに、患者の年齢もあるのではないだろうか…。もし、57歳ではなく、67歳と理解していたら、何か違っ
保険証など、父の荷物をいろいろ見る、探すことが、とても嫌だった。こんな日がくるなんて…。あらためて父が見えないところまで几帳面な人だと知った。すべてひとつのところにあった。保険証券などもすべてひとつのところにあった。私は何かととっておき、不用な書類も結構ためてしまうほうだ。だが、父は不用な書類がなく、見つけやすく、探しやすかった。すぐに、見習った。自分に何かあったら、ここにすべてあると夫に伝えた。もっているクレジットカードもすぐ解約できるよう、わかりやすくまとめた。保険、クレジットカ
何度か父が夢にでてきてくれた。意識回復して、これまでのこと、ゆっくり会話している夢。母がうるさくて困ってると、父が私に愚痴る夢。(母にこの夢の話を伝えると、微笑んだ。意識不明の父の耳元で話をすることが多いらしい。聞こえてるのね)兄の夢にもでてきたという。兄の夢には、声のみの出演。父から朝に電話がかかってきて、これから仕事か?仕事頑張れよ。って言ってくれた夢。父らしくて、涙がポロポロ。そろそろ声が聞きたい…。
今年1月20日に脳出血で倒れ、意識不明が続いている父。2月13日、気管切開手術をした。麻酔がきいているというが、見た目にはわからない。大きな管がとれ、父が少しでも楽になったと思うと嬉しい。今まで鼻からチューブを入れていた痰吸引は、気管切開したところから痰吸引する。それは、変わらず苦しいみたい。意識回復したときは、声がでなくてびっくりしちゃうよな。
意識不明の父はオムツをしている。意識不明でも便がでてる。便意を感じてるのだろうか。少なくても、りきむ力が必要のはず…。なんか、嬉しくなった。
今年1月20日に倒れてから約10日ほどで、ICUからHCUに移った。顔の腫れは落ち着いてきたが、父の意識はまだ戻らない。人工呼吸器もまだついている…。熱が出やすくて、からだのまわりにアイスを置いている。冷たそうだ。
父が今年67歳となった1月17日。後から考えたら、倒れる3日前のこと。私は父にメールを送りました。おめでとう。最後に送ったメールとなった。その後父からの返信メールはなく、父から最後に届いたメールは、1月13日待ち合わせした時、今バスに乗ったよ。でした。誕生日、メールですませず、会えばよかった…会っておめでとうって伝えたかった…会っていらたら、運命は変わっていたかもしれないと後悔が押し寄せる。
おはこんばんは。ミネソタの数少ない桜を含めた春爛漫も過ぎ、茶色だった景色も木々が芽吹き始め、だんだん新緑の春となりつつある今日この頃です。今年になってから、日本でも認知症家族の友人の経験や推薦などを聞いたりして参考にしたり、日本でもアルツハイマー初期の患者さんの治療薬が承認されたというニュースも読んでいました。そうするうちに私の中で母がアメリカで3ヶ月過ごし心が元気になるように、とりあえず疲れを癒すということにフォーカスしているけれど、この3ヶ月でもしかしたら早く精密検査して