ブログ記事100件
以前のgooブログの過去記事が何年分もいっぱいたまっているので、どんどんまとめて書きます。けっこう深い話になるのですが、祝詞、です。詳しいことは割愛。ここでは、『秋田物部文書』という本から参考に、興味深い点だけを拾って紹介します。※『物部文書』とは、1938年に一子相伝として代々受け継いできたのが唐松神社の宮司家である物部氏であり、出羽の地に移った物部氏の来歴ついて記録されているもの。----------------------------------------数年前
西暦248年以前の古代史豊玉姫が亡くなったのが西暦248年西暦200年頃の日本列島の人口は59万人くらいだそうです宇佐神宮宮司宇佐氏の伝承によると他の伝承や遺跡などとの互換性が薄いので個人的にはあまり当てにしていませんが一部抜粋します9000年前の早期縄文時代には山城国の稲荷山を根拠地としていた8500年前サルタ族がシベリアから来たえ~とサルタ族というのは出雲族のことですが出雲の伝承ではサルタ族は3500~4000年前に渡来したとしています
山科にある山階寺跡碑です。山階寺は、中臣鎌足の山科の邸宅・陶原館に、妻の鏡女王によって創建された寺。山科盆地には中臣遺跡があり、古代豪族・中臣氏の所領でした。中臣氏から出た中臣鎌足は、乙巳の変で中大兄皇子とともに蘇我宗家を滅ぼします。鎌足は山科(山階)に陶原館という別邸を所持、中大兄皇子(後の天智天皇)が近江大津宮に遷都すると陶原館に住みます。天智天皇8年(669年)、鎌足が病を得て床に就くと、天智天皇は陶原館を訪問して鎌足を見舞い、大職冠と藤原姓を与えました。「興福寺縁起」によれ