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被害状況が分かるにつれ、ますます不安になったけど、G君は絶対に生きている!いつか会える!と信じて今を乗り切ろうと思った。避難所での生活は、朝に飲料水を確保する為に並ぶ事から始まった。寒いし、給水車がいつ来るか分からないし、元旦那と交代制で並んだ。息子は、同じ保育園の友達や、小学生と仲良くなり、校庭を走り回っていた。給水車待ちで並んでいる間、私の前に横入りしてきた60代くらいの女性に対して、気が小さい私は何も言えなくて、他の方が注意してくれたり、アンタも言わないとダメだよ
元旦那も、非正規だけど、仕事が決まった。一緒に暮らしているけど、この関係はなんなのか?と思ったり、安心感があったり、よく分からなかった。しばらく様子を見ようと思った。でも、児童扶養手当てを申請していたので、曖昧ではいけないと思った。元旦那は、やり直したいと言っていたので、私次第だった。もし復縁をするなら、この日までと日付を決めようと話し、日付を設定した。とりあえず役場に事情を説明し、児童扶養手当を停止してもらうよう伝えると、担当してくれた方が、きちんと伝えて
お久しぶりです。やっと更新出来ました!そろそろ、終わりが見えてきたかな。こんなダラダラ自己満ブログを読んで頂いている方が一人でもいらっしゃったら、本当に本当にありがとうございます。いつも、しつこいくらいの長文駄文で申し訳ございません。もっとスッキリ出来ないのか!と自分にツッコミを入れながら、性格がしつこいから治らないかな~と開き直ってしまいました(*≧m≦*)さて、今年も折り返し地点が過ぎ、前半に色々とありました。父親が亡くなった事は、前回書いたのですが
いつ入籍しようかと話しながら、元旦那は、とても喜んでいた。私は親や兄弟に、この曖昧な関係を伝えており、兄弟からは、もし復縁となったら反対の意見もあったけど、母親は反対しなかった。母親は、責任もついて回るけど、自分の人生だから、自分で決めていきなさい。ティナが決めた事に反対はしないよ、応援する。と言ってくれていた。20歳離れた元彼との結婚は、やんわりと反対していたけど、まぁそれはさすがにね・・再婚の挨拶に実家へ行った。元旦那と母親は、曖昧な関係の時から会ってい
2011年3月11日、大体16時くらいだったと思う。教室で、職業訓練の先生達と、まとまって、座っていた。その間に、家族に居場所を伝えた。炊き出しが行われたようで、白米にふりかけが入ったパックが配られた。食欲がなかったけど、この先、何が起こるか分からないから、食べておこうと思った。この時は、ご飯が食べられる事に、感謝の気持ちいっぱいで食べた。食べている途中、元旦那から電話。「やっと繋がった!大丈夫か?ティナ達、今どこに居る?」「私は、〇〇避難所、息子
これから、どうしよう…電気、ガス、水道、ライフラインは全てダメだった。保育園の先生が、避難所にはまだスペースがあるから、ライフラインが整うまでの間だけでも、避難所にいた方が安全だよと助言してくれた。確かに、家に戻っても、不安だった為、しばらく避難所生活をする事にした。私達が居る避難所は、自家発電器を提供してくれた方、携帯充電器を提供してくれた方のおかげで、携帯の充電や、暖房、テレビ等、利用する事が出来ていた。充電を済ませ、携帯の電源を入れる。G君からのメールは
今日は東日本大震災から3年。3年前…私は資格を取る為に、地元の学校で勉強をしている時だった。就活支援で来てくれた、キャリアコンサルタントの先生の話に飽きて、今日のご飯は何にしようかな~?息子を保育園に迎えに行って買い物しながら考えよう!なんて上の空でいた時に、揺れが来た。立っていられなかったし、パニックだった。揺れが止まって、どうしようか…すぐに息子を迎えに行かなければ!!と思った矢先に、聞いた事がない無線がなった。防災無線だ。よく聞こえないけど、防災無線の後には人が『…メートルの津
夜になり、寒さが一層増してきて、支給された毛布1枚では、寒さによる震えを止める事が出来なかった。とにかく、寒さとの闘いだったように思う。※この時は、自分達の周りの状況しか分からず、後に、あの寒い夜を、着の身着のまま外で過ごした方も居る事を知り、とても辛かっただろうし、毛布を支給され、屋内で過ごす事が出来たのに、寒い寒いと言っていた自分が情けなく思いました。時計も止まっており、時間が何時なのかも分からず、自分の予測だと19時~20時くらいだったと思う、私達の教室に居る誰かが、ラジ