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〈Dー1肝臓の提供条件〉夫に、振戦という、危険なサインが出たこともあり、急きょ、面会の予約が取れました。もはや、座っていることもできなくなった夫を、タクシーの後部座席に、横たわらせ、都内の大学病院へと、向かいました。二時間後に到着した時、目に入った、正面玄関横の、大きな桜の木は、今まさに、花開こうとしていました。初めて出会った、移植責任者で40代後半のS医師は、ストレッチャーに横たわっている夫と私に向かって、肝移植の説明を、始めました。「ご主
それとは異なり、日本で絶えず話題になる、若者の就職先ランキングでは、『経済面での待遇の良さ』や『福利厚生』といった、要は、『給料が高くて手厚い生活支援のある』就職先が、人気のマトです。確かに、お金が無ければ、生活は苦しく、心も荒んでしまいがちです。それゆえに、我々は疑問も持たずに、『効率良く仕事をして給料やボーナスを少しでも多く貰えるようになる』ことが、幸せへの原動力になるのだと、信じ、立ち止まって考えることもなく、その価値観を、受け入れ続けてきたのかもしれま
〈Eー1不退転の覚悟〉春分の日の夕方、一本の電話が、入りました。移植手術主任の、S医師からでした。「実は今日は、先日のエコー検査で分かったことを、お話しするために、お電話しました」「奥さんの肝臓そのものには、何の異常も無いのですが、肝臓から出ている大きな管、胆管と門脈が、奥さんの場合、一本ではなく、二本に分かれているのです」「体には、何の不都合もありませんが、それを移植するとなると、話は別です。大部分の方の胆管と門脈は、一本ですから、一本の
諦めきれずに、駅の時刻表をずっと見ていても、あるはずだった時刻の、列車運行は無く、次の列車は、2時間待ち…代替手段の、バスやSL列車もありません。年末年始ダイヤで、消されてしまったのか、直近のダイヤ改正で、運行列車が減らされたのか、はたまた、私のチェックミスなのか…「あ~あ、ショック、ショック」と言いながらも、どうすることも出来ません。~飲食店もなさそうだし、あっても、お正月だし、どこか参拝するところはないかな?~と、駅舎の横にある、『家山案内図』
〈Dー4肝臓の提供条件〉翌日、長女が「話がある」と、思い詰めた顔で言うので、「何?お父さんのこと」と、訊くと、「私が、ドナーになる」と、言います。「でも、妹がドナーになるって、言ってくれているよ」と、返すと、「ううん、私がなる。私がお姉ちゃんなんだから」と、言うのです。手の中のハンカチを、ギュッと握りしめて、下を向いて…。長女は、大変な怖がりで、全てに対して、慎重な道を選択する娘でしたから、崖から飛び降りるような、決断だったと思います。長
その日、夫は、意外なほどルンルン状態で、近所の内科医院から戻ってきました。夫と、初対面のヤブ医者との会話と言えば…「肝臓が硬いようなのですが」と、夫が自己申告しても、「そんなに硬くはないよ」「白目が少し黄色っぽいようなのですが」と、これまた自己申告しても、「そうかな、フツーだよ」との返答。そして、持ち帰った薬が、ウルソ錠という、胆汁の分泌を良くして、肝臓の働きを高めるという、基礎的でポピュラーな肝臓薬。このベーシックな薬を、毎食後、たった一錠ず
〈Aー3はじめに〉早いもので、夫が55歳の時に、「肝硬変非代償期」と診断され、入院してから、6年が過ぎました。その後、肝硬変の恐ろしさと闘いながら、ぎりぎりのタイミングで、生体肝移植に漕ぎつけ、15時間半に及ぶ手術が、成功しました。けれども、肝移植の成功を喜んだのも束の間、夫は、病院内での細菌感染から、敗血症を起こし、再び「生死五分五分」の、危険な状況下に、戻ってしまいました。急激な腎機能低下(急性腎不全)により、人工透析が必要となり、シャ
痛みに関しては、「痛くなったら、痛み止め用のボタンを、押してください。」と、言われていたのですが、予想していた痛さではなく、耐えられる範囲だった記憶があります。勿論、「イタッ!」と、強烈に感じる時には、ボタンを押していたのですが、「あまり使われていないようなので、取り外しましょうか。」と、かなり早い時期に、背中の麻酔薬装置は、なくなりました。自分で取り外しの出来る、酸素吸入チューブも、鼻に差し込んでいたのですが、そのチューブの臭さが嫌で、回診医に、「はずしてもいいか」と
このように、全身の皮膚に出現した赤紫の斑点や、お腹周りの膨張、そして、食欲不振の常態化、ゴロリと横たわる回数の増加、など、今にして思えば、元凶はすべて、肝臓の極度の機能低下によるものだったのですが、それに気付かないまま、漠然とした不安を抱えながらも、それを打ち消すように、我慢強い夫は、仕事に没頭していましたから、私はそんな夫を見て、危機感を募らせることは、ありませんでした。(本当は、かなりしんどかったのだと、夫は後述していましたが…)そんな膠着状態が一変し
大地震後、初めて、断水が解消した家庭の映像で、特に印象に残っているのは、おばあさんが、水道の蛇口に向かって、手を合わせて、お礼を言っていた姿です。…もともと、信心深い方なのでしょうが、水の有り難さ、それも、蛇口をひねればいつでも水が出てくる有難さが、身に染みた末の、「水道の蛇口への礼拝」だったのでしょう。蛇口に向かって手を合わせる、おばあさんの謙虚な姿を見て、ハッと気付かされることが、ありました。~失ってみて初めてその有り難さが分かる~その最たるものが
〈Fー5最後の賭け〉「奥さんの肝臓の、主要な管である、胆管と門脈が、二つとも、二本に分かれているので、二本を一本にして移植する、それを、2カ所で行う必要があります」「人体の臓器は、取り出した瞬間から、劣化していきます。もちろん、冷却しながら進めますが、時間の勝負となります」「普通より、長時間の手術となり、当然、成功率も下がります。と言っても、50%以下なら、移植はしません。私たちの移植成功率は、80%ですが、今回は、それより下がります」「現在
〈Bー5初めての入院〉当時、16歳で、県外の寮で生活していた、息子の言葉は、利尿剤が効いて、お腹が、ペッタンコになった夫を、見ていた私たちには、「なんとまあ、大げさな」と、感じる内容でした。ですが、病状を一番、的確に把握し、非代償性肝硬変に、至ってしまった、父親の病状は、不可逆的で、起死回生の一手は、生体肝移植しかない、と、分析できていた息子が、一番冷静な、家族だったようです。夫の初めての入院は、10日間で退院、という結果になり、また、元の
〈Aー4はじめに〉それでも、退院後は、日々の外出歩行訓練で、体力をつけ、肝移植から、1年4カ月後、今度は、生体腎移植を受け、人工透析からの離脱を果たしました。その生体腎移植から一年後、夫の社会復帰が、可能になり、再就職活動を開始。58歳という年齢でしたが、それまでのキャリアが評価され、フルタイムで、勤務することになりました。新たな仕事人生がスタートしてから、三年が過ぎた現在、元気に出勤する夫のスーツ姿を見て、「一級の身体障害者手帳」所持者だと、気
〈Aー1はじめに〉「ダブル移植の語り部」、このタイトルを見て、「どういうこと?」と思われる方が、ほとんどでしょう。「ダブル移植」には、二重の意味があります。一つは、臓器移植を受ける、レシピエントと呼ばれる人が、異なる二つの臓器の移植を、受けているということ。もう一つは、臓器の提供者、ドナーが、異なる二つの臓器を、提供しているということです。実は、私たち夫婦は、ダブル移植のレシピエントとドナーです。夫は、肝臓と腎臓の生体移植、二つの臓器の移植
〈Fー8最後の賭け〉そもそも、「脳死肝移植は、宝くじに当たるようなもの」という現実と、「あと何か月かで亡くなる」という現実を、はっきりと口にした、当の医師が、「最低でも、50%以上成功する手術しかしません」と、明言しつつ、「移植の可能性が、0,0001%の脳死登録をして、待ちましょう」という、矛盾に満ちた提言を、しているのです。3・「35%ルール」を、私は当初、絶対視していました。けれども、確か移植医は、「33%あれば、大丈夫なんですが…」と、言
2024年(令和6年)3月現在から、遡ること10年…2014年(平成26年)3月に、夫の身体は、とうとう、抜き差しならない重篤症状を、発するようになりました。思い返せば、ここまで悪化するずいぶん前から、おかしな変化が、色々と顕在化していたのに、それが『肝硬変』、それも『非代償期』という、もはや後戻りできない、重度の肝機能衰退によって生じる変化だなんて思い至らずに、夫はいたずらに時を費やし、肝硬変の終末期へと、突入することになってしまいました。…最初に
〈Bー6初めての入院〉ペッタンコになったお腹が、再び、ふくれるようになったのは、退院してから、二週間後。「また、お腹が出てきた」という夫の言葉は、ショックでした。口にするものは、チョコレートやジュースくらいで、エネルギー的にも、立ち上がれるわけがありません。それでも、ふらふらと起き上がって、車を運転して、会社に行き、必要最低限の仕事や指示をして、自宅に戻り、ひたすら横になるという生活を、約一か月、続けました。何度も、「病院に行こう」と、
(昨日の続き…)(3)移植した肝臓は、その後、敗血症を乗り越え、機能するようになったものの、敗血症によって、突然、急性腎不全になった夫の、2つの腎臓は、その後回復することはなく、腎機能がダメになってしまった夫は、人工透析生活を、余儀なくされるようになりました。↓(4)「夫を何とか人工透析生活から離脱させてあげたい」という、私の思いや学びや行動が、実を結び、肝臓に続いて、2度目の臓器移植手術である、「生体腎移植手術」を、受けることが出来ました。
ICUを出て一般病棟に移った翌日の昼、吐き気はまだ続いていて、移動する時、(吐いてもいいように)ビニール袋を持って、車椅子に乗せてもらった記憶があります。夫ほどではありませんが、私の体にも、様々な管が付けられていました。ドナーの管状況・心電図モニタ・鼻から挿入する酸素吸入用チューブ・点滴用チューブ・血圧測定用チューブ・尿管カテーテル・腹腔ドレーンチューブ・痛み止め注入用のチューブ「手術後は、じっとしているより、動いた方が、治りが早い」というコンセン
辛かったのが、一般病棟に移るまで、「水」を、一滴も、口にできなかった事です。唇がカサカサに乾いて、ヒビ割れ寸前…吐き気がおさまってきた頃、看護師さんに、「お水を飲んでもいいか」と聞くと、「OK」が出ました。吸い口に、冷たいお水を入れて、持って来てくれたのですが、…この時の冷水の美味しかったこと!!命の水、だと思いました。「水」に感動する自分に、驚きました。ドナーになって、たくさんの事を学びましたが、その一つが、「水」の有難さ、です。その日、私の病室に、移植主治医
〈Bー4初めての入院〉▼次男から、入院中の夫に届いたメッセージ病状を聞いたよ。重度の肝硬変らしいね。父は、仕事とも病気とも、青二才の自分には理解できないほど、つらい目に遭いながら、奮闘しているのに、苦労もしないで、タダ飯を食っている自分が、情けない…病状が、厳しくなったならば、いつでも自分が、肝移植のドナーになるからね。父には、長生きして欲しいし、おいしいものも、もっと食べて欲しいから、肝移植は、そのうち絶対に受けてもらうよ。早死
実は、沈黙の臓器が、悲鳴を上げているのに、夫が精密検査を受けずに、仕事を続行していたのには、それなりの理由がありました。ひと言で言うなら、「とんでもないヤブ医者」の、診察を受けて、安心していたからでした。夫のゴロンゴロンが常態化すると、さすがに私も心配になり、「一度、診てもらって欲しい!」と、何度も繰り返し、病院行きを勧めるのですが、「そんな時間はない」とかなんとか云って、夫は頑として、医療機関に行こうとしません。そこで、一計を案じ、「家の前の公
〈Iー1入院生活雑記〉ドナーの術後の食事が、再開し、何日間か空っぽ状態の消化器には、まず、流動食が、提供されました。古びたプラスチックのコップに、4つ、液体が入っているのですが、どれも、ほとんど、飲むことができません。この状態が、三食続き、「この流動食、いつまで続くのだろう」と、さすがに泣きたくなる思いでした。ため息ばかりの昼下がり、昼寝から目覚めると、テーブルの上に、何か置いてあります。「よく寝ているので、帰りますね」という、長男のメモと、差
〈Dー5肝臓の提供条件〉その日、私は次女と、雑踏の中にいました。その時、大学病院から、電話が入りました。「初日の検査は通りました。それで、精密検査をしたいので、明日、病院に来ていただけますか」というやりとりで、電話を切った途端、涙が、どっとあふれてきて、人目もはばからず、号泣してしまいました。「良かった。みんなに迷惑を掛けずに済んだ。私が、ドナーになれれば、それで解決する。子どもを巻き込まずに済んだ」一番恐れていた、35%ルールを、通過し
〈Hー2生体肝移植実施〉平成26年、4月28日。私は、朝から、浣腸の液剤を入れられました。絶食に加え、徹底的に、体内を空っぽにする作戦。そこへ、娘たちが到着しました。まず、私のベッドに来て、エールを送ってくれました。二人は、「父を手術室まで見送りたい」と言うので、「絶対に、生きてまた会おうね」との、夫への伝言を、頼みました。車椅子に乗って、手術室に到着。ストレッチャーに乗せられた私に、手術専門の看護師さんが、「横向きになってください。ちょっと
手術室到着手術着を着た手術専門の看護師さんが、2,3人いて、にこやかに挨拶して下さいました。ストレッチャーに乗せられた私に、「横向きになって下さい」「ちょっと冷たいので、ごめんなさいね。」と、優しく言って、背中に麻酔を打ったようです。…そこから、記憶が途絶えています。…「終わりましたよ。起きてください。」と、声を掛けられたのが、新たな記憶の再開。手術する当の本人にとって、手術の間の事など、すべて空白。…麻酔の威力は、強力です。思わず、「今、何時ですか?」と、訊ねま
〈Bー7初めての入院〉一回目の入院から、二か月後、今度は、もっとひどい状態での、入院となりました。前回の入院時に、処方された利尿剤は、もう、効き目がなくなり、大きく膨張したお腹への、次の策として、アルブミン投与という、治療が行われました。けれども、腹水は、前回のようには抜けず、大きなお腹のまま、二回目の退院となりました。腹水が、溜まるので、足は、くぼみがなくなり、まるで、ゾウのよう。お腹は、カエルのよう。外見から、それと分かるほど、夫
〈Bー2初めての入院〉全身に赤いボツボツが出現して以降、夫は暇さえあれば、ゴロゴロと横になるようになりました。昼食の休憩時間には、会社から自宅に戻り、昼食もろくに食べずに、ひたすらゴロンと横になり、また仕事に戻る、という日々。そんな状態でも、夫は頑なに、精密検査を拒み続けました。「悪いと分かっているから、病状告知が怖い」「入院、治療となれば、会社が立ち行かなくなる」という心理が、病院行きを妨げていました。黄疸とともに、夫のお腹が少しずつ、
〈Gー1肝移植手術に向けて〉暦は、四月に入り、大学病院前の桜は、早くも、葉桜になり始めていました。父親が使用していた、パソコンのデータを、次男が整理していたら、おびただしい量の売り上げデータが、次々と、画面に出て来ます。「これが、我が父が、命を懸けてやっていた仕事か」と、つぶやく息子。もう二度と、このパソコンの前に、座ることはないかも。…そう思うと、ただただ、切なくなりました。洋服ダンスを開くと、スーツとワイシャツが、主(あるじ)不在の
〈Fー1最後の賭け〉いよいよ、追い詰められた私は、主治医がいる消化器外科に、電話をして、「もう一度、面談をお願いしたい」と、申し出ました。決定権があると思われる、S医師との三回目の面談で、S医師は、「どのようなお話でしょうか」と、私に、話を促しました。「息子は、未成年なのですが、当初から『ドナーになる』と、言っています。息子に、ドナー検査を、していただけませんか?」「20歳未満は駄目です。息子さんは、おいくつですか。17歳では駄目です。認めら