ブログ記事3,293件
2023.10.31(火)夫入院3288日目またこの日がやって来ました夫が倒れた日です『夫の入院丸8年経ちました(追記あり)』2022.10.31(月)夫入院2922日目丸8年経ちました今日はハロウィン🎃だから嫌いです毎年同じ思いですいや、変わってきてるかな初めの頃は、もう心が不安で…ameblo.jp9年が過ぎましたもう、だんだんと遠い過去のようになって来ているのがちょっと悲しいですが気持ちとしては慣らされてきて楽になっていますあの日意識が無い夫を私と娘で心マをして
今朝、連絡を入れた会社の硬式野球部の先輩。「あれからすぐに社内に一斉メール入れといたから、ジン(パパ)の高校、大学の野球部関係にも伝わると思うよ」ありがたい。誰に連絡すればいいのやら、困っていたので。翌日、パパの会社の部下から電話。「昨日から会社の電話が鳴りっぱなしで!何が起こったんだ?!という状態なんです。改めて、すごい方だったんだと思いました。皆さん、本当なのか、と。通夜、告別式は、と。家族葬のことはお伝えしましたが、会いに行きたいと言われる方も多くて」と。ありがたい。18日
事務処理的な事は一段落したと思っていたら9:00ぴったりに年金事務所からの電話とらちゃんが若い頃に勤務していた2つの会社について「整合性を取りたいのですが間違いはないですか?」と。年金記録に載っているのだから間違いないはずと『マイナンバーカードを取得した時に記録を取得して本人に確認したから間違いはないと思います』と答えると「会社名はわかりますか?」いやいや年金記録に記載されているよね?何か試されているのか?『今、ここで企業名はわからないけれど
いつもと同じ朝。5時。パパのケータイの目覚ましで起きる。パパはふうたん(シーズー♂10歳)の散歩。私は身支度をして朝ごはんの用意。散歩から帰って来たパパはシャワーを浴びて、長男と三人で朝ごはん。食後にパパとベランダのベンチに並んで一服。私「今日は歓迎会だっけ?」パパは10月1日に部署が変わって、今日は2回目の歓迎会。パパ「うん、チカラ(長男)のYシャツ借りちゃった」あ~、ちゃっかり長男の新しいYシャツ着てる!私「それMでしょ。パパ、Lじゃん」パパ「え?おかしい?キツそう
パパのお迎えは私と次男と次男の嫁ちゃんと義姉で行くことになった。やっとパパが帰って来れる。監察医務院で再会したパパは柩の中だった。しかも、顔の見える窓にはフィルムみたいなのが貼ってあって。パパに触れない。悪夢はまだ覚めないか。家までの道中は監察医務院のクルマで、パパの柩の隣に乗った。手も握ってあげられない、顔も見れない、抱きしめてあげられない、でも、ずっとパパの隣に寄り添って、夢から覚めるのをただ待っていた。
11月28日、今日は四十九日と納骨でした。お寺に行く前に、パパが高校、大学と7年間、白球を追いかけたグランドへ寄って来ました。ここで高3の夏の甲子園への切符を手にし、ここで大学1年生から神宮球場での活躍を手に入れたパパ。頑張ったんだよね。青春だったね。私が付き合い始めたのはパパが大学3年生の夏だったけど、パパの存在を知ったのは、テレビで見た甲子園の中継だったからね。グランドに「ありがとうございました!」これからも、陰ながら後輩君たちを応援します。四十九日と納骨の話はまた順を追って書
パパを連れて帰れず、私たちは家に戻った。お昼には義母と義姉が来てくれた。たくさんのおにぎりを持って。そう言えば、子供たちに朝ご飯、食べさせたっけ?もうお昼なのに。頭が回っていない。葬儀社が打ち合わせに来た。「喪主はどなたが?」喪主?以前、パパにははっきり言っておいた。もし、パパがママより先に死んじゃったら、ママは喪主とか絶対ムリだから。ママはパパと一緒にお棺に入るからね!パパは承知している。「ママはムリ!」すかさず長男も「俺も無理だよ!」長男はいつも縁の下の力持ち。それも
パパはまだ家に帰れなかった。このまま大塚にある監察医務院という所に行くらしい。解剖が終わるのは14時頃なので、その頃、来てほしいとのこと。監察医務院に出発するパパに少しだけ会えるというので駐車場まで行った。ストレッチャーに寝ているパパは昨日と同じ寝顔のまま。パパ、まだ起きないの?パパの頬は冷たかった。悪夢が続く。
4月2日の朝。『かぼちゃん、今日からの仕事は断って家にいて。文太、かぼちゃんをちゃんと守って』とらちゃんは突然に玄関で言いました。私は何故だか涙が溢れていました。いつもの様にぎゅっとしてとらちゃんは普通に出勤したのです。とらちゃんの言うことを聞いて文太とテレビを見ていたら『動けない。救急車でどこかに運ばれる。準備しておいて』そんな振り絞る様な声の電話が。それがとらちゃんの声を聞けた最後でした。10時8分。救急車の中で10分ほど心臓が止まったそうで
いつもと同じ昼。昼休み、パパからのライン。「愛してるよ~💕早くゴルフ行きたいね😁」私からの返信。「私も愛してる💓♥️❤️2バッグでのんびり回ろう😊早く帰って来てねハート♥️」いつもと同じ昼。
仲良しの友達からの連絡はみんな最初に同じことを聞く。「寝れてる?」「昨日は何時間寝れた?」「食べれてる?」「今日は何食べた?」子供を一人前に育て上げたママたちは、ちゃんと心得ている。「大丈夫?」みたいな曖昧な問いでは現状把握が出来ないことを。心の状態なんて、気持ちを聞いたところで正確に伝わるものではない。特にダメージが大きい時、誰も傷口を開いて見せたりはしない。眠れているか、食べれているか、それが一番のバロメーターになる。「寝てるよ」パパと次男の真ん中で、次男のイビキを聞
パパが監察医務院から帰って来た10月12日(火)の夕方から告別式前日の17日(日)の夜まで、たくさんの方々が代わる代わるパパに会いに来てくださった。パパのケータイ電話も何度も鳴った。私が出ると、あ~、、、と、ため息が聞こえる。「情報が錯綜してて、同姓同名なんじゃないか、と。」「なんで、、、」「会いに行っていい?」近県はもちろん、大阪から福島から仙台から静岡から、飛行機で、新幹線で、何時間もクルマ飛ばして、パパと会うために。仕事関係の方々、上司、同僚、部下、取引先の方々、グループ会
「もう少ししたら帰る」の電話から18時間15分。やっとパパが帰って来た。でも、玄関からは入れなかったね。ルーフバルコニーからリビングの隣のゴルフ部屋へ。オープンクローゼットにはパパと私と長男のゴルフウエアと帽子やボールや小物類。アイアンも何本か。ミニゴルフショップみたいにして。パパのお気に入りの部屋。ときどき、アイアンで素振りし始めるから「やめて~!」と怒ってた。今日は怒らないからさ、起きて素振りしていいよ。「すみません、こちらのクローゼットの扉、閉めさせていただいてもよろしい
告別式(パパの宗派では、誰でも極楽浄土で再会できるので「別れ」ではないから「葬儀式」というらしい)までの6日間。毎朝のルーティン(ふうたんの散歩、朝ご飯の準備、掃除、洗濯)を続けることで、寝込むことも泣き続けることもなかった。昼間は合計200人を超える弔問の方々のお相手、夜は100通を超えた弔電をすべてパパの枕元で読んで聞かせた。御香典やお供物と一緒に送られて来たお手紙もすべてパパの柩を撫でながら声を出して読んだ。時々、本当に1日に数回、涙が洪水のように溢れ出た。不思議と号泣すると、数分
化粧なんて、とっくに落としてる。化粧なんて、してるヒマない。パパに怒られるかな。近場の買い物も、「すっぴんでいい?」って聞くと、ちょっと残念そうにするから。大して変わらないのに。でもごめん、パパ。今は、化粧なんて、してるヒマないから!長男と家を飛び出す。通りに出るまでダッシュ。と言っても、私、もう58歳。全力疾走、無理。33歳の長男、速い。置いて行かれる。走りながら長男、「タカラ(次男)に連絡する?ばあば(実母)にも?」お願い!ママは、ママは大ママ(義母)に知らせなきゃ!
飲み会の時の、いつもと、違う夜。20時50分にまだ◯◯駅のトイレにいるなら、家に着くのは10時ぐらいか~朝5時が起床時間の私たちはいつも夜9時半にはベッドに入る。たまにパパの残業で遅くなることはあるけど。酔っぱらいのパパはイビキが凄まじいので、今夜は10時半にベッドに入れたとしても、寝れないだろう月曜日から寝不足は、今週キツイな~ケータイでゲームをやりながらリビングのソファーでパパの帰りを待つ。時計を見る。9時50分。もう少し。時計を見る。10時5分。そろそろ。時計を見る。10時10
パパの写真はケータイの中にたくさん入ってる。各自、自分のケータイでパパの写真を探し始めた。私もケータイのアルバムを開いた。そして、ヤバイ‼️と思った。日曜日の長距離散歩、ファミリー旅行(嫁ちゃんも一緒です)、ファミリーゴルフ(嫁ちゃんも一緒です)、いつもパパが私のケータイ使って自撮りしてくれてた。で、いつもパパ、半分ぐらいしか映ってないか、撮るのに必死で「これで撮れてるのか??」っていう悩ましい顔ばっかりだった。あとは私との距離が近すぎて顔が被ってる、、、。嫁ちゃんが「あ!パパちゃん
とりあえず、パパが家に帰って来て、パパがそばにいて、私は少しホッとしていた。昨夜はパパがいなかった。今夜は一緒に眠れる。明日も明後日も、パパはいる。そばにいてくれる。目は開かないけど、返事もしてくれないけど、私たちの声は聞こえてる。パパがいて、ママがいて、子供たちがいる、パパの作った✕✕✕✕ファミリー。今日は大ママ(義母)もタマミ姉さん(義姉)も、ばあば(実母)もチャンチャン(実弟)もいるね。なんだかお正月みたいだね。たぶん全員が、まだ夢の中にいるよ。
そんなこと、考えられる状況ではなかった。家族全員。それなのに。「何入れる?」誰かが言った。「何入れようか」誰かが言った。現実を直視するのが恐い、哀しみの沼に沈むのが恐い、誰かを支える自信さえない私たちは、核心には程遠い、浅い意識の中で、みんなと同じ課題に取り組む。パパの柩に何入れようか。ママが入りたい。息子たちには聞かせちゃダメな、ママの本音。「ゴルフウエアだね」「バイザーとゴルフシューズ」「カートバッグもいるんじゃね?」みんなでパパがゴルフへ行く準備。あー、でも
パパがまだ◯◯警察署から帰って来れなかった10月12日の朝も、私はふうたん(シーズー♂10歳)を朝5時に散歩に連れて行っていた。それがパパの日課だったから。本来、その時間、私は化粧して着替えて、パパとふうたんが戻って来る頃に朝ご飯の準備を始めていた。7時にパパと長男が出勤したあと、私の出勤時間の7時30分までに掃除と洗濯を済ませる。それが毎朝の私のルーティン。パパが柩に入った姿で家に帰って来て、告別式までの6日間、毎日、たくさんの方々が来てくださり、結婚して別で暮らしている次男も、身重
雨が降ります。予報ではかなりひどい雨になるとのこと。何事もない事を祈ります。お天気のせいもあり目覚めてからメソメソしてしまい動き出すのも億劫で。Amazonプライムで映画を1本観ました。生まれ変わりをテーマとしたお話でした。胸に響くお話でした。映画を見終わった後から左の二の腕あたりに何かがフワっとさわる感覚が数回。ひょっとしてとらちゃん?一緒に映画を見ていて何かを感じたのでしょうか?
葬儀社の人の話では、パパの家の宗派は、「亡くなったらすぐに仏様になる」という教えで、四十九日かけて極楽浄土への旅をするとか、途中で天国行きか地獄行きかの面接があるとか、そーいうものはないそうで。三途の川を渡るためのお金を持たせたり、旅装束をさせる必要もなし。すでに仏様になっているので、ご飯や食べ物を供える必要もなし。なんだか、なぁ、、、。パパ、もう仏様なの?にわかに受け入れることは難しかった。
今日は四十九日の法要です。2・3日前から心が揺れてしまい落ち着きませんでした。何をしてもとらちゃんに繋がり泣く事が増えました。今日まで1度も夢に出て来る事はありませんでした。いつもそばに居るような気がするのですが。ずっと雨の予報でしたが晴れるようです。2人で電車やバスに乗るのは初めてだね。いつもとらちゃんの車だった。とらちゃんの子供たちも来てくれるそうです。お孫ちゃんも来るみたいだよ。きっと賑やかなことでしょう。とらちゃんは苦笑いで「おい!おい!」と
昨日の夜母と弟に連絡したらいつもの如くで不安定になり気分最悪。誰かに助けて欲しくて私の息子①にLINEをしてみる。いつも素っ気ないので『ひょっとしたら私からのLINE迷惑に思ってる?』と傷つかないための予防線の一言目唐突な私のLINEに『どうしたの?』と。『たった1人の母親だしそんな事は思わない。気の利いた事は言えないけれど話す事で整理できる事もあるだろうから』と。なんだか。ホッとした。母と弟のこと話を聞いてもらえただけでも良かった。🌀🌀🌀🌀🌀今
とらちゃんが亡くなって最初の頃眠れず辛く泣いてばかりで話す相手もおらずいのちの電話をかけていたあの頃眠れないのと辛いのを誤魔化すためお酒の量も増えていた。それでも夜中に目が覚めてしまう。とらちゃんがお医者様から貰っていた眠剤がたくさん余っていてそれを飲んでしまおうかと考えた事もある。あの時もしもあのお薬を飲んでいたら今の私はここにいなかったかもしれない。何か大変な事になっていたかもしれない。たまたま思いとどまることができたわけではない。ここでブログに思い
私の職場6月から出退勤の打刻が顔認証システムに変わる。以前の職場はタイムカード式慣れ親しんだカードを差し込んでガッチャン(とは言わない?)と打刻今の職場はレジと連動(正確にはシステム管理会社とも連動)してるモニターに自分の打刻番号をタップして出退勤をタップする。このやり方にやっと慣れて来たのに今度は顔認証システムかい?!最近トロくなったワタシにはまたまた気が抜けない日々になるんでしよーね⤵顔認証と言えばマイナカードワタシの場合行きつけのクリニック2件と薬局1
私には友達がいない。幼稚園。小学校。中学校。高校。その時々に仲の良い人はいたけれど本当にその時々だけであってその先に続いてはいない。仕事をしてもそこで仲良くなる人はいてもプライベートでお付き合いのあった人はいない。私は人に心を開くことができない。いつも人の目を気にしている。子どもの天真爛漫さとか愛されている事の自信もなく大人になった気がする。私には友達がいない。苦しい時に辛い時に話せる相手がいない。寂しい時に一緒に過ごす相手がいない。とら
無事に四十九日を終えました。お坊様の言葉『大切な人が亡くなってぽっかりとできた穴を無理に他のもので埋める必要はないのです悲しい気持ちを無理に抑える必要もありません悲しいという自分の気持ちを大切にしたら良いのですだって大切な人が亡くなったのですから無理して前向きに、元気になる必要はないのです』そう言われて気持ちが救われました。とらちゃんの子どもたちは案の定、時間ぎりぎりにお寺に現れました。もう、あきらめてましたから「あーやっぱり」という気持ちです。お坊様に申し訳
すごくドロドロした事を今から書きます。とらちゃんが亡くなった後に母と弟から言われた言葉達がどうしても許せないでいます。亡くなった後「心配だから毎日電話して」と母から言われ3週間近く毎日のように電話をしていました。そして電話のたびに傷つき悲しみは深くなり精神的におかしくなり始めていました。最初の一言は「いつまでも考えていても仕方ない」でした。そこから「大きな遺影なんていらないでしょう」「線香の匂いってイヤだよね」笑いながら「顔も思い出さない」って。
金曜日のロング勤務を終えて通用口を出たら凄い人!なに??と見たらかなりピンボケですが赤矢印の地味ーなバスに大衆が皆々静かに手を振ってる実はバスの左横は丸の内TOEIあぶない刑事のあのお二人が乗ってたのですスモークガラスで中は見えないのにお手振りお見送りですバスは静かに発車日比谷TOEI方面に消えて行きましたしかし!人垣が日比谷シャンテ方面まで繋がってたよ💧