ブログ記事15,783件
2日目(2016/2/12(金))その2愛媛:松山(道後温泉)↓前回のお話はこちら『2016四国奈良遠征2日目その1』2日目(2016/2/12(金))その1愛媛:松山(道後温泉)↓前回のお話はこちら『2016四国奈良遠征1日目その2』1日目(2016/2/11(木…ameblo.jpホテル道後ややの朝食バイキングだけでその1が終わってしまいました。それでは出発といきたいところですが、食べすぎたこともあって出発前に、道後温泉のあたりを散歩することにしました。昨日の
今日は、前々から行きたかった松陰神社と世田谷城跡を巡ってきました。↑松下村塾(複製)ここに来たかった理由は、松下村塾が丸ごと複製されていることと、吉田松陰の銅像の写真を資料用で欲しかったことです。資料用というよりは同人誌掲載用写真なんですが、本来ならば「絵・肖像画」を使いたいところ。しかし、絵や肖像画には著作権があるため、所蔵する施設への撮影許可や掲載許可申請の書類を書かないといけないんですね。で、写真の場合は撮影者が著作権者になるので、この点の手間が省けます。まー、それでも銅像類には
みなさんこんにちは、私です。今回は福井県三方上中郡若狭町の麻生野城を訪れます。宝重寺の前の駐車場に車を停めさせていただき、お堂の裏の防獣フェンスより山に入ります。防獣フェンス越え、とにかく上を目指して登っていきます。【東段曲輪】登り始めると、段々に築かれた曲輪の跡が続きます。【東二重堀切】城の主要部東側を二重の堀切で遮断し防御しています。奥側(西側)の堀切は竪堀となり、かなり下の方まで落ちています。【主郭まで段曲輪】二重堀切を越えると広い削平された曲輪
「富山城址公園」を観光し、町歩きに戻ります。いい感じの飲み屋街なんかがあります。地方のこーいうエリアには興味が尽きません。本願寺富山別院富山市総曲輪にある浄土真宗本願寺派の直属寺院であり、富山県東部における「本願寺派」の一大拠点。寺務所には「富山教区教務所」があり、富山県東部の本願寺派寺院を管轄しています。総曲輪通り商店街富山市中心市街地にある商
富山城址公園にやってきました。雪が積もっています。富山の中心地にある「富山城址公園」。7.06haの広大な敷地に「富山城」の城跡が公園として整備され、街中のオアシス的な憩いの場として親しまれています。園内には、メインシンボルの「富山城」があり、内部は「富山市郷土博物館」になっています。東洋の古美術等を展示している「佐藤記念美術館」、四季を感じる「日本庭園」や「松川茶屋」などがあります。「富山城」は1543年、「畠山氏」の守護代であった
5~6月頃を予定していたものの、外出自粛の流れでリリースを見合わせていた新機能「リア攻め記録」について、8月にリリースすることを決定しました。というのも、確かにこの機能、訪城した記録が付けられる機能である一方、過去に遡っても記録できる優れものでもあるので、ひとまず公開して、みなさんに使い慣れて頂こうという結論に達したためです。なので8月以降バンバン人混みに突入しましょう、と推奨するものではありませんのであしからず(;゚д゚)機能の役割分担が異なるので、今後3回に分けて機能紹介を
大阪の難読地名・交野市(かたのし)から奈良方面への帰り、大阪府交野市/奈良県生駒市/京都府京田辺市と三つの県境『三県境』付近を走行していました。明治時代初期の廃藩置県以前は、山城国/河内国/大和国の『三国境』でありました。運転しながらナビのマップを見ていると、高山城跡という文字を発見したのでちょこっと寄り道することに。現在の『三県境』、近世の『三国境』、そんな交通の要衝である場所に築城された城跡とは、地理的観点と歴史背景の境遇に興味が湧くものです。大和国鷹山
眞田神社の花手水GWの最終日のことです(ずいぶんご無沙汰しておりましたねw)旦那さんと娘とわんこと一緒に上田市にある砥石城跡へ上田市の文化財長野県上田市の国宝、重要文化財、県宝、市指定などの文化財252点を、写真と解説文で紹介するホームページですmuseum.umic.jp砥石城は山城なので砥石城があった場所へ行くには山のふもとの駐車場に車をとめ片道30分ほど山道を歩きます🐾軽〜〜〜い登山砥石城跡へ向かう山道の入り口にある案内板
先月末のブログで、予定が遅延していることを臆面もなく告知していた「公式縄張図」機能について、遅くなりましたが本日リリース致しました(。・ω・)!!改めてこの機能が何なのか、について説明しておきます。「公式縄張図」は、今年1月に実装された「縄張図取り込み機能」を補助する機能です。この取り込み機能は、ご自身で入手した縄張図を端末に取り込み、それを地図に合わせて表示させることで、実際城跡で現在地と縄張図が連動する、というものです。ただ、縄張図を入手できない、うまく地図に合致させられない
2021年7月31日。浪江町大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊前回は『東奥中村記』(『相馬市史5資料編2(史書類ほか)』相馬市、1971年)の記事の中から権現堂に関わるもののうち、「標葉郡椎葉庄取給事」の後半を確認してみました。権現堂城落城と標葉氏滅亡の記述は多くの記録で多少の違いはありますね。ところで、相馬氏による標葉郡支配の中で重要な役割を果たしたのが、権現堂城の鍵を雪の上に落として内応したといわれた藤橋隆豊という人物です。前回のブログでは泉田氏の甥ということで登場して
久能山は、推古天皇の時代に久能忠仁という人が山に「補陀落山久能寺」を建立したのが始まりで、戦国時代には駿府に侵攻した武田信玄がこの要害の地を気に入り、久能寺を移設し「久能城」を築きました。しかし武田氏滅亡とともに、駿河は徳川家康の領地となり、晩年を駿府で大御所として過ごした徳川家康がこの地に埋葬を命じ「東照宮」とされたようです。なので、東照宮=神社とかお寺とか思いがちですが、ここはもともとお城なのです。別格官幣社というのは、国家のために特別な功労があった人物を祀る神社を明治時
6月29日、この前半期最後の登嶺となりました赤滝城跡に登って参りました。どうしてこの日を最後にして秋口以降まで待つことにしたのか?それはさておき、平安時代末期には伊予の国司であった平維盛の目代は、源頼朝の求めに応じて兵を挙げた(その時の書状は高野山上蔵院・現在の高野山金剛三昧院に保存されている)豪族河野通清に敗れて赤滝城(明河)にたてこもり、その部下は文台城(志川)、大熊城(鞍瀬)の両城によって河野軍を防ぎました。中山川に流れ込むふたつの支流。その一つが鞍瀬川、もう一つが此処志古川でありま
〇神社の門前町として栄える城跡関東鉄道常総線で再び北上し、次なる目的地の大宝城へ。最寄り駅の大宝駅に到着。駅は待合室のみある無人駅です。駅から出てすぐ歩くと現在は民家が建ち並んでいますが、かつての大宝城の城域そのものです。画像右側には「大宝城」の標柱が建立されています。大宝城はかつて大宝八幡宮の境内内が本丸でした。関東最古とされる八幡宮として現在でもかなりの門前町となっています。結構店とかもあり、繁忙期には結構な参拝客が訪れる由緒ある場所です。この境内が本丸跡とされています。
お部屋に荷物を置いた後はお楽しみの温泉へホテル8階の津山温泉城見SPAお部屋のカードキーをタッチしないと入れません。廊下を進むと湯上りラウンジ津山城跡を一望できるテラスもあります。右側せっかくのテラスだけど暑いので城跡を見るだけ左側入口近く左奥は到着時の男湯作州黒の黒豆茶、季節のフレーバーティーなど一番奥が到着時の女湯百々温泉成分表内湯街中なので
宮城県石巻市にある石巻城跡。標高56mの日和山(ひよりやま)にあり日和山城とも呼ばれる。1983年の発掘調査で、ここに城があったと判明。1189年、奥州合戦の恩賞として、源頼朝の家人葛西清重が牡鹿郡ほか数か所の所領をまかされ、ここに城館があったらしい。遺構はなく、石巻城址碑があるのみ。この上の鹿島御児神社が主郭があった場所とされる。鹿嶋御児(かしまみこ)神社の鳥居。日和大橋、北上川河口、太平洋を一望できる。鹿嶋御児(かしまみこ)神社から階段を下がった城址碑近くにある
「縄張図取り込み機能」のリリースから2週間ほど経過しました。ニッポン城めぐりサーバーには画像は保存されないので、実際どれほどの縄張図が取り込まれたかは分かりませんが、みなさんのリア攻めに役立ててもらえているのならば本望です。さて、今日はみなさんが使い慣れて頂いた頃を見計らって、《設定編》《実用編》に続いての《補足編》です。リリース前は、運営チームでもいくつもの城跡で実際にスマホを使ってのテストを行っています。その際には、やはり自分が今いる曲輪と、縄張図内の現在地が合わない、
コーヒーショップであべ静江☕️コーヒーショップで1973年5月25日作詞:阿久悠/作曲:三木たかし/編曲:馬飼野俊一キャニオンレコードから発売されたあべ静江のデビューシングル。阿久はあべ静江本人には会っておらず、写真だけでイメージして詩を作ったが、前年にヒットした「学生街の喫茶店」の影響を受けたという。あべはこの楽曲で、「フリージアの香り」というキャッチ・フレーズでデビュー。古くから学生の街だった数々の青春を知っていた城跡の石段に腰おろし本を読み涙する人もいたそ
小田原駅~小田原城址公園~早川口遺構~西海子小路~正恩寺~御幸の浜~小田原駅。小田原城小田原城址公園HPより小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中ごろのことと考えられています。1500年ごろに戦国大名小田原北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として次第に拡張整備され、豊臣秀吉の来攻に備えて城下を囲む総構を完成させると城の規模は最大に達し、日本最大の中世城郭に発展しました。江戸時代を迎えると小田原城は徳川家康の支配するところとなり、箱根を控えた
先日、家族で、埼玉県行田市にある、忍城(おしじょう)に行ってきました。テレビのお城ランキングなどでよく見かけていて、ずっと気になっていたお城。我が家から車で日帰りでいけたので、長男が中学生になって部活で忙しくなる前に…と、この度行ってきました長男(小6)は日本史が好きで、教室に先生が置いておいてくれた本『のぼうの城』を6年生に進級してすぐ読み終えていました。のぼうの城Amazon(アマゾン)1〜3,500円私と夫も映画『のぼうの城』を事前にみて楽しみながら予習しました。
しまなみ海道を渡って因島にある村上水軍城にやってきました城の手前から旗や櫓がたっていますテンションあがりますね笑駐車場から坂やら階段を少し登って城に着きました!中は資料館になっていました人形に気合が入っていますかっこいいなあ、、鎧きてみたい展示の隙に武者が現れてびっくり結構リアルでした思ったより小さい施設でしたが、私は結構楽しかったです笑ただ、山ということもあって虫やクマバチが多い!!!!正面に山が3つありました青陰城跡(村上義弘の居城があったとされる)だそう
茨城県…かつての常陸国は南北朝時代には南朝側と北朝側の間で激しい攻防戦を繰り広げていました。これは常陸が南朝側にとっては数少ない有力拠点であったためであり、そのため北朝…実質的には足利軍にとっては攻略を目指すべき目標であったからです。そんな常陸国で最期まで抵抗を続けた公家武将がおりました。現在、『逃げ上手の若君』でも絶賛活躍中の春日顕国です。基本的には使い物にならない公家武将の中では数少ない戦において有能ぶりを発揮していた貴族。同じく日本史最強の貴族・北畠顕家卿の下で活躍し、彼の死後もそ
宿で、少しのんびりタイムもあり。近くの荒砥城跡へ散策に行ったり武将になってみたりと、。、
25日は役員会の日😥毎月はマジで面倒臭い😟来週からは、自治会の用事が続く😮💨さておき、連日の天気で田んぼの水が既に無くなってるのを横目に、涼しい晴れ間は当然ハイク日和☀️😆いつもの山では代わり映えしないので、気軽に登れる兵庫ふるさと100山の一つ金山へ🚙既に昨年踏破してるが、別ルートを通ってみたくて、再チャレンジ😁明智光秀が丹波攻めの際に築いた城跡だということは、前回登った時にも分かって登ったが、俺んちの近くの黒井城と篠山の八上城を分断するための城というのを意識してなかったので